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「平城京」遷都の理由


 『続日本紀』によれば「七一〇年」に「平城京」へ「遷都」することとなったわけですが、その「遷都」の理由としてはいろいろ言われています。
 ひとつには「藤原京」内を流れる川が「内裏」(宮殿)近くを経路としていたため、河川への汚物の流入により、「内裏」の衛生状態がかなり悪化したこともその理由とされています。
 また、「遣唐使」を派遣したことにより、「唐」のキ「長安」の「築城」の形式を学んだこともその理由の一つとされています。「藤原京」は「宮殿」が「京の中心域」にある、古いタイプの都城形式であり、「長安」などの、「宮殿」が「京」の「北辺」にある形式の存在を知り、それを模範とするべきと考えたかもしれません。(平城京はまさにそのような「北辺」に「宮殿」があるタイプです)
 しかし、それらの事情があったにせよ、「藤原京」が出来てから余り「時間」が経っていないにも関わらず、「新京」を作る意味についてはわかりにくいものがあります。
 『書紀』によれば「六九五年」に「藤原京」へ「遷都」しているように見えますが、『続日本紀』の「七〇四の条には「藤原の宮地を定めた」という記事も見えます。その記事によれば「宮域」とされた場所に多数の「烟」(戸)があったことが記されています。(「宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟」とあります)これはそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、『書紀』に示す工程の「信憑性」を疑わせるのに十分であると思われます。
 さらに、「藤原京」から出土した「木簡」によっても「東面回廊」の完成が「七〇三年以降」であることもまた明らかになっています。
 これらのことから、「藤原宮」の完成は非常に遅かったこととなりますが、そのことは即座に「平城京」の完成と年次が接近することを意味します。つまり「完成間もない」にも関わらず「新京」築造を開始したこととなってしまうわけであり、非常に「急いで」新京造営が決まり、また移転したこととなると思われるわけです。
 「平城京」造営を計画したのは『続日本紀』によれば「和銅元年」(七〇八年)の事であり、既にその時点で「候補地」の選定が終わっていたらしいことを考えると、実際には「藤原京」が「完成」して程なく「移転」(遷都)の計画が起きたこととなります。しかも、重要なことは「平城京」への「遷都」と共に、「前宮」である、「藤原宮」の「解体」が行われたことです。

 「平城京」の遺跡からは「藤原京」から運んだと思われる「部材」が多数確認されています。たとえば「藤原京」で「宮殿」の周囲を囲う「築地塀」に使用された「柱」部材が、「平城京」の「樋」の部材として使用されている例があります。この部材は総数「千本以上」ありますが、全て「引っこ抜かれ」運搬されています。後には「穴」しか残っていない状態でした。
 通例「新京が」でき、「遷都」が行われても、「前京」を必ず「解体」しなければいけない理由はありません。現にその後の「長岡京」でも、(後期)「難波京」でも、「平安京」でも、以前の「京」を、しかも「一切合切」解体し、運んで再利用した、ということは確認されていないわけです。これは「藤原京」に限って行われたことなのです。
 これを「古代のリサイクル」と称する向きもあるようですが、そのような性質のものではないのではないかと思えます。それではその後の「新京」を作る際にも「継続的に」前京を解体することが行なわれなかったこと、つまりこれが「前例」とならなかった理由を説明する必要があります。
 「新京」に移ったからと言って、「前京」の部材を「全て」持って行き、再利用したり、廃棄したりするような行動は明らかに「不審」であると思われます。
 これらの行動により「藤原京」は、いわば「跡形もなくなって」しまうわけですが、これは「藤原京」という「政治舞台」の「隠滅」を謀ったのではないか思われます。

 『書紀』によれば「飛鳥京」では以前より「遷宮」が行われていました。「王」の代が代わった際には別の場所に「宮殿」を立て替える、という「遷宮」を行ってきていたものです。
 それに対し「倭国」では「宮殿」は代替わりでは立て替えられず、そのまま使用されていました。「藤原宮」ができたのは「難波宮」が火災にあったからであり、同じ場所に建て替えをしなかったのは、「呪術的」な意味もあると思われますが(火災発生した宮殿に対する忌避)、「飛鳥」が元々「倭国王権」の「離宮」的場所であり存在であったからであると考えられます。
 つまり、「倭国王」は、「難波宮殿」被災後は「離宮」である「飛鳥宮殿」の「エビノコ郭」に建てられた(仮の)「大極殿」に所在していたと考えられ、「儀典」などの以外には、常にそこにいたものと推定されます。このことから、新宮殿建築においても「飛鳥宮殿」からほど近い場所が選定されたものと考えられ、すでにある程度人々が居住していた地域ではあったものの、その街並みをある程度生かした形で「藤原京」が作られているものと考えられます。
 このようにして、「藤原京」は「飛鳥」に作られたものですが、それはあくまでも「倭国」の「王都」であり、「倭国王」の「宮殿」であったわけです。
 「新日本国」に政権が移った時点の「八世紀」の「元明」政権にとってみれば、それは「存在してはならない」ものの一つであったのではないでしょうか。このため、急いで「平城京」という、中国「北朝」の影響を強く受けた「京」を造る事とし、「南朝」系王朝である「倭国」の王都であった証拠を全て「隠蔽」しようとしたと推察されるものです。

