「和同銭」は「開通元寶」(開元通寶とも)と規格(大きさ、重量)が全く同じであり、また中央に「方孔」つまり四角い穴が開いている点及び「四文字」名称となった点など全ての点において「開通元寶」を意識し、それに合せる意図があった事は明確です。ところでこの「和同銭」が鋳造されたのは「和銅年間」といいますから、西暦でいうと「七〇八年」とされます。しかし「開通元寶」が鋳造されたのは「初唐」の時期であり、「六二一年」が初鋳とされ建ています。その間「八十年ほど」の時間経過があることとなりますが、それは何を意味するのでしょう。この時以前には「開通元寶」を意識した貨幣は造られなかったということなのでしょうか。しかし「遣唐使」はその間幾度となく送られています。「唐制」を摂取するタイミングはいくらもあったはずです。もちろん「白村江」に象徴される「百済」をめぐる戦いの後かなり長い間外交としては空白があったことは事実です。しかし、「唐初」から「白村江」まで四十年ほど経過しているわけですから、その間に「唐制」を学ぶ機会はいくらでもあったはずです。そう考えると、この「空白」は不審といえるでしょう。
「木簡」からは「八世紀」には布・穀類と「銀」の換算に関するものしか確認できないため、この段階以前に「富本銭」は鋳造が停止されていたと推定されています。このことから「和同銭」の登場の年次は「庚寅年」つまり「六九〇年」という年次が有力視されていますが、私見ではさらに干支一巡遡上した「六三〇年」が該当する可能性があると考えます。 『旧唐書』の記載によると「高表仁」の来倭以降外交交渉が途絶えたらしいことが推察され、それが回復したのは「六四八年」とされています。この年に「新羅」に託して「表」(国書)を提出したとされており、この時期に「唐」との国交回復が図られたとすると、それは「謝罪」と「全面屈服」を伴うものではなかったかと考えられ、この時点で「唐制」の積極的受容が行われたとして不思議ではありません。つまりこの時点で「唐暦」受容など「唐」への「傾倒」が著しくなったという可能性が高いと考えられ、従来の理解と違って、「和同銭」は「七世紀半ば」に鋳造されたと見るべきではないかと考えられることとなるでしょう。
唐の貨幣の完全な模倣という事象は「開通元寶」との「完全互換」を目論んだ事に現れたものと見られます。
そもそもいわゆる「開元通宝」は「回読」(向かって右回りに読む場合)の「開通元寶」と「対読」(互いに直交した同士を読む場合)の「開元通寶」とがその読み方として考えられ、また議論されています。中国の「銭文」の歴史から言うと「対読」が基本であったはずですが、この貨幣については『大唐六典』、『通典』において「開通元寶」と回読されているのが意味を持っていると思われます。従来の「銭文」が「対読」されていたのに、あえてこの「開元通宝」を「回読」しているのはそのように読むべきと言う「国家」としての意志が示されたからであると思われます。
また、周辺諸国においても「高昌吉利国」の「高昌吉利銭」などにおいても回読され、また「次代」の中国においても「乾封泉宝」の銭文がやはり「回読」であるということなども知られています。これらのことはいわゆる「開元通宝」は「開通元寶」と読むべき事を示しているようです。
そもそも「開通元寶」が鋳造されたのは「唐初」であり、長きに亘った「五銖銭」にその時点で別れを告げることとなったものですが、その時点の「年号」は「開元」ではありません。「開元」はずっと後(百年後)の元号ですから、この時点で「開元」という「語」が意識されていたとは思われません。それよりも「開通」つまり「開き通じる」という語及び「元寶」という語(「寶箱」の意)の意義の組み合わせである、「寶箱」を開くという意味の方が強く意識されていたと思われます。そして、「倭国」においてこれを「完全互換」するために模倣したとすると「和同銭」が「和同開珎」と回読されたと考えるのが当然といえるでしょう。この「開珎」の「珎」が「寶」と同義であり、「開珎」が同様に「寶箱」を開く意と推定できることから、全体の意義として「和」でも「同様に」「寶箱」を「開く」ということとなって「開通元寶」に追随する意図があったことが推定できることとなります。
