すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。
『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。臣聞黄軒御暦。沮誦攝其史官。有周闢基。伯陽司其筆削。故墳典新闡。歩驟之蹤可尋。載籍聿興。勸沮之議允備。曁乎班馬迭起述實録於西京。范謝分門。聘直詞於東漢。莫不表言旌事。播百王之道猷。昭徳塞違。垂千祀之炯光。史籍之用。蓋大矣哉。伏惟聖朝。求道纂極。貫三才而君臨。就日均明。掩八州而光宅。遠安邇樂。文軌所以大同。歳稔時和。幽顕於焉&氈B可謂英聲冠於胥陸。懿徳跨於勳華者焉。而屓戻高居。凝旒廣慮。修。國史之墜業。補。帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。是以故中納言從三位兼行兵部卿石川朝臣名足。主計從五位下上毛野公大川等。奉詔編緝。合成廿卷。唯存案牘。類無綱紀。臣等更奉天勅。重以討論。芟其蕪穢。以撮機要。■其遺逸。以補二漏。刊彼此之枝梧。矯首尾之差異。至如時節恒事。各有司存。一切詔詞。非可爲訓。触類而長。其例已多。今之所修。並所不取。若其蕃國入朝。非帝制勅。語關聲教。理皈勸懲。ハ而書之。以備故實。勒成一十四卷。繋於前史之末。其目如左。臣等学謝研精。詞慙質辨。奉詔淹歳伏深戦兢。有勅藏于秘府。」
(以下訓読)
「癸丑。右大臣從二位兼行皇太子傅・中衞大將藤原朝臣繼繩等の、勅(みことのり)を奉じて國史を修め、成る。詣(けい)を闕(か)き拝表をして曰はく「臣聞かく、黄の御暦を軒(あ)げ、沮誦(しょしょう)の其の史官を攝(か)ね、周の基(もと)を闢(ひら)くに有りて、伯陽の司は其の筆を削り、故(いにしへ)の墳典を新しく闡(ひら)き、驟(は)して蹤(しょう)の可なるを尋ね歩き、聿(ひつ)を興(おこ)し籍に載せ、沮の議を勸め、允(おさ)め備ふに曁(およ)ぶ。班と馬を迭(たが)ひに起し、西京において實録を述べ、范と謝の門を分ちて東漢の直詞を聘(と)ひて、言の旌事(せいじ)を表さざるはなし。百王の猷に通ずるを播(し)き、昭徳の塞(そく)の違ひ、千祀の烱光を垂れ。史籍の用は、蓋し大きなるや。伏して聖朝を惟(おもむみ)きて、道の纂に極むを求め、三才を貫き君に臨みて、日の明く均なるに就き、八州を掩ひて光宅たり。遠く邇樂を安じて、文の軌するところを以つて大同す。歳は時に和すを稔じ、幽かに焉(ここ)に?福を顕し、胥陸(しょりく)の英聲を冠すると云うべし。懿と徳の勳華を跨(また)ぐは焉(これ)なり。高居の?(い)を負ひて、廣慮の旒(しるし)を凝(こ)らし、國史の業の墜(うしな)ふを修め、帝典の欠文を補ふ、爰(ここ)に命(みことのり)して臣を與げ正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道・少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等に、次の其の事を銓(はか)らせしめ、『以つて先典を繼がせしむ。若(けだ)し夫れ、襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。但し宝字より宝亀に至る、廃帝の受禪、策を簡する遺風を、南朝の登祚の從湧において茂實を闕(か)く。』是を以つて故中納言從三位兼行兵部卿石川朝臣名足・主計頭從五位下上毛野公大川等の詔(みことのり)を奉じて編緝し、合せて二十卷は成なる。唯、牘(とく)の類(たぐひ)を案ずるに紀に綱無し存(な)り。臣等、更に天勅を奉じて、重ねて以つて討論し、其の蕪穢(ぶわい)を芟(のぞ)き、以つて機要を撮(と)り、其の遺逸を庶(ひろ)ふを以つて闕漏(けつろ)を補ひ、彼(か)の此の枝梧(しご)を刊し、首尾の差異を矯(たは)む。時節の恒の事に至るが如く、各(おのおの)の司の一切の詔(みことのり)の詞(ことば)の存(あ)るを有するのを訓(をし)ふるを可(ゆる)すにあらず。類(たぐひ)に触れ其の例を長(おさ)め、已の多きは、今、之を修むところに、並(ならぶ)る所を取らず。若(けだし)し其の蕃國の入朝、常あらざる勅語の關聲を制し、教理は勸懲に歸し、総て之を書(しるし)し、以つて故實を備なふ。勒して十四卷は成り、前史の末に繋(つな)ぐ。其の目(もく)は左の如し。臣等の学の研精、詞の質辨の慙を謝す。詔(みことのり)を奉じて淹歳(えんさい)たり、伏して深く戦兢(せんきょう)す」と申す。
勅(みことのり)有りて、秘(ひそやか)に府(おほやけ)に藏(おさ)めむ。」
ところで先に見たようにこの記事とは別に『日本後紀巻五』に『続日本紀』編纂に関する記事があります。
「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之龜鏡。炳戒昭簡。作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳。道契八眉。握明鏡以惣萬機。懷神珠以臨九域。遂使仁被渤海之北。貊種歸心。威振日河之東。毛狄屏息。化前代之未化。臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳。孰能與於此也。既而負・餘閑。留神国典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足。刑部卿從四位下淡海眞人三船。刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等。分帙修撰。以繼前紀。而因循舊案。竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已。寳字元年之紀。全亡不存。臣等搜故實於司存。詢前聞於舊老。綴叙殘簡。補緝缺文。雅論英猷。義關貽謀者。惣而載之。細語常事。理非書策者。並從略諸。凡所刊削廿卷。并前九十五年・卷。始自草創。迄于斷筆。七年於茲。油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善□惡。傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺。裁成国史。牽愚歴稔。伏増戰兢。謹以奉進。歸之策府。」
この記事の年次は上の「逸文」の記事の「以降」のものであり、時系列としては「逸文」が先行しています。しかし、内容を見ると「逸文」では「菅野真道」以下による『続日本紀』撰進が「中途半端」であったので、再編集したという意味のことが書かれていると考えられるのに対して、それ以降の記事とされる「巻五」の方が「逸文」で否定された「菅野真道」等により『続日本紀』が撰上されたという趣旨の記事が書かれています。このふたつの記事は明らかに「矛盾」であり、両立できないと思われます。このことはこの両者に対する根本的な疑いが発生するところです。
