ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:「和同銭」の鋳造:

その意義


 この時の「倭国王権」の政策としては、「富本銭」の鋳造の「失敗」を踏まえたものであったと見られます。その「失敗」とは第一に「鋳造不良」が多数発生し、大量生産できなかったことがあります。それは合金材料として「アンチモン」を選んだためであると思われ、この材料の特性として「融点管理」が非常に難しいため、鋳上がり不良が多数発生してしまったものと考えられます。このため「錫」の産出先を捜索したものと見られ、「丹波」からの「錫」によって「銅―錫」という合金で「和同銭」を鋳造することとしたのでしょう。
 第二に、それ以前に「無文銀銭」と「富本銭」の間で等価交換をこころみたものの失敗した訳ですが、さらに「公定化」した「一対十」という交換率も維持できたとは思えませんから、そのような「銅銭」に高い価値を与えることはできませんでした。それだけの信頼が当時の「倭国王権」になかったからです。
 第三に、その結果として「無文銀銭」の流通(需要)にストップがかけられませんでした。「銀」と「銀銭」に対する信頼と需要は根強く、「銀原料」自体の希少化に伴って「銀」の価値は「高騰」したと推察されます。
 当時の人々や各地域の権力者たちは「銀」に対する信頼を崩すことなく、希少価値のあるものや高額な物品、生産物等の交換には依然として「主役」として使用されたものでしょう。
 確かに「銀」は希少となり、対価としては高額になったものと考えられますが、かといって「銅」がそれに代わることは「実勢」が許さなかったと考えられ、「公定」しても無意味であったと思われます。

 「藤原遷都」時点における「倭国王権」は、これらを踏まえ、以下の施策を実行したと思われます。一つは「強制的な『無文銀銭』の使用禁止措置をどこかの時点で図ること」です。これを行い、「無文銀銭」を早期に回収することが必要と考えたようです。第二は発行する「銅銭」と「無文銀銭」の「公定交換率」を「一対十」として維持しようとしたらしいことが窺えます。もちろん「等価交換」は既に放棄していたものと見られます。
 第三は「銀銭になじんだ一般の商取引に「『無文銀銭』ではない『銀銭』」(しかも実重量としては少ない)を関与させることでした。最初にこのような「銀銭」を発行し、それを糸口に「銅銭」に誘導することを狙ったようです。
 これらの工夫をした上で「瑞祥」を口実に「改元」し、国家的なプロジェクトであることを明言して「貨幣発行」を行い、「無文銀銭」の駆逐と「銅銭」の普及を意図したものと推察します。
 その結果、以下の進行となったものでしょう。まず、「手持ち」の「無文銀銭」を「鋳つぶし」て、これを「和銅銀銭」として鋳造し流通させます。つづいて、「銀銭」から「銅銭」への切り替えを指示します。
 この指示は一般に『続日本紀』の以下の記事が相当すると考えられていますが、この記事についても「年次移動」の可能性が考えられるところです。(その場合「六十年移動」とすると「六四九年」のこととなります。)

「和銅二年(七〇九年)八月、甲申朔乙酉、廢銀錢、一行銅錢.」

 「銀銭」の使用禁止令とは、すなわち「回収」を命じたことでもあります。ただし、これが本当に使えないのであれば、人々は「銀銭」(無文銀銭)と「銅銭」との交換を「国家」に対して申し出たものと思われますが、その「禁止措置」が本当に有効であったかどうか考えると可能性としては低いと思われます。
 そして、続いて「手持ち」の「富本銭」を「鋳つぶして」「和銅銅銭」(「古和同」)を鋳造します。これについては「富本銭」回収の布告がないようですが、「富本銭」は「近畿以西にはほとんど出回らなかったものと考えられ、回収するまでもなかったもの思われます。(原材料だけはかなりあったと見られますが)
 これをある一定期間続けると、市中から「無文銀銭」そのものがかなり回収できます。そして、鋳つぶす「富本銭」もその原材料もなくなった段階で、新しい鋳造所で「新和同」の鋳造を開始したものでしょう。この時点の「銅材料」の産地としては「長門」(山口県)の「長登銅山」が支配的となったようです。また、鋳造所も同所にあったと見られます。
 『続日本紀』の「六九八年」の年次には「周防国が銅鉱を献じた」とあり、また「長登銅山」で出土した木簡のもっとも古いものに「七一一年」と推定されるものがあり、「和銅銅銭」(「新和同」)の製造開始年が推定されるものです。(七〇九年以降か)
 このようにして「無文銀銭」と「富本銭」をこの世から抹消し、「和同銭」が入れ替わって代表通貨の位置を占めるように「計画」を実行したものと推量します。

 しかし、結局「私的な」取引では「銀」が変わらず使われ続けていたようで、「七二七年」にはその「現実」としての「流通」を公認し、国家としての「公定レート」(銀と銅の交換比率)を設定せざるを得なくなったものと考えられます。そして、その後は実勢としての「銅銭」の価値が低いものを国家の手で変えることが難しいと判断し、やがて「銀銭」ないしは「銀」(のべ板状のものか)が取引の主役と認めざるを得なくなったものと思えます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2014/12/19)