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「藤原不比等」と「羊大夫」伝説


 群馬県に多野郡吉井町池(いけ)字御門(みかど)という場所があります。ここに「七一一年」の建立と伝えられる「多胡の碑」というものがあります。
 この碑には次のような文章が刻まれています。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

 これは朝廷が郡を設置して、それを「羊」という人物(?)に「給した」ということであるようです。碑文には時の朝廷の高官の名前が書かれています。(この碑文と同内容の記事が『続日本紀』の和銅四年三月六日の条にあります。それによれば「上野国の甘楽郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等六郷を割きて、別に多胡郡を置く」と書かれています)

 この碑文は「那須韋提」の碑と同様「朝廷」からの「文書」をそのまま書き写していると考えられます。その理由は「左大臣」と「右大臣」の名前の後ろには「尊」という敬称がついているのに対して、「宣左中弁正五位下多治比真人」というように「多治比真人」には何の「敬称」も付されていないことがあります。
 これは「宣」という言葉がついていることでも分かるように「弁官」としての「多治比真人」自身の言葉として「文章」が書かれているためと考えられ、それをそのまま「石碑」に引用しているものと推量されます。
 ちなみにこの「多治比真人」に該当する人物は「三宅麻呂」であると思われます。彼はこの「弁官符」が出された「和銅四年」(七一一年)の四年後の「和銅八年」(七一五年)にはその「左中弁」の上位職である「左大弁」の地位にあったことが確認されていますから、この「碑文」の「多治比真人」としては「三宅麻呂」しか候補がいないと思われます。
 この「碑文」の冒頭に書かれている「弁官符」という書き方は「弁官」の「符」からの引用です、という断り書きのようなものではないでしょうか。この「弁官符」が実質的な「太政官符」であったという考え方もあり、そうであればますます、その「符」の通りに書く必要があったと言うことが考えられます。
 そして「彼」(「多治比真人」)の言葉の中に「羊」に「給」う、というように「羊」という人物をある種「呼び捨て」にしているわけであり、また「給」うという言葉もいわば「上から目線」の言葉であって、そこに明確な「位階」の上下関係が存在していることを示すものです。つまり、この「羊」という人物はあくまでも彼よりも「目下」の人物であり、「在地」で任命された「郡司」であって、決して高い身分の存在ではないことが分かります。

 ところで、関東(現在の群馬県から埼玉県付近)には「羊太夫」伝説が各所にあり、それらの説には異同があってやや混乱がありますが、その内容としてはまず「羊」年の「羊」の日の「羊」の刻生まれであるため「羊太夫」と呼ばれた人物がいた、ということです。(ただし、「未年」という情報が欠落している伝承もあるようですが、「生まれ年」を「名前」とする例は圧倒的に多いものの、「年」の干支は「未」ではないのに それを名前にせず「月」や「時」が「未」であるからといってそれを名前とすることがあったとは考えにくいものであり、「年」「月」「日」「時」という四拍子が揃ったことで「羊」と称されるようになったと考える方が実際的ではないでしょうか。)
 また彼は本姓が「中臣氏」と考えられており、多胡家の墓地の石碑には「羊太輔・左大臣・正二位・藤原宗勝」と書かれていることや、「この仁、太政大臣の極官に任ぜられ候へども…」と書かれた文書も確認できます。(古来之聞書)
 さらに「青海羊太夫」とも呼ばれたようであること、(「釈迦尊寺の石碑」)そして「三日間朝廷に参内しなかったため」「討伐された」、とされている事、またその討伐された日付としては「養老四年八月八日」であり、その「討伐」には「安芸」(広島)地方より徴発された軍が主体をなし、討伐の褒章として「上州」「信州」「武州」の三州を賜った、という事等々が伝えられています。