 『続日本紀』の「和銅元年二月十五日条」には「元明天皇」が以下の詔を出したとされています。

「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。」

 これは「新都造営」の「詔」ですが、この「詔」は原典があります。それは「隋」の「高祖」(文帝)の詔です。
 彼は新都の造営を決意し、「開皇二年(五八二年)六月」以下のような「詔」を出しました。

「朕砥奉上玄、君臨万国、厨生人之倣、処前代之宮、常以為 作之者労、居之者逸、改創之事、心未邉也、而王公大臣陳謀献策、威云、義・農以降、至干姫・劉、有当代而屡遷、無革命而不徒、曹・馬之後、時見因循、乃末代之宴安、非往聖之宏義、此城従漢、彫残日久、屡為戦場、旧経喪乱、今之宮室、事近権宜、又非謀笠従亀、謄星揆日、不足建皇王之邑、合大衆所聚、論変通之数、具幽顕之情、同心因請、詞情深切、然則京師 百官之府、四海帰向、非朕一人之所独有、荷利於物、其可違乎、且股之五遷、恐人尽死、是則以吉凶之土、制長短之命、謀新去  故、如農望秋、錐暫鋤労、其究安宅、今区宇寧一、陰陽順序、安安以遷、勿懐脊怨、竜首山川原秀麗、卉物滋阜、卜食相土、宜建都邑、定鼎之基永固、無窮之業在斯、公私府宅、規模遠近、営構資費、随事条奏」

 この「元明」の「詔」は見比べておわかりのように、文章の前後を入れ替え主語や目的語を入れ替えているものの、ほぼ全文が「隋」の「文帝」の「詔」からの「剽窃」、といって悪ければ、「手本」としたものとなっています。
 ここで「隋」の「高祖」の詔が「手本」として出てくる理由はどこにあるのでしょうか。それは『書紀』や『続日本紀』のかなりのものが『隋書』を手元に置きながら編集したからであり、その時点では依拠すべき史書として『隋書』が最も重視されていたことを示しています。
 中国では「前漢」の「武帝」以来、多くの「王朝」が「長安」(旧城)に都城を築き、都としてきました。「後漢」以降「魏晋朝」には「東遷」して「洛陽」をキとしていましたが、その後の「北魏」を除き「北朝」は「前趙」「前秦」「後秦」「西魏」「北周」と連続して「長安」を「都」としてきたものです。そして「隋」が成立すると「高祖」(文帝)は「長安」からやや離れた「漢城」の南東の「竜首原」地域に新都を造営することとしたものであり、上の「詔」はこの時に出されたもので、この「都城」は「大興城」と名づけられました。
 この場所は「文帝」が「北周」時代に将軍として支配していた地域であり、その場所に対する思い入れがあったことは確かですが、それとは別に「新都造営」の動機として言われるのは、「隋」の「文帝」にとって「旧長安城」という歴代の「北朝」のキを捨て、新都を造営することで新しい権力構造を構築することが主眼であったと見られるものであり、それは「文帝」においてそれまでの「北朝」政権とは違う次元の王朝を構想していたからであると考えられます。そして、それは「南朝」征服という事業に結実したわけですが、「元明」においてもこれと同様の意味があったのではないかと考えられるでしょう。つまり「周礼」方式といえる「藤原京」を捨て、「北朝」形式のレイアウトを持つ「平城京」という「全く新しい」キを構築することで、旧来の権力構造の再構築を図ったものであるとされているわけです。
 「元明天皇」はその意を「隋」の「文帝」の「詔」を真似ることで、実現しようとしていたと考えられます。
 これは「前述」したように「平城京」の造営と移転というものが「元明天皇」の「新日本国王権」にとって、「藤原京」を造営した「日本国王」(旧倭国王)という存在(権力)と「隔絶」していることを意味するものであり、「隋」の「文帝」の時代に「南朝」を征服し滅亡させたように、彼らにも「前王朝」を「否定」する意が込められていたと考えられます。


(この項の作成日 2011/09/25、最終更新日 2017/01/30)