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「藤原不比等」と「鎌足」


 いわゆる「大化の改新」が「六四五年」ではなかったと見られているわけですが、それと共に「蘇我氏(入鹿)」を宮中で殺した「乙巳の変」についても同様に「六四五年」ではなかったという考え方があります。(基本的にこの二つは別の出来事と考えられます)
 ただし、『書紀』によれば、「乙巳の変」により「蘇我氏」が排除されたことにより「天皇」に「権力」が集中する体制を構築できたことになっていますから、「改新の詔」が出されるためにはそれなりの「条件」ないしは「状況」が必要になるのは当然であり、その意味でも「障害」となっている人物や勢力の「排除」が必須となると考えられるものです。そう考えると「乙巳の変」とよく似た状況が「改新の詔」が出された時点で起きたことが想定できるかもしれません。
 ただし、「乙巳の変」とネーミングされているぐらいですから、(『続日本紀』にも出てきます)実際に干支が「乙巳」であった可能性が強く、前述したようにこれは「六四五年」であった可能性が高いと思料します。

 当初の「改新の詔」は「七世紀初頭」に出されたと見られ、前述したように「倭国王」への「権力と資産の一元化」というものを大胆に進めるものであり、これに対する反発や不満は国内にかなり強くあったものと思料されます。このような「不満」は、それを押さえつけている圧力が何かの拍子に「ゆるむ」と一気に吹き出るものであり、「カリスマ」的人物などが死亡した後などのいわば「権力の空白」が生まれたような時が一番形となって現れやすいものと思われます。
 前述した『懐風藻』記事から考えると「日嗣」は「高市皇子(高市天皇)」であり、その「皇子」(皇太子)は「長屋王(親王)」と考えられ、「藤原宮」は彼のために造られた宮殿と考えられます。
 そして、その後「長屋王」は「藤原宮地」が完成し「遷居」したと思われる「乙巳」の年(六四五)に「皇位継承」がなされたものの、その直後に「長屋王」に対する「事件」が起こり、その結果「長屋王」に対する「廃位」が行われ、別の人物が「皇位」につくような事が起きたという可能性があります。
 そして、これらのことが『書紀』に「乙巳の変」として「『蘇我』打倒のクーデター」の話に書き換えられたものではないでしょうか。
 この場合「乙巳の変」は実質的には「長屋王」体制を打倒・追放する「東国の豪族」が主体となって起こしたものであったと見られ、この場合の「東国」の豪族というのが「藤原不比等」のことを指すと考えられるものです。

 彼とそれを支持する勢力にとって、彼らを押さえつけていた「圧力」は「高市天皇」であり、「皇太后」であるところの「宗像一族」であると考えられます。
 彼らが存命中には容易ではなかったことが、まだ若い「長屋王(親王)」が「皇位」につくに及んで「皇位」の「簒奪」と言うことが可能となったものと思われるものです。
 「高市皇子」は「天武」(大海人)に擬されるものであり、また「皇太后」は「宗像君」の身内であり、「革命」を起こした「天智」を追放したものです。その「天智」の「革命」に尽力したのが「中臣鎌子(藤原鎌足)」であったと思われ、「不比等」にしてみれば志途中で倒れた「父」と「天智」の思いを復活させることを狙ったものと推量されます。
 しかし、結局は国内統治の点から云うと「大義」の有無は重要であり、権力の継承性が確保されているかは、国内諸国の関心事であったと思われ、「不比等」と「新日本国王権」はそれをあるかの如く装う必要があったと考えられます。
 その一環として『書紀』を編纂し「不比等」の行動の正統性確保のために、『孝徳紀』に「大義」確保のためにおこなったことという「虚偽」を書いたものです。

 「孝徳天皇」は即位して直ぐ(是日)に「鎌足」に関して「忠誠」を褒めそやす「詔」を出しています。

「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。」

 しかし、ここで彼が授けられた「錦冠」は「六四七年」になって初めて定められたものであり、この段階で出てくるのは「不審」です。
 また、この「孝徳天皇」の「顕彰の詔」以後『孝徳紀』では「鎌足」に関する記述は見えなくなります。「有馬皇子の変」の際にもまったくその姿が見えません。替わりに「中大兄」の腹心として活躍するのは「蘇我赤兄」なのです。
 それに対し「八世紀」の「文武天皇」は「不比等」を顕彰する「詔」を出します。しかし、その中身の主眼は「鎌足」の忠誠を褒めそやすものであり、「建内宿祢」(「神功皇后」や「応神天皇」に仕えた)の「忠誠」に匹敵するとさえ言っていますが、「子」である「不比等」が特に何かした、というわけではないように読み取れます。
 この「顕彰」の「詔」を出すべき前兆らしいものが何もなく、突然であり、ここで「鎌足」の忠誠を顕彰する理由、目的が不明なのです。