『日本後紀逸文』は「菅原道真」が「勅」によりまとめた『類聚国史』などに引用されていたものですが、「巻五」及びそれを含む計十巻は江戸時代になって突然出現した史料です。「応仁の乱」以前には四十巻存在していたとされていますが、その後散逸したとされていたもので、これについては「塙保己一」(の門人)が京都で発見したとされていますが、そもそもそこまで全く史料として見つけられていなかったと言うことも不思議です。
『日本後紀』には「偽書」の疑いがあるものもかなり多く、この「塙保己一」版にもその疑いが発生するところです。
一般にはこの巻本については「偽書」とはされていないようですが、「逸文」と矛盾するとすれば、どちらかに問題があることとならざるを得ません。(一説にはこの「塙保己一」版は「柳原紀光」(公家)による「校訂本」であるというものもあるようです)
史料的には「逸文」の方が確実性が高く、また「素性」も確かであるのに対して、「十巻本」については一抹の不明確さがあると思われます。このことはこれら異なる系統の写本の間で「互いに矛盾する」記事があった場合「逸文」の方が信憑性が高いと判断できることを示します。その「十巻本」の中には「但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。」と書かれた部分があり、これによれば「文武」が「七世紀末から」「八世紀」にかけての人物であると判断できる訳ですが、これと「矛盾する」と考えられるのが冒頭の「逸文」の記事内容です。
この「逸文」の中には「先典」という言い方が出てきます。これは前述の『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「清原御寓の前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。
そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「清原宮」で統治した(「清原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「清原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。しかし、「清原(宮)」というものがいつ出来たのかと考えると、旧説とは異なり、前述したように「天智」の革命王朝の時点ですでに存在していたと推定されます。
「国史大系」の『日本後紀逸文』の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それでは「持統」が不在になるばかりか「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまいます。この解釈には通釈としても問題があることは間違いありません。
現代ではこの部分については「清原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔にも「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。
「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」
これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。
「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」
この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。このため単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われます。つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。
上に見たように「逸文」の記述では『続日本紀』の記述対象期間としては「干支」などが記載されておらず、その点が「十巻本」と異なっています。しかし、この「十巻本」のこの部分の記述に「不審」があるのですから、この「干支表記」も同様に疑わしいと考えざるを得ないこととなるでしょう。
そのことは鎌倉時代の僧「凝然」が著した『三国仏法伝通縁起』からも裏付けられます。
「三国仏法伝通縁起(下巻)」
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?(もたらす)来所以然者。…」
この記述によると「道光」が「遣唐使」として入唐したのは「天武天皇」の時代のこととされているようですが、この「道光」は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が『書紀』にあります。
「白雉四年(六五三)五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聡 道昭 『定惠〈定惠 内大臣之長子也〉』 安達 安達中臣渠毎連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 氷連老人 老人眞玉之子。或本以學問僧知辨 義コ 學生坂合部連磐積而増焉 并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」
つまり彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことであって、「天武」の時代ではなかったはずなのです。しかし、この「道光」が帰国後著した「一巻書」として『依四分律鈔撰録文』という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされています。このことから(「凝然」も含め)一般にこの「浄御原天皇」を「天武天皇」のこととする訳ですが、それでは『書紀』の記述と整合しないこととなってしまうわけです。