この「和同開珎」鋳造の時期においては国内には「無文銀銭」と「富本銭」が(ある程度)流通していたと思われます。新貨幣を流通の主役とするためにはこれらを回収・廃棄する必要があるでしょう。そのためには少なくとも「新貨幣」(和同銭)が「無文銀銭」や「富本銭」と「互換」でなければなりません。相互に交換できてこそ、新貨幣の存在価値があるわけです。
ところで、「無文銀銭」に「重量」の調節のため「小片」が付加されていた訳ですが、それが「小片」の付加という形態であったこと、また「その「小片」の付加方法も「銀蝋付け」ではなく「熱」によって「銀同士」をただ「接着」しているだけであることなどからこの時点では「銀精錬」に関するノウハウがなかったことを意味すると思われます。しかし、「飛鳥池工房」からは「和同銭」(古和同)も製造していたと思われ、その操業時期は「六三〇年付近」で停止しているのではないかと考えられることから、「古和同」の初期型である「銀銭」もここで製造されていたと考えられ、その製造開始時期はかなり遡上する可能性が高いでしょう。つまり「富本銭」鋳造開始時期としては「六二〇年代」としたわけですが、それ以降あまり遅くない時期に「銀精錬」を国内で行い始めたものと思料します。その技術により「無文銀銭」を「溶解」し、再度「古和同銀銭」として製造することが可能となったものです。
『書紀』によれば「六七〇年代」になってから「銀山」が開発されたように書かれています。(『二中歴』にもそれに該当する記事があります。)
「對馬國司守忍海造大國言。銀始出于當國。即貢上。由是大國授小錦下位。凡銀有倭國。初出于此時。故悉奉諸神祗。亦周賜小錦以上大夫等。」(六七四年)三年三月庚戌朔丙辰条
「白鳳 二三 辛酉(六六一〜六八三)対馬採銀観世音寺東院造」
しかし『二中歴』に関しては既に「干支一巡」の遡上を想定すべきとしていましたし、上の思惟進行からもこれらの年次は「七世紀始め」がもっとも考えられるものと思われます。この時点以降「倭国」でも「銀」の精錬と加工が可能となったものであり、その技術が「和同銀銭」を製造させたものと見られます。
「日本国王朝」は「無文銀銭」を鋳つぶすことで材料を調達すると共に、新たに「銀山」が開発されたことからさらに多くの銀材料を確保し、それを元に「新銀貨」を製造することとし、「和同銀銭」を鋳造したものです。
この「和同銀銭」は「無文銀銭」と大きさは同じですが、重量は約三分の二から二分の一しかないことが確認されています。これは初期「無文銀銭」の場合であれば、表面に貼り付けられた銀の小片を取り除いた状態で「鋳つぶした」ものであり、後期品(小片がない状態で10gあるもの)はそれを「適当」に切断して「鋳つぶした」と推定されます。(「飛鳥池遺跡」からも「切断」された「無文銀銭」が発見されています)
「重量」が少ないのは「和同銅銭」と同じ型から「鋳出」したからであり、それはある意味「偶然」とも言えますが、重量がこのように少なくても「無文銀銭」と「同じ価値」を持つことを「公定」により通用させようとしたのでしょう。そのために「和同開珎」という「文」(文字)を入れ、「無文銀銭」との「差別化」を図ったものと思われ、「国家の権威」により、「無文銀銭」と同じ価値を強制的に与えようとしていたものと推量します。さらに「富本銭」を材料として「和同銅銭」が鋳造されます。
また、「飛鳥池工房」から出土した「木簡」に書かれた「年次」についても同様に「六八七年」ではなく「六二七年」である可能性が考えられるでしょう。この年次付近で「富本銭」の「鋳造」が行われていたらしいと推定されるわけです。いずれにしてもそれ以前に「無文銀銭」と「富本銭」が(ある程度)流通していたと考える必要があります。
新貨幣を流通させようとするならばこれらを回収・廃棄する必要があります。そのためには「新貨幣」(和同銭)が「無文銀銭」や「富本銭」と「互換」でなければなりません。
「従来型」の「富本銭」は「難波朝期」の直前(六三〇年代)に「鋳造」が開始されたと想定した訳ですが、「和同銭」はこの「富本銭」と同様に「無文銀銭」の価値を安価な「銅銭」に引き継がせようと企図し、「無文銀銭」に取って代わる貨幣を作り出すことを目論見たものであり、その過程として、まず「和同『銀銭』」を鋳造したものと思われます。
(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2020/08/29)