既に見たように当初の『日本紀』は「七世紀半ば」までしか書かれておらず、『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定した訳であり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったわけです。
これについては一般に(多元史観論者の中でも)これを「文武」が実在であり、「孝徳」が「造られたもの」という理解がされているようです。それは『孝徳紀』が「宣命体」の文章や『大宝律令』を背景とした記述などが推定され、そのことから「八世紀」の事実を反映したものという理解からのようです。しかし、それは「予断」「偏見」の類ではないでしょうか。つまり、その様なもの(「律令」的制度や文言あるいは「宣命体」の詔等)が「七世紀半ば」に「あったはずがない」といういわば固定観念に縛られている結果と思えます。
しかし、逆に考えれば、「たかが」数十年程度の差などあって無きに等しいのではないでしょうか。その「年差」はそれほど「絶対視」出来るものであるかと考えると、そうではない見方があっても不思議ではないと考えます。
既に触れたように『書紀』と『続日本紀』を見比べてみると「孝徳」と「文武」には多くの「共通点」があるように思えます。
(1)共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いています。
「孝徳天皇」は「皇極天皇」からの譲位であり、「文武天皇」は「持統天皇」からの譲位です。また、死後「斉明天皇」と「元正天皇」(共に女帝)が跡を継いでいます。
(2)さらに両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。彼ら以外の天皇は『書紀』で見る限り即位は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており、際だった違いがあります。
「孝徳」が「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「改元」は同じ月の「乙卯」(十九日)に行われています。(大化)
「天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。(十四)天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄更名古人大市皇子。曰。大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。…
乙卯。(十九)…改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」
これに対し「文武」は「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年から「文武」としての年数が数え始められています。
「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)
「(六九八年)二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。」
『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、他の天皇の即位とは際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっていますがこのような改元も「孝徳」と共通しているのです。
本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定してしまいかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が立てられた理由ともなっています。
『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえるものです。
(3)両者とも「明神」「現神」という「神」を前面に出した称号を使用して「詔」を出しています。
「孝徳天皇」が出したとされる詔には「明神」という称号が使用されています。
「大化元年秋七月丁卯朔 丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神』御宇日本天皇詔旨。」
「大化二年二月甲午朔戊申『明神』御宇日本倭根子天皇(後略)」
それに対し「文武天皇」の詔には「現神」という称号が使用されています。
「文武元年(六九七)八月庚辰十七 庚辰。詔曰。『現御神』止大八嶋國所知天皇(後略)」
これらの称号はほぼ同じ意味であり、「自ら」を「神」の位置に置くものと思われます。つまり、「天帝」とみなされる「天照大神」からの「直系」という意識が言わせる用語と考えられ、彼らに共通しているのは、自らを「皇祖」「瓊瓊杵尊」と同格な存在と規定していることではないかと考えられるものです。
(4)共に「皇子」時点の名称は「軽」です。
「孝徳天皇」は即位前「軽」皇子でしたが「文武天皇」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。
(5)また、共に予定された「皇太子」ではなく、また「即位」でもありませんでした。
「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極天皇」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。これに対し「文武天皇」は「草壁皇子」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
父である「草壁皇子」は「皇太子」でしたが、他に「高市皇子」「川嶋皇子」「舎人皇子」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁皇子」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)
(6)「改革」のパートナーが共に「藤原氏」であること。
