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「数字日付」と「干支日付」


 『日本書紀』とは別に『日本紀』があったとみられるわけですが、以下はそれに関連するものです。

 以前添田馨氏の論について触れたことがありますが、彼の考察の中心をなす主張は『続日本紀』編纂の際に「貨幣」鋳造の功績を「新日本王権」のものとするため、関連記事の年次を移動したというものであり、具体的には「同じ日付干支」を持つ日付へと移動したとされています。
 彼の文によれば『筆者の考えでは、『続日本紀』の編纂者は過去に発生した一連の出来事を、それと同じ日付干支の配列を持つ『続日本紀』内の収録年次にひとつひとつ貼り付けていったのであろう。』とされていますが、「年次移動」があるという点についてはその通りと思われ、その点を指摘した論が少ない中では大変貴重です。また、同様の主張は正木裕氏の「三四年遡上」論にも現われ、それによれば「年次移動」の際の移動先の日付は元々の「干支」を温存する形で選択されたとされます。これらの主張は「貨幣関連」などの元々の記録には「日付」に「干支」が併記された形で残っていたということを前提としていますが、それは一見疑問とするところです。それは『書紀』の範囲である「七世紀代」には「干支」が併記されない形の「暦」が使用されていたのではないかという疑いがあるからです。それを端的に示すのが「文武」の即位日付です。
 「文武」の即位は『書紀』と『続日本紀』では日付干支が異なります。

「(六九七年)八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」『持統紀』
「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。」『文武紀』

 このように『書紀』では「八月乙丑朔」ですが『続日本紀』では「八月甲子朔」と書かれています。この差は使用した暦の違いとされ、『書紀』は「元嘉暦」、『続日本紀』は「儀鳳暦」によったためとされますが、そもそもこのような「差」が生ずる原因はこの段階の宮廷記録では、「禅譲」が行われ即位した日付が「八月一日」とだけ記録または記憶されていたためとと思われ、「日付」に干支を伴った記録ではなかったこととなるでしょう。その記録に『書紀』や『続日本紀』編纂時点で「干支」を「当てはめた」ということとなるものと思われますが、そのような解釈が不自然ではないのは『斉明紀』に出てくる『伊吉博徳書』でも「日付」に「干支」が使用されておらず、単に数字だけが使用されていることでも窺えます。

「…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…」『斉明紀』

 しかもその「暦」は閏月とその前月の「大小」を間違えています。上を見ると「潤十月」に「卅(三十)日」があるように書かれていますが、実際にはこの「潤十月」は「小の月」であり、二十九日までしかありませんでした。(ただし「戊寅元暦」による)
 この「暦」では冬至と十一月朔日の干支が一致してはいるものの、「潤十月」を「大の月」としてしまい、その前月の十月を「小の月」としていたらしいと思われます。しかし、実際はその逆であり、十月が「大の月」、「潤十月」は「小の月」であったものです。
 「伊吉博徳」が個人で暦を造っていたはずがないと思われますから、これは時の王権から頒布された暦が「間違っている」ということとなるでしょう。そして、そのような間違いのあるものが「唐」から頒布されるはずがなく、これは「倭国」の王権内部で独自に作成された暦であり、そのため誤差あるいは誤解があったとみられることとなります。そしてその時点における暦では日付表記に「干支」が使用されていないということとなります。(後の「具注暦」では日付干支が書かれており、これはいわば「進化」したものと言えます)
 このことは「倭王権」が「暦」を作成した際の「計算」に「誤解」があると共に、その計算に「干支」が使用されていなかった可能性が高いと思われます。そう考えてみてみると、「金石文」(墓碑など)や「木簡」などで「日付」に「干支」が(数字と共に)併用されている例がほぼ皆無であることに気がつきます。例えば「山上碑」でも数字日付が使用されています。

「辛巳歳集月三日記…」

 また「金井沢碑」でも「干支」が日付に使用されていません。

「…神亀三年丙寅二月廿九日」

 さらに「多胡碑」では「干支」が日付に使用されていますが、これはかなり後代のものであってしかもこの碑文は大部分が公式文書の丸写しと思われますから「干支」があるのは当然といえます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

また「七世紀代」の木簡を見ても「日付」に「干支」が併記されている例が見あたりません。(以下の例など多数)

「乙丑年(これは六六五年か)十二月十日酒□〔人ヵ〕・「他田舎人」古麻呂」(長野県更埴市雨宮 屋代遺跡群)

 また八世紀初頭の郡符木簡でも干支は日付に使用されていませんし、「大宝元年木簡」にも「日付」は数字だけで「干支」は書かれていません。というより木簡データベース(奈文研作成のもの)を検索しても「数字日付」に「干支」を併記した例がほとんど見られないのです。
 これらのことから「公式文書」には「数字」と「干支」を併記することが決まっていたとしても、一般にはほとんど日付は「数字」だけで表記されていたらしいことが推定されます。

