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『日本紀』と『日本書紀』と『続日本紀』


 現行『書紀』(『日本書紀』)の次の歴史書は『続日本紀』とされていますが、これは文字通り『日本紀』に「続」ける、という意味と考えられ、『続日本紀』の前の歴史書が『日本書紀』ではなく、『日本紀』という史書名であったことが読み取れます。つまり、『続日本紀』という史書が書かれた段階では『日本紀』が存在しており、だからこそ、その『日本紀』に続ける意味で「続」『日本紀』という史書名となったものと思われるわけです。
 『続日本紀』は「淳仁天皇」(淡路廃帝)の時代から編纂が開始され、「光仁天皇」の時代も継続し、最終的に編纂が終了したのは「七九七年」「桓武天皇」の時と言われています。このことは完成年次である「七九七年」の時点で『日本紀』が存在していたことを示すものとも考えられます。
 その後『日本後紀』卷五によれば「七九七年(延暦十六年)二月己巳(十三日)」に「嵯峨天皇」の「詔」が出されています。

「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」「是日。詔曰。天皇詔旨良麻止勅久。菅野眞道朝臣等三人。『前日本紀』與利以來未修繼在留久年乃御世御世乃行事乎勘搜修成弖。續日本紀・卷進留勞。勤美譽美奈毛所念行須。故是以。冠位擧賜治賜波久止勅御命乎聞食止宣。從四位下菅野朝臣眞道授正四位下。從五位上秋篠朝臣安人正五位上。外從五位下中科宿禰巨都雄從五位下。」

 そこでは『続日本紀』の「前史」が『日本紀』であることが「明示」されています。天皇の詔自体に使用されている用語ですから、これを安易に「略語」的使用と考えることはできず、『日本紀』が「正式名称」であるという可能性が高いものと考えられます。
 また、『続日本紀』には、『日本紀』の編纂についての記事があります。

「(養老)四年(七二〇年)五月癸酉…
先是一品舎人親王奉勅修『日本紀』 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

 この記事によっても、編纂されたのは『日本紀』であって『日本書紀』ではないことがわかります。
 この考え方は『万葉集』にも明証があります。『万葉集』の左注には『日本紀』からとして引用されているものがあります。
 例を挙げますと、『万葉集』の巻一の四十四番歌の「左注」があります。

「右、『日本紀』に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戌辰、浄廣肆広瀬王等を以ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰さく、農作の前に、車駕未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(あはめ)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児の仮宮に御すといえり。」

 これを同じ事件を記した『書紀』で見てみると以下のように書かれています。

「(持統)六年三月丙寅の朔戊辰に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張等を以て、留守官とす。是に、中納言大三輪朝臣高市麻呂、其の冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫めて曰く、農作の節、車駕、未だ以て動きたまふべからず」とまうす。辛未に、天皇諫に従ひたまはず、遂に伊勢に幸す。」

 ここで引用されている『日本紀』という史書には「朱鳥六年」までの記事が存在しており、これは現行『日本書紀』には存在しないものです。つまり、現行『日本書紀』とは違う『日本紀』という史書が存在していたということとなるのは明確といえます。

 また『延喜式』には「凡践祚大甞祭『日本紀』云『安万乃日嗣』為大祀。」と書かれており、ここでも『日本紀』と書かれ、しかもそこでは「大嘗祭」のことを「安万乃日嗣」と称したというのですが、現行『日本書紀』には、どこにもそのような記述がありません。僅かに『続日本紀』中の「宣命」の中で「天津日嗣」という言葉が出て来ますが、いずれにしても『延喜式』の主張するところとは異なっています。
 ただし『延喜式』は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、その最終成立年次は「九六七年」とされていますが、この時点の最新の知識と言うより歴年のデータベース的なものの集大成と考えられ、かなり「古い」事実も記載されているようです。この「大嘗祭」記事についても、十世紀時点で『日本紀』が存在していた、と言う事を示す可能性もないわけではないと思いますが、この場合は以前存在していた『日本紀』についての記述ではないかと考えられ、原資料としてはかなり古い時点の成立であるものも含まれている事を示すものと思われます。