「孝徳天皇」は「鎌足」をそのパートナーとしましたが、「文武天皇」はその息子である「不比等」をパートナーとしました。
『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。
「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」
このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。そして「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」(鎌子)に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰相」として諸官の上にある、としたのです。
「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(孝徳即位前紀)
また、『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことをあげ、その上で「不比等」に「食封を賜った」ことが書かれています。
「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」
ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。
『続日本紀』の「功田下賜記事」には、「乙巳の変」においての「鎌足」の功績が抜群である(大功とされている)として「褒賞」として、与えられた「功田」について「世世不絶」として「永年」にわたる子孫への継承が許されていることがあきらかとなっています。
「天平寳字元年(七五六年)…十二月…壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。…」
しかし「藤原姓」を与えられるなどのことは「天智朝」において行われているものであり、それらと「難波朝」における「鎌足」の功績というのがしっくりきません。「乙巳の変」においても「鎌足」の出番らしいものは『書紀』には全く書かれておらず、事前の計画段階でも登場しないのです。にも関わらず「大功」であるとされます。
このように「難波朝」での功績らしいものは特に目立たないのですが、この「文武」の詔によれば明らかに「鎌足」は「難波朝」における功績を激賞されており、「鎌足」の活躍というものは「天智朝」ではなく実際には「難波朝」においてのものであったということとなりますが、その意味では「孝徳」と「鎌足」の関係が深かったことを示唆するものであり、それは「文武」と「不比等」の関係に重なるものであることをこの「詔」そのものが示しています。
『書紀』や『続日本紀』記事では「中大兄」と「鎌足」というのが「絶妙なコンビ」として描かれているものの、それは実は単なる「印象操作」によるものであることとなるでしょう。
(7)在位期間が近似していること。
この両者については「在位期間」も似たような長さになっています。
(孝徳天皇)即位:「六四五」六月丁酉朔庚戌(十四日)
死去:「六五四」白雉五年冬十月癸卯朔壬子(十日)
在位期間は「六四五年六月 - 六五四年十月」の九年四ヶ月(約一一七ヶ月)
(文武天皇)即位:「六九七」文武元年八月甲子朔(一日)
死去:「七〇七」慶雲四年六月丁卯朔辛巳(十五日)
在位期間は「六九七年八月 - 七〇七年六月」の九年十ヶ月(約一二三ヶ月)
以上のように「孝徳天皇」と「文武天皇」の在位期間はほぼ等しいと言えるでしょう。
(8)また一見してわかるように「文体」が共通です。
『孝徳紀』の文章は、まるで『書紀』の中に突然『続日本紀』が出現したような「違和感」があります。これは「宣命体」を下敷きにして書かれていると考えられ、この時点で「宣命体」で「詔」が出されていると「悟られ」ないように、書き改めた結果と思料されます。
以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「持統付近」で『書紀』が一部作られていたとすると「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。そのような場合『続日本紀』よりも『書紀』が遅れて書かれたこととなる可能性さえ出てくてしまいます。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果であると考えられるわけです。
これら上に述べた全てのことは「孝徳」と「文武」が酷似していることを示していますが、それは必然的に彼らに禅譲を行った「皇極」と「持統」が酷似していることにもなるでしょう。
それに関して「皇極」に「堕地獄伝承」があることが注目されます。これは『善光寺縁起』に明確なものですが、「皇極」が死後地獄に堕ち、鬼達に引き据えられ、上半身の衣服をはぎ取られて拷問を受けている様子が描かれています。そのように彼女が地獄に堕ちた理由として挙げられている中に興味ある一節があります。
「…此女人、罪業深重者也、全不可免、其故以五障三従賎身穢十善王位、『妨正道憲法道理』、致非理非法責、故天下不静万民懐愁、吹気成黒煙、只此女人一人身上…」
ここでは特に『妨正道憲法道理』とされていますが、これに関係があると思われるのが「持統」の「伊勢行幸」です。
そこでは側近である「三輪君」が「冠」を脱ぎ捨てて諫言したとされますが、それが「聖徳太子」が制定したという「十七条憲法」に違背しているというのがそのような諫言を行った理由と思われますから、間違いなく『妨正道憲法道理』であるわけです。
「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」(上宮法皇)の投影であり、彼は死後「仏陀」と同一化が進行していたようですから、彼に対する違背は「仏陀」に対する「違背」であり、そうであれば「地獄」に落ちたとして不思議ではないこととなるでしょう。その意味でも「持統」と「皇極」は同一人物と見られるわけです。
上に縷々推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。
(この項の作成日 2011/04/28、最終更新 2016/02/27)