 ところで、「日付干支」の使用例は以下のものが確認できます。たとえば、「那須直韋提」の碑文です。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年(七〇〇年)正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰/惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照/一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曾/子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子/不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助/坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 ここには「歳次庚子年正月二/壬子」というように「数字日付」の他に「干支」が書かれています。
さらに「伊那公大村」の墓誌にも「干支」が日付として現われます。

「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…越後疆衝接蝦虜、柔懷鎮撫允屬其人、同歳十一月十六日、命卿除越後城司、四年二月、進爵正五位一、卿臨之以徳澤、扇之以仁風、化洽刑清、令行禁止、所冀享?、景?錫以長齡、豈謂一朝遽成千古以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」

、以慶雲四年歳、在丁未四月廿四日寢疾、終於越城、時年?六

 これを見ると「慶雲四歳(七〇七年)在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六」「■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」とあり、前半では日付は「干支」で示されていませんが、埋葬段階(慶雲年間)になると「干支」が書かれています。このことから「日付」に「干支」を使用する(併用する)と言うことは「慶雲年間」以降のことではなかったかと推察されるものです。しかし「木簡」や「七世紀代」においては「日付」に「干支」が併記された例が見あたらず、「倭王権」の作成した「暦」には「干支」が書かれていなかったことが強く示唆されます。そしてそれが書かれ始めるのは「儀鳳暦」の導入と関係があるものと思われ、この「暦」の導入以降「干支」が併記されるようになったものではないでしょうか。

 また「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘には「日付」と「干支」が併記されている例が見受けられますが、これは元々の記録にはなかったものを光背に書き込む際に「換算」して刻したものと考えます。その特徴として「死去」した日付だけに「干支」が書かれており、それ以外には見られません。他の墓碑などを見ても(「那須直意提」の碑や「伊那公大村」の墓誌など)死去した日あるいは埋葬した日だけに干支が書かれる例が確認され、当時の習慣として「忌日」(命日)あるいは「埋葬日」は「干支」を使用するというものがあったものではないかと推定します。(死去したことは公に届け出する必要があり、その際に役所より「日付干支」を教授されたという経緯が考えられます。当時の役所には「具注暦」が王権より頒布されていたはずですし、「具注暦」には「日付干支」が書かれていますから)
 木簡デーベースを見ても日付に干支を併記した例が(見る限り)見あたりません。木簡は実務に欠かせないものですから、そのようなものに干支の使用例がないという事からも、当時日付に干支を併記するのは「儀礼」的側面が強いケースに限るものであり、その時点で使用していた暦(たとえば『元嘉暦』)により干支に換算していたと見る事ができるのではないでしょうか。

 以上のことは「貨幣」関連記事の年次を移動したり、「三四年遡上」において年次移動を行うという潤色に際して「日付干支」が温存されたという可能性がかなり少ないということを意味するとも思われます。たとえば、上に推察したように記録が「数字日付」だけであったという可能性を考えると、それを無視した移動が行われたかはかなり疑わしいといえることとなり、そうでなければ、計算によって「干支」を算出し、同じ「干支」の別の日に貼り付けるという作業を行ったと推定するしかなくなるわけですが、そのようなことを行う動機が不審となってしまいます。このように一見「不審」といえるわけですが、この推定はこれを「宮廷内記録」から現行『書紀』を作ったとすることから発生する齟齬であると思われます。

 そもそも『書紀』や『続日本紀』のように「日付」を「干支」で表わすのは「中国史書」がそうであり、『書紀』などが「参考」にしたと思われる『後漢書』『隋書』などは日付は全て「干支」で表わしています。この形式を採用したがために「日付」と共に「干支」が必要となったものと思われるわけですが、それを最初に採用したのは現行『書紀』ではなく、それに先行する「史書」が別にあったものと思われ、それが『日本紀』であると思われるわけです。
 もし「早い段階」で『書紀』の初期型である『日本紀』が書かれていたとすると、その段階ですでに「干支」へと換算した日付表記となっていたという可能性があるでしょう。この段階では元々数字だけであった日付に対し「計算」により「干支」を算出し付加したと思われるわけです。それを元に後に「年次移動」という潤色を加え現行の『書紀』が成立したとすると、その際に『日本紀』の「干支」を温存するということは充分あり得ることと思われるわけです。つまり『書紀』成立の際の「潤色」は「原資料」にあった「数字日付」ではなく『日本紀』ですでに変換されていた「干支日付」を重要視したものであると思われるわけです。そう考えると、その原『日本紀』は「中国史書」の体裁を採用して「干支」で日付を書いた最初の史書であったこととなるでしょう。(その後さらに現行『日本書紀』が「潤色」を受け再編纂されたものと見られるわけです)


(この項の作成日 2015/08/16、最終更新 2020/05/04)