 生まれ年が「未年」であると言う事及び「朱鳥」年間であるとする資料から考えると、「六九五年」」という年次が該当するという可能性が検討されるべきですが、これを「朱鳥九年」とするものもあり、この「朱鳥」が「六八六年」を元年とするものであるとすると、一年の違いが生じます。これは「六八七年」を元年とする「持統称制」期間との混乱が確認されるものであり、かなり早期に「朱鳥」についての混乱と忘却が発生していたことを示唆するものです。
 そして、これらの伝承と重なる人物として「藤原不比等」がいると言われています。(※1)たとえば「不比等」も「未年」生まれであり、元「中臣氏」であること、「右大臣・正二位」の地位に上がり「太政大臣」に請われていること(ただし『続日本紀』によればこれを断っています)、また死後「淡海公(=青海)」の謚名をされていること、また、『続日本紀』による死去した日付は「養老四年八月三日」となっていて現地資料と非常に接近していることなどがあります。それに加え死去した際の『続日本紀』の「葬儀」に関する記事が簡易に過ぎることがあるとされます。彼は当時「右大臣」と言う地位(要職)にあるわけですが、そのような高位にあるものが死去した際の例としては異常に「簡易」であり、葬儀担当者を定めたわけでもなく、翌日には人事を行っており、喪に服した形跡がないことなどがあるというわけです。また、死去に際しては、九州で隼人征伐をしていた「大伴旅人」を急遽都に呼び返し、京内の軍事面を補強していることも何らかの軍事的事変の発生を想定させるものとされます。
 これらのことから、「羊」=「不比等」説というものが出てくるわけですが、上に述べたように「羊」は「多治比真人」より目下の人物であると思われ、その場合「藤原不比等」は対象外とならざるを得ません(但し同じ「藤原」ないし「中臣」氏族であるとは思われますが)。しかも「生年」が「朱鳥年間」とするわけですから、通常の考えでは「不比等」は全く候補として論外となるでしょう。
 但し「朱鳥」についてはすでに検討したように「六四〇年前後」にその元年がある可能性が考えられますから、その場合の「未年」を考えると、「六三五年」あるいは「六四七年」が候補として浮かびます。それが「朱鳥十年」(九年は称制期間か)であるとすると、「元年」は「六二五年」あるいは「六三七年」となります。これが「日本国」創建の年次として「六四〇年」が想定されていることを考えると、「六三七年」が「朱鳥元年」(改元の年)である可能性が高く、その時点で「称制」が開始されたと見るべきでしょう、そして「唐」の「朔旦冬至」に使者を「蝦夷」を伴って派遣したのが「六四〇年」と考えられ、その翌年の正月の元日朝賀にその蝦夷も参加したというわけです。その際の「宴」で読まれた「漢詩」が『懐風藻』に収録されていると考えられるものです。

 地元の「羊大夫」伝承によれば「物部」滅亡の時点でそれに加勢していた勢力である「中臣」氏(「羽鳥連」とも「服部連」とも言う)が「関東」に「流罪」になったというように伝えられています。「羊大夫」はその子孫であると言うこととなっているのです。
 ところで、「難波朝廷」の「東国」統治強化の時点で、『常陸国風土記』にあるように「高向大夫」とともに「中臣幡織田連」という人物が「アヅマ」の地を「統治」する事を任されています。
 彼らは「総領」とその「補佐」として「常陸」に所在していたものと考えられますが、「我姫(アヅマ)」の国をより細かく統治するためそれまでの「道―国」制を改め「広域行政区域」としての「国」を定め、従来の「クニ」を「県」として「国県制」を「アヅマ」に施行したものと推察されます。これらにより、「倭国」中央のつながりを確保すると共に、「自分たち」自身の「東国」全体に対する影響力の確保も合せて行ったものでしょう。
 「羊大夫」伝説の中心地は「北関東」であり、元々この地域は、ここに地盤があった「関東王権」の中心的な地域でしたが、「利歌彌多仏利」の「日本全国統一」という事業遂行の中で「行政」の網をかぶせられることとなったものと考えられますが、「倭国中央」の文化(宗教など)の強制などの施策を受け入れていく中で「地方政権」として矮小化されていったものと推量されます。
 このような中で「元々」「倭国政権」に近い立場であった地域である「常陸」より「総領」として「高向大夫」、「中臣幡織田連」の支配を受けることとなったことが(後の)「羊大夫」伝説につながっていくこととなると思われます。
 ここで「羊」に付されている「大夫」という呼称は『常陸国風土記』の中でも「総領高向大夫」というように使用され、「難波朝」において「律令」が制定・施行された際に「五位以上」の官職に対する「称号」として使用され始めたものと思料され、「羊」もこの制度の中で「五位以上」の官職を得ていたという可能性もあります。
 「五位以上」となると「太宰府」「摂津職」などにおいては「次官」以上の地位に付くことが可能であり、「高向大夫」「中臣連大夫」として出てくるのは「惣領」という地位が、それら「摂津職」などの地位と実質変わらないことを示すもののようです。
 「羊」(「羊大夫」)という人物はこの「中臣幡織田連」の「子孫」ではないかと考えられ、「不比等」も同族だったのではないかと考えられるものです。