『続日本紀』巻三
「慶雲四年(七〇七)四月壬午十五。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。」辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。

 これは本来この「詔」が「鎌足」に対してのものであり、またその時代に出されたものであることを示唆するものであると思われます。
 また「鎌足」の死亡原因にはいくつか「説」があり、「天智天皇」から「死」を賜った、つまり、「死を」命じられた、というものもあります。これは「鎌足」が「新羅」の「文武王」に(朝廷に無断で)「船」を贈り、それが「天智天皇」の不興を買い、いわば「腹を切らされた」という説です。この「船を贈った」というのは書紀にも「藤原家伝」にも記載があるのですが、(ただし、『書紀』では「新羅」の「使者」である「金東厳」に対して「贈物」を載せるため、という名目で贈ったと書かれています)「藤原家伝」には「周囲の人が諌めたが、聞き入れなかった」様子が書かれています。
 またこの船について家伝には「信船」と書かれており、通常の船と違い個人的な通信のためのものではないかと考えられます。(信書の用法と類似)
 しかし、これが事実とすれば、この「六六九年」という年次は、すでに「百済」を巡る攻防が一段落している時期であり、特にこの種類の「船を贈る」ということが、「利敵行為」と考えられた、ということもないものと思慮され、何か「矛盾」を感じます。それよりも「落馬」により負傷しその傷が癒えず、そのまま死去した、という別の説の方が説得力があります。
 「一九八二年」に京都山科で古墳の発掘中人骨が発見され、その頭に「大織冠」と推測される「織物の帽子」をかぶっていたため、「藤原鎌足」ではないか、という説が流れました。その際、その人骨をエックス線で透視したところ、背骨とあばら骨が折れており、その折れ方が現代の「オートバイ事故」での折れ方に非常によく似ていることから、「落馬」によるものではないか、という指摘があったものです。また、骨折した部位が治癒しかかっているのが見て取れたため「即死」ではなくその療養中に死亡したらしいことも確認され、その点も伝えられる「藤原鎌足」の死亡記事とよく合致する、ということになっています。
 現状ではいずれの説が有力かは何とも言えませんが、『書紀』の死亡記事が「整然」としすぎているのは確かです。

(「鎌足」の死去した記事)
「天智天皇八年(六六九)十月辛酉十六。藤原内大臣薨。日本世記曰。内大臣春秋五十薨于私第。廼殯於山南。天何不淑。不憖遣耆。鳴呼哀哉。碑曰。春秋五十有六而薨。」

「十月甲子十九。天皇幸藤原内大臣家。命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔。仍賜金香鑪。」

 この『書紀』の記事によれば死後三日で「天皇」自ら「鎌足」の家に行き、「蘇我赤兄」に「詔」を奉じさせ、「金の香廬」を賜ったとされます。しかし、後の『扶桑略記』によれば「鎌足」の死が近づいた、というので「天皇」から「金の香廬」を賜った、というように書かれており、まだ生前中に「金の香廬」を賜ったようであり、これは『書紀』とは食い違っています。
 また、「鎌足」の死去した際の記事を見ると「日本世記」という「高麗」の僧の書いた歴史書からの引用はありますが、天皇の「哀悼」の言葉などが書かれていません。このような重要人物の死に際して時の「天皇」(この場合「天智」か)が何も言わないのはあり得ず、また死去後三日経ってから弔問に行く、というのもずいぶん遅いのではないでしょうか。
 これに対し「不比等」の死去時の記事は『続日本紀』に以下のように書かれ、病気になってからは「罪人」を釈放するなど、「天皇」が彼の回復を願っているのがわかります。「天皇」や「皇子」以外で「病気回復」を祈って「大赦」を行っているのは他に例がありません。
 このことは「不比等」の死去に関する記事と「鎌足」の記事とは本来「一つ」のものであったのではないか、という可能性を感じさせるものです。

『続日本紀』巻八
「養老四年(七二〇)八月辛巳朔。右大臣正二位藤原朝臣不比等病。賜度卅人。詔曰。右大臣正二位藤原朝臣■疾漸留。寢膳不安。朕見疲勞。惻隱於心。思其平復。計無所出。宜大赦天下。以救所患。養老四年八月一日午時以前大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。私鑄錢。及盜人。并八虐。常赦所不免。咸悉赦除。其癈疾之徒。不能自存者。量加賑恤。因令長官親自慰問。量給湯藥。勤從寛優。僧尼亦同之」

「八月癸未三。(中略)是日。右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉。爲之廢朝。擧哀内寢。特有優勅。弔賻之礼異于群臣。大臣近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也。」

 これらのことは「不比等」の所業というものが実は「鎌足」の所業の反映(あるいは所業そのもの)なのではないか、と見ることができそうであり、これらの記事については「年次移動」されているのではないかという疑いが浮かびます。


(この項の作成日 2011/07/28、最終更新 2014/12/19)