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平城京遷都の実態と藤原遷都との比較


 既に述べたように、「平城京」の各所の建物及び部材は「藤原京」から移築あるいは運ばれたものと見られている訳ですが、その中でも「白眉」といえるものは「大極殿」です。
 「平城京」の大極殿は「藤原宮」の大極殿を移築したものであり、また「恭仁宮」の「大極殿」もさらにそれを移築したものと判明しているのです。
 しかも、「考古学的調査」の結果『続日本紀』に示す「平城京遷都」と記された「和銅三年」(七一〇年)にはまだ「大極殿」も、それを取り巻く築地回廊も未完成であり、それどころかその場所は「整地」さえされていなかったと見られています。
 つまり『続日本紀』の「和銅三年」(七一〇年)正月の「元日朝賀」は明らかに「平城京」で行なう事は不可能であったものです。(当然何もない空間では「儀式」は行えないでしょう。)

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔条」「天皇御大極殿受朝。隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎兵。引隼人蝦夷等而進。」

また同月十六日記事では「重閣門」の存在が書かれています。

「丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。」

 このような「門」がこの時の「京」には存在していたわけですが、この時「平城京」が建築途中であればこの記事は「平城宮」のことではなかったこととなります。通説ではこの「元日朝賀」は「藤原宮」で行われたと見るわけですが、疑問があります。このような場合新都が造営完成までの間は「旧都」が使用されたと見るのが相当ですが、その「旧都」とはどこのことでしょう。やはり「藤原京」なのでしょうか。しかしそう決めつけることはできません。なぜなら既に複数の史料に「難波から平城京」へと遷都したという記録があります。つまりここにおける「旧都」とは「難波京」ではなかったかという疑いが生じます。

 また「平城京」には「大極殿」が東西二つあったと見られていましたが、近年その「東側」の大極殿下層から「掘立て柱建築」による建物跡が検出されました。
 これに関する一般的な見解は、「中央」の「大極殿」が「儀式空間」であり、また「朝堂」つまり「政務」を取るスペースとみなされ、「東側」の下層「掘立て柱建物」については「天皇出御空間」であってまたこれも「朝堂」とみなせるというものでした。
 つまり、「天皇」が直接タッチするかどうかで分けられていると考えられ、一種の「分業」という考え方が行なわれているようですが、これについては異論があります。
 私見ではこの「掘立て柱建物」は「仮宮」としての「内裏」であると思われ、「難波京」からの「遷都」の際の「仮」の「宮殿」であったと思われます。この「掘立て柱」建物を造った段階で、「倭国王」はその「仮宮」に移動したものであり、この時点を以て「遷都」としたものと考えられます。これが『続日本紀』に記された「和銅四年」(七一〇年)の三月のことではなかったでしょうか。

「和銅三年(七一〇年)三月辛酉条」「始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。」
 
 つまり、この「遷都」記事は「東側下層」から発見された「掘立て柱建物」への「移動」を指すものと考えられ、その後おもむろに「藤原宮」の大極殿が「移築」され「西」の「大極殿」として建設されたと推定するべきでしょう。(移築完成は和銅八年正月以前と思われます)
 このようにこの「掘立て柱建物」の意義を「内裏」として考えると、政務及び儀式は依然として旧宮殿である「難波宮」とその周辺の「曹司」で行なっていたものと考えられます。
 そもそも「遷都」「遷宮」とは基本的に「天皇」の「居所」が移動することであり、「政務」の場所はあくまでもそれに付随するものであって、「政務」を司る高官が(共に)移動するしないは「遷都」とは直接関係しなかったと思われます。「王」の居するところが「都」の中心ですから、それが移動したならば「遷都」と言いうる訳です。「政務」を取る場所が変わらなくても「天皇」の「居所」が移動するような場合は「遷都」ないしは「遷宮」という形容となったと思われます。
 そして、この「平城京」の「遷都」に関わる状況は、前王朝である「藤原京」遷都の際の様子によく似ていると考えられるものです。(というよりそれを「先例」としたかと推察されます)