 このことに関して、伝承では「羽鳥連ないし服部連」の子供が「菊連」であり、その「子供」が「羊大夫」とされていますが、それでは「年代が合わない」という可能性が高いと思われます。
 「物部守屋」滅亡の際に「羽鳥連ないし服部連」はその「一味」として「流罪」となって東国に来たとされています。しかし、「羊大夫」が「多胡郡」を「給」されたのが「養老八年」とされこれは通常「七一一年」と考えられており、彼がこの時三十〜四十歳ぐらいとすると、生まれたのは「六七〇年」ぐらいとなります。
 また「未年」生まれと言われていますから、該当するのは「六七一年」ではないかと推定されることとなりますが、そうなると「父」である「菊連」がやはりその頃「三十歳前後」と推定すると、彼の生まれた年は「六四〇年」前後になってしまいます。しかし、彼は「羽鳥ないし服部連」が「東国」に流されてから現地で生まれたとされていますから、「物部」の滅亡が「五八七年」のことであり、それから東国に流された後彼が生まれたとすると、仮定した「六四〇年」までは約「五十年」ほどあり、この空白を埋められません。
 このことから考えてもしこれを、「羊大夫」の生まれた年を十二年遡った「六五九年」と見なすことができたとしても、「菊連」の生まれた年が「六三〇年」ぐらいにはできそうですが、それでもまだ「羽鳥連」がよほど若いとき(十代後半)に流罪となり、それから四十年ぐらい経ってからできた子供という想定をしなければいけません。この想定はちょっと「無理」があると考えられ、「恣意的」に過ぎるでしょう。とすれば、伝承が示す「世代交代」には「明瞭」な疑いがあることとなります。
 既に一部述べていますが、『続日本紀』記事には「干支一巡」程度の遡上を想定すべき部分があり、それをここにも適用すべきことと思料します。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之」

 上のように『天武紀』には「巡行天下而限分諸國」という記事がありますが、この記事は「三十五年遡上」の対象記事であり、実際には「六四八年」の出来事であると考えられるわけですが、ここには「大錦下羽田公八國」という人物が出てきます。この人物はその「羽田」という名称からも「中臣『幡』織田連」や、「羽鳥」「服部」とも同義と考えられ、この人物がその「羊大夫」であると考えられるものです。

 このように「伝承」で「子」と表現されている場合、「子孫」の意味で使われている場合が往々にしてあるようです。例えば「備前」の「難波氏」の場合、この一族は「保元物語」などにもその子孫が出て来ますが、彼らの先祖は「欽明十七年」「備前国」に「児島屯倉」が設けられたとき、その「田令」に任じられ、「田使首」の姓を賜わった「葛城山田直広主子瑞子」に始まる、とされています。(『書紀』に該当記事があります。)
 『古代氏族系譜集成』が収載する「系図」によれば、彼の「子供」である「息海」は「大化二年」に「児島『評造』」に任ぜられたとあり、さらに彼の「息子」である「枳波美」は児島郡の「大領」となったと記されています。しかし、これら記事の時系列には不審があります。これが実際の親子関係を表すとすると年代の違いが大きすぎるのです。
 「欽明十七年」は「五五六年」と考えられますから、「葛城山田直瑞子」の「子供」である「息海」が「評造」になったのが「六四五年」では九十年も間が空いてしまいます。これを「干支一巡」遡上する「五八五年」と考えると、四十年後のこととなりますからまだしも父と子の関係としては成立すると言えそうです。
 また、「大領」は「七〇一年」の『大宝令』で制定されたものではなく、「五十七年前」の「六四四年」と考えると、「息海」と「枳波美」の間は「五十九年」となり、これは「親子」というにはやや困難があるといえるでしょう。
 つまり、「息海」は「瑞子」の「子供」とおもわれますが、「枳波美」については「息海」の「孫」ではないかと推定される事となります。(但し、「大化」が九州年号の「大化」ならば「息海」が「評造」になったのは「六九六年」となり、「大領」となったという「枳波美」は彼の子であったとして不思議ではありません。)
 このような例と同様、「羊大夫」についてもまた「子孫」であって「子」ではないものと思料されます

 また、伝えられる史料の中には「流罪」となっていた「羽鳥とその子供の菊連」が「大赦」を受けて復権したように書かれているものもありますが(※2)、これは「六四七年」の「利歌彌多仏利」の死去の際の「大赦」と考えられ、当時の「流罪」というものの有効期間が「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の親子が生きている間であったらしいことが読み取れます。「物部」が滅亡する事件発生の際に生きていた「両天子」の死去を以て「罪状」が消滅したと考えられたのではないでしょうか。

 この「石碑」の周辺にはいくつか古墳が見られますが、それらの古墳のうち「初期」のものと考えられる古墳からは(北山茶臼山古墳)「三角縁画文帯盤龍鏡・玉類・刀類」が出土し、それはあたかも「三種の神器」のような組み合わせです。また、「五〜六世紀」のものと推定される古墳からは「舟形石棺」が見られます。いずれの出土物も「北部九州」に関係の深いものであり、それは以前から「倭国」との関係が深かった「常陸」の領域と、「北関東」領域の関係が新たに構築されたことを示していると考えられます。

 このように「中臣氏」と「北関東」の間には深い関係があったように思えます。その意味で「藤原不比等」という人物も「関東」と関係があるのではないかと考えられるものです。
 可能性としては「不比等」は関東の出身であり(彼の父親等関係者は常陸に在住していたと思われます)、何らかの「手柄」を立て「中央」に進出していったと思われます。
 それが「和銅」産出だったのではないでしょうか。


(※1)関口昌春「羊大夫伝承と多胡碑の謎」文芸社


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)