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『書紀』と『続日本紀』で『文武』の即位日干支が異なる理由


 すでに見たように『書紀』と『続日本紀』では「文武」の即位日の「干支」が異なる事が知られています。その違いについては「即位日」であるところの「八月一日」という日付記録に対して「元嘉暦」によって「乙丑」とし「儀鳳暦(麟徳暦)の定朔法により「甲子」としたと考えられています。もちろんこれで問題なく正しいと思われるわけですが、そこには『続日本紀』編者の意図がにじみ出ていると思われるわけです。
 『続日本紀』によれば「持統」から「文武」は「禅譲」とされています。それは「桓武天皇」に対する「藤原継縄」の上表文にも現れています。

 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。…以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。…。」

 ここでは「除自文武天皇」とありますが、この「除」は「除」されたという意味であり、「王権」から「任命」されたということを示しています。つまり「前王朝」である「持統」から「天皇」に「任命」されたと言うことであり、「禅譲」を謳っているのです。これは『書紀』においても同様であり(但しそこには「文武」の名が出てこない)やはり「禅譲」を意味することが書かれています。

「(六九七年)十一年…
八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」

 このように「皇太子」への「禅譲」が記されているわけです。これは一見「平和的」な事と見られますが、しかしそれは当然「形武上」の話であり、実質的には「新日本国」は「革命王権」と言ってよく、当然「前王朝」は基本的に「否定」の対象であったはずです。(「評制」や「富本銭」、「国宰」などの隠蔽はその典型です)大規模なものであったかは不明ですが、闘争もあったと見て間違いないでしょう。(隼人に対する軍事行動がそれであったとする考え方もあり得ます)とすれば『続日本紀』と『書紀』で「文武」即位の日付干支が異なる理由は「前王朝」つまり「九州倭国王権」を否定する意識からのものではなかったでしょうか。

 『日本書紀』はその前身である『日本紀』を改変して造られていると「私見」では考えていますが、その『日本紀』は「前王朝」の史書であり、「倭国九州王朝」の史書であったとみています。そしてそこには「元嘉暦」という南朝由来の暦が使用されているわけですが、他方『続日本紀』は「新日本王権」の史書であり、そこでは最新の「唐−新羅」から伝来した「儀鳳暦」(麟徳暦)が使用されており、それは「平朔」ではなくより精度の高い「定朔」でした。そのような違いについては「新日本王権」の関係者は「優越意識」を持っていたと思われ、その意識から即位日の違いを隠さず、露わにすることで前王朝に対する「否定」を「明確に」行ったものと思われるわけです。

 そもそも『続日本紀』の編纂においては対唐という点において強い追随意識が見られ、「玄宗皇帝」時代に強まった「呉音」否定、「漢音」肯定などの流れをそのまま受容し、同様に「呉音」の駆逐を政策として行っていました。これなども「南朝」に由来するものの蔑視と拒絶というものがその根底にあったものと思われます。それであれば「元嘉暦」否定「儀鳳暦(麟徳暦)」肯定というのは自然な流れではなかったでしょうか。その際に『日本紀』(『書紀』)の日付を隠さず残したのも、その違いを「明確」にすることで「差」を際だたせ、そのことにより「否定」の意志を明確にすることができると彼らが考えたからでしょう。

また『続日本紀』の日付に関する研究によれば(※)、「宮廷記録」としての「日付記録」を「史書」に落とし込む際に「干支換算」を行っていたとされます。(それは当方の主張と重なります)
 『続日本紀』はその編纂過程が複雑であり、幾度か編纂のやり直しをしているようですが、その『続日本紀』中「儀鳳暦」で干支換算されているのは「天平宝字七年」までとされ、それ以降は「大衍暦」によっているようです。しかし「桓武朝」における編纂時点では「儀鳳暦」が使用されている期間においても「大衍暦」で干支換算しているようであり、そのことから「大衍暦」を干支換算に使用し始めたのは「光仁朝」からと見なせますが、これはまさに「天武」への崇敬を止め「天智」へとその対象を変更した時期に相当します。このことは「儀鳳暦」というものと「天武」の関係を重視したことを表し、「天智」に崇敬の対象を変更した時点以降「天武」と共に「儀鳳暦」も無視することとしたと見なせます。この「光仁朝」以降が「革命王権」ではないことは当然ではあるものの、明らかにその王権の方向性が変化したことは確かであり、この流れは『書紀』における「元嘉暦」と『続日本紀』における「儀鳳暦」の関係に酷似していると思われ、いずれも前王権に対する蔑視を隠していないことが共通しています。


(※)細井浩志「『続日本紀』淳仁天皇即位前紀の成立段階−暦日の観点から」(活水女子大学論文集第五十六集より)


(この項の作成日 2017/09/08、最終更新 2017/11/17)