 「藤原京」においても、出土した木簡の解析によって「東面回廊」の完成は「七〇三年」以降であり、また『続日本紀』の記事によれば「七〇四年段階」で宮殿予定地には民家があったとされます。しかし「遷都」については『書紀』に「六九五年」の年次で書かれているわけであり、これを「平城京」の状況に重ねて考えて見ると、まず「掘立て柱建物」を「大極殿」(というより「内裏」)として「藤原京」内の「どこか」に建て、そこに天皇(この場合「倭国王」)が居する状態となった時点で、「遷都」と称していると思われます。
 それは「中務省」に関する木簡が「大極殿」の中からは出ておらず、至近の「官衙地域」から出てくることにもつながっていると考えられます。
 「中務省」に関連する木簡が大量に出土するのは「宮域」の外部(左京七条一坊付近)からであり、この付近に「中務省」が存在していたことを想定させるものですが、「中務省」と「天皇」とは本来直結しているものであり、「天皇」の言葉を直接「詔」として文書を作成するというのが役目であることを考えると、この時この至近に「掘立て柱」建物の「仮宮」として「内裏」が存在していたことを推定させるものです。
 そして、その後おもむろに「宮地」に入る民家を立ち退かせ、跡地に礎石建物として「大極殿」を造り、並行して「回廊」など「築地塀」を作って区画する作業を行なったと見られるのです。
 このように考えると、「平城京」移転に際して同様の「手法」がとられたと見ることができると思われ、「平城京」の場合「遷都」からその「大極殿移築完了」まで「五年」(七一〇〜七一五)を要しているように見えますから、それは「藤原京」においても同様に「五年」あるいはそれを上回る建設期間があったことを物語りますが、「藤原京」の場合「大極殿」は「移築」ではなく「新築」であり、「設計」も含めると明らかに「移築」よりも時間がかかったと考えられ、そうであれば「七〇四年」の「宅地移転」という記事から、少なくとも「二〜三年」は必要であり、(「聖武」の時代「恭仁宮」への移築は二年かかっています)「七〇六〜七〇七年」あたりで「大極殿」の建物が出来上がり「回廊」も完成して区画されたこととなります。つまり「遷都」と記された「六九五年」から「十二年」程度は経過していることととならざるを得ないものと思料されます。
 この推定は一見「元明」の即位時点に重なるようにも見えます。

(慶雲)四年六月(七〇七年) 庚寅。天皇御『東樓』。詔召八省卿及五衛督率等。告以依遺詔攝萬機之状。
秋七月壬子。天皇即位於『大極殿』。

 この即位記事の「大極殿」とは従来「藤原宮」のことと考えられてきましたし、その前条の記事の「東楼」とは「発掘」で明らかになった「楼閣」を指すと考えられてきたようですが、そうとは断言できなくなっています。
 上に述べた推論によればこの「元明即位」は「藤原宮」ではなく「難波宮」の事とも考えられるわけです。「東楼」もやはり「前期難波宮」の発掘で確認された「楼閣」と考えることもできます。(そもそも「難波宮」の設計思想は「藤原宮」に継承されていますから、同様の構造となっていて不思議ではありません。)
 和銅三年の「大極殿」が「難波」ならばその三年前の「即位」の際の「大極殿」も(同じ「元明」の統治期間であり)、同様に「難波」のことと見るべきこととなるとともに、さらにはそれ以前の「文武紀」「持統紀」(ここには「前殿」としか出てきませんが)「天武紀」に出てくる「大極殿」も同様に「難波宮」のことと考えるべきこととなります。
 少なくとも『文武紀』に出てくる「大極殿」が「藤原宮」のものではないのはすでに見たとおりですから、これは「藤原宮」以外の場所にある「大極殿」と考えざるを得ません。しかし当時「大極殿」という呼称にふさわしく、また「統治」の中心として機能していたと思われるのは「難波宮」しかないと言って良いのではないでしょうか。これを「飛鳥浄御原宮」と想定するのは無理と思われます。いわゆる「エビノコ郭」では「内裏」的機能はあっても公的行事が行う事ができるほど前庭が広くありません。

 「平城京」造営を計画したのは『続日本紀』によれば「和銅元年」(七〇八年)の事であり、既にその時点で「候補地」の選定が終わっていたらしいことを考えると、実際には「藤原京」が「完成」する間もなく「移転」(遷都)の計画が起きたこととなります。
 これらのことは「藤原宮」の「掘立柱」としての「内裏」ができてそこへ移動した後「文武」「持統」はその在位期間のほとんど(あるいは全部)をその「仮宮」としての「内裏」で統治したという事となり、「藤原宮御宇」という言葉の実態が示されることとなったと思われます。つまり彼等の治世期間中は「藤原宮」は「未完成」であったと言うことになるでしょう。

 また「平城京」への「藤原京」大極殿移築が完了したのは「和銅七年」(七一四年)と考えられます。それは「平城京」において「大極殿」という表記の初出が「霊亀元年」(和銅八年)(七一五年)の「元日朝賀」の儀式の際であり、この時点が「移築完成」のタイミングであったと思われますから、それ以前に「移築」が完了している必要があるでしょう。
 また、この「霊亀元年」は「元正」即位の年でもあります。

「靈龜元年(七一五年)春正月甲申朔。天皇御大極殿受朝。」

「靈龜元年(七一五年)九月庚辰 受禪。即位于大極殿。…。」

 このことは、この「平城京」遷都及び「藤原宮殿」移築という事業が「元正」のためのものであったという事を推察させるものであり、「旧日本国(倭国)」王権の隠蔽がこの時代に行われたことを示すものといえるでしょう。またこの時点で「大赦」を行い「大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸從赦除。」としていますが、既に「亡命」しているものに対する呼びかけはなくなっています。それは「大伴旅人」による「隼人勢力」に対する弾圧がすでに行われ、成果が出ていることを踏まえたものでしょう。


(この項の作成日 2013/04/07、最終更新日 2019/10/20)