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「庚午年籍」とその帰趨


 「庚午年籍」については『続日本紀』に「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したという記事が出てきます。この段階でそのような記事が出てくるというのは、「大宰府」にその「写し」あるいは「原本」がなかったたため、広く捜索した結果発見(入手)されたものと思われます。しかし後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は太政官つまり朝廷に提出するとされています。

(戸令 造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里其年籍。五月卅日内訖。二通申送太政官。一通留国〈其雑戸陵戸籍。則更写一通。各送本司〉。」

 上の規定はそれ以前の「庚午年籍」でも同様の取り扱いであったことが推定され、「庚午年籍」においても「国府」だけにあったはずがなく、さらに『続日本紀』のこの記事では「筑紫諸国」の「庚午年籍」についてのみ言及があるところを見ると、欠落していたのは「筑紫諸国」の分だけであったものと思われ、「筑紫」にだけあって「聖武」の朝廷に残っていない理由は一見不明です。
 この欠落が「難波朝廷」の焼亡と関係していると見ることもできるかもしれませんが(「朝廷」に提出されていた分が焼失したという可能性)、「筑紫」の分だけが焼けたとも思われず、別の理由を考える必要があるでしょう。
 可能性としてはそもそも「筑紫諸国」の分は朝廷には提出されていないということもあり得ます。
 「庚午年籍」は「国」ごとに造られたと思われ、「筑前」「筑後」など「筑紫諸国」の場合も同様各々の国ごとに造られ、各国府にその原本を保管すると共に「大宰府」にそれらの諸国から提出された写しがあったと見られます。
 ところで、西海道諸国は「租税」など全般に共通する取り扱いとして「朝廷」に直接ではなく「大宰府」に提出するという流れがありましたが、これはそれ以前の統治形態を遺存していると思われ、「庚午年籍」についても同様であったという可能性があります。そう考えると「庚午年籍」造籍時点の「朝廷」は「筑紫」にあったとするのが最も妥当するのではないでしょうか。この場合「大宰府」には「倭国」内諸国の「庚午年籍」が集められていたこととなります。
 通常「庚午年籍」は「天智」による「近江朝廷」の業績として語られますが、実際にはまだ「九州倭国王権」が広範囲に統治権を行使していた時期と思われ、「庚午年籍」の写しは全て「九州倭国王権」つまり「大宰府」に提出され集積されていたと見るべきでしょう。
 またここでは「筑紫諸国」の「庚午年籍」だけを捜索しているようですから、他の国の分については「大宰府」にあったものと見られ、「筑紫諸国」の分だけが何らかの理由により亡失していたものと思われるわけです。それは前述したように「新日本王権」への統治権委譲とそれに伴う「首都」の移動の際に発生した事象と思われ、反対勢力により「大宰府」から外部へ持ち出されたものと思われるわけです。

 そもそも「僧尼」に対する「公験」の授与が七二〇年の正月から始められており、これ以前には行われていなかったことが明白ですが、同じ年の二月に「薩摩隼人」の「反乱」が始まっており、この両者に関係があることが察せられます。

四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。
二月…壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。
三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。

 新日本王権が「公験」授与の権利を得、その権利行使に必要な「官籍」つまり「筑紫諸国」の「庚午年籍」を手に入れようとしたことが反乱の発端かもしれません。「新日本王権」はこの「庚午年籍」が大宰府にないことは当然すでに把握していたはずであり、すでに「探索」していたものと思われ、それを「(大隅及び薩摩)隼人」が保持しているのを承知していたのかもしれません。それを「大隅国守」が入手しようとして彼等の抵抗にあったということではなかったでしょうか。
 この反乱は「七二三年」には収束し、その時点で新日本王権の統治地下に入った僧尼がかなりいたものと思われますが、彼等の戸籍の入手がこの段階ではまだできていなかったものですが、そのまま放置するわけにも行かなかったものであり、翌年に禅譲を控えていたため新天皇即位の後奏上し「詔報」を得ることとしていたものではなかったでしょうか。このような経緯の後「筑紫諸国」の「庚午年籍」の探索が続けられ七二七年なって「やっと」入手できたということと思われ、この時点以降「公験」授与が「九州地方」の僧尼に対しても「官籍」と「綱帳」の双方を勘案して行うことが可能となったものと思われるのです。

 ところで、これが「大宰府」から持ち出されたのはいつの時点かというのも興味あるところです。「新日本王権」へ禅譲される以前なのか、以後なのかということを考えると可能性が高いのは「持統」の詔を否定する「大宝令」の施行細則を決めた「元明」時点でのことではなかったでしょうか。
 「元明」はその即位の「詔」で「山沢に亡命」しているものに降伏を呼びかけています。

「…亡命山澤。挾藏軍器。百日不首。復罪如初。…」

 この呼びかけは、この時点ですでに反対者が多数発生していたことを示します。また「京師」「畿内」と共に特に「大宰所部諸国」に「調」の免除を行っています。

「…京師。畿内及大宰所部諸國今年調。天下諸國今年田租復賜久止詔天皇大命乎衆聞宣。…」

 この「大宰所部諸国」というのが「筑紫諸国」に相当するものと思われ、特に「京師」「畿内」と並び「筑紫」に「調」を免除する特典を与えているわけですが、「元明」は「藤原宮」を破壊し「持統」の「詔」を否定し遡って「無効」とするなど「持統王権」側から見ると受け入れられない行動をとっていました。彼等(旧倭国勢力)が「大宰府」に収蔵されていた「庚午年籍」を(「軍器」などと共に)持ち去ったと見るのは不自然ではありません。そんな彼等に対する「懐柔策」として上記大赦等が行われたものと見られ、「新日本王権」としてはその対処に苦労していたことと思われるわけです。

 「新日本王権」に対して異議を持つ者たちは「山沢」に亡命したというわけですが、その際「筑紫諸国」以外の「庚午年籍」には手をつけなかったらしいことが上記推論からうかがえますが、それは「筑紫諸国」以外の国府保管分までは押さえられなかったからと思われ、彼等は「大宰府」にあった元々の「筑紫王権」の直轄領域だけの分の写しと各国府にあった「原本」についても持ち去ったと見るのが相当でしょう。


(この項の作成日 2020/03/28、最終更新 2020/11/28)