また、上の『三国仏法伝通縁起(下巻)』中では「而其帰朝。定慧和尚同時。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に帰国したとされていますが、「入唐」が同時であったのは「白雉年間」の記事で判明しますから、彼らが行動を共にしていたというのは不自然ではありません。しかし『孝徳紀』に引かれた「伊吉博徳」の言葉として「定惠以乙丑年付劉コ高等舩歸」とありますから、彼は「乙丑年」つまり「六六五年」には帰国したこととなりますから、これとは食い違います。
また「帰国」については「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、もし「天武」により派遣されたとするなら「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなってしまいます。しかし、これは仏教の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、『書紀』に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉コ高等舩歸』 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶今年共使人歸。」
この「乙丑年」は「六六五年」であり、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったのではないでしょうか。
このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、「道光入唐。未詳何年。」としています。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は『書紀』と整合しないことを知っていたものと思われます。それはこの時代に「遣唐使」が送られたという記録は『書紀』にないことからも疑問に思われたのではないかと推察されます。
『書紀』で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが『孝徳紀』であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、『孝徳紀』の記録に気づいてなかったと云うことも有り得るかも知れませんが、知っていて「無視」したとも考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられます。これに注目した結果『孝徳紀』の「道光」は「別人」とでも考えたのかも知れません。
しかし、これらのことは「道光」が云う「浄御原天皇」というのが「天武」ではないことを如実に示すものと思われ、「七世紀半ば」の「倭国王」が「浄御原天皇」と呼称されていたと云うことを示すと思われます。
以上のことは「大長」年号について書いたことでも補強されます。
「大長」という年号はいわゆる「九州年号」中に存在しますが、史料によりその場所(年次)が異なるのが知られています。『二中歴』によれば「大化」の後に入れられているのに対して、『八幡宇佐宮御託宣集』では「持統」の代の記事として書かれています。また「常色」と「白雉」の間、つまり「七世紀半ば」に入れている史料もあります。(『如是院年代記』、『開聞山古事縁起』など)
この記事がもし正しければ『伊豫三島縁起』において「文武」ではなく「天武」と書かれている事とつながります。
『伊豫三島縁起』では「…天武天王御宇『天長九年』《壬子》六月一日。…」(『続群書類従』巻第七十六「伊豫三島縁起」の段)とあり、これらからは「大長」についてその元年が「壬辰」(「六四四年」)であり、「六五二年」までの九年間継続したという推定も可能となります。その場合『伊豫三島縁起』の「壬子」という年は「六五二年」と考えるべき事となるでしょう。つまり「白雉元年」と一致するわけです。
さらに上に見た『伊豫三島縁起』は以下のように「東夷」を「征罰」したとされています。
「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日。為東夷征罸。第一王子伊豆國御垂迹云云。」
ここでは「天武天皇」が「東夷征罸」するために「第一王子」を「伊豆国」へ派遣したように書かれています。この「東夷」が何を意味するかは不明ですが、『書紀』には「天武」が「東夷」を「征罸」した(あるいはそのために「王子」を派遣した)というような記述は見あたりません。ましてこれを「文武朝」と考えると「王子」(後の聖武天皇)は「文武」の死去した時点でまだ七歳であったとされますから「東夷」など征伐できるはずもなく、そのような記事は『続日本紀』にはありません。
この「東夷」がいわゆる「蝦夷」を指すとすると、『書紀』を見ても「蝦夷」への武力対応は『斉明紀』に最も明確であり(「阿倍比羅夫」の遠征として描かれています)、それは「六五〇年代」ですからまさに「七世紀半ば」の出来事となります。その場合「壬子」とは既にみたように「六五二年」を指すとみて矛盾はないわけです。
この記事に対応するのは『天武紀』にある「伊勢王」の「東国限分」記事(以下)ではないでしょうか。
「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔…辛巳。遣伊勢王等定諸國堺。…」
「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔…己丑。伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…。」
これらの記事のうち前二つの記事では「諸国」とされていますが、実際にはそれが「東国」のことであったのは三番目の例が示しています。そこには「亦」とありますから、以前の「諸国」も「東国」を意味していたことも確かでしょう。
これらの例は「正木氏」のいう「三十四年遡上」研究に重なるものと思われます。それは「伊勢王」という人物の活躍年代の推定からもいえます。すでに見たように「伊勢王」の生存年代は「七世紀半ば」と見られ、その場合この「東国限分」の実年代としては「六四九年」から「六五一年」にかけての話となりますから、上に見た「六五二年」付近のことと思われる『伊予三島縁起』の「東夷征罰」と重なることとなります。
以上から見て、「文武」が『日本後紀巻五』に言うように「丁酉年」つまり「六九七年」以降統治していたという記述は疑わしいものと考えられ、実際には「白雉年間」に存在した人物であったと推量されるものです。
(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)