 また『本朝書籍目録』という十三世紀に編纂された、当時「確認」可能であった(と思われる)書籍全てを網羅したデータベースともいえるものにおいても「日本紀 三十巻 舎人親王撰 従神武至持統四十一代」とあり、さらに「日本紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳天皇実録」「三大実録」と挙げて「右日本紀已下六部国史也」とするなど、その時点でまだ『日本紀』が存在しているらしく、『日本書紀』が出てこないことも「注意」されます。
 
 いずれにしても「現行日本書紀」とは違うものが当時『日本紀』として存在し、認識されていたことを示すものと思われます。

 また「八一二年」(弘仁三年)と「八一三年」(弘仁四年)に行われた宮中の諸官人に対する講義では『日本紀』が講義されています。

「六月戊子。(中略)是日。始令參議從四位下紀朝臣廣濱。陰陽頭正五位下阿倍朝臣真勝等十餘人讀『日本紀』。散位從五位下多朝臣人長執講。」「日本後紀」弘仁三年(八一二)六月戊子(丁亥朔二)条

 この時『日本紀』を講義した「多朝臣人長」が著した「弘仁私記序」の中にも同じ内容が書かれています。

「今然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日 天智天皇之後 柏原天王之王子也。愍舊?將滅 『本紀』合訛。詔刑部少輔從五位下多朝臣人長 祖禰見上。使講『日本紀』。」『弘仁私記序』

 また「卜部兼方」の著とされる『釈日本紀』というタイトルにも『日本紀』とあり、これは彼の父である「兼文」が「宮中」で講釈した内容に「奈良時代以降」の注釈書などを多く引用した「書紀注釈書」の集大成とされることからも、参照した「奈良時代以降」には『日本紀』と称するものしかなかった可能性が高いものと推量します。
 さらにいえば「紫式部」は「日本紀の局」と時の天皇から称されたとされますが、実際には『源氏物語』の内容を見ると『続日本紀』(特に前半部分)に材をとった部分が複数確認されるものの『書紀』との関連は薄いと思われており、これ現在『続日本紀』の範囲とされる年次範囲と当時の『続日本紀』の範囲が異なっていた可能性があるものと推量します。

 また『江談抄』(「大江匡房」の言談を「藤原実兼」が記したもの)には「榊」という字について「『日本紀』に出てくるとされていますが(※)、実際には『日本書紀』の中には出てきません。つまり現行『日本書紀』とは異なる『日本紀』が別にあったことがここからも窺えるわけです。(『書紀』には「国字」撰進の記事がありますが、当の『書紀』の中には「国字」は全く使用されておらず、一部が『続日本紀』に現れる程度となっています。)
 さらに同じ『江談抄』の別のところ(第二十四段)にも『日本紀』という呼称が出てきます。(※参照してください)
 これらは「日本紀』と呼称される「書物」がこの時点で確実にあったということとなります。

 しかし前述した『弘仁私記序』の中には以下の文章があります。

「如此之書觸類而夥 夥 多也。?駮舊? 眩曜人看。?駮 差雜貌。或以馬為牛 或以羊為犬。輙假有識之號 以為述者之名。謂借古人及當代人之名。即知官書之外多穿鑿之人。是以官禁而令焚人惡而不愛。今猶遺漏遍在民間 多偽少真無由刊謬。是則不讀舊記『日本書紀』古事記諸民等之類。無置師資之所致也。翻士為師弟子為資。」

 ここには『日本書紀』と明確に書かれています。つまり『弘仁私記序』の中には『日本紀』と『日本書紀』が同居しているわけであり、そこに「庚申天皇生年」とあるので、この「庚申」の年が「弘仁十年」(八一九年)であることが判明し、その時点では『日本書紀』がすでに存在しているとみられることとなります。
 また、この「多人長」の「弘仁私記序」には「延暦年中」(八世紀の終わりごろ)のこととして、「図書寮」や民間にある『書紀』を調べたところ本体三十巻と「帝王系図」一巻のほかに、更に別の「帝王系図」があるのが発見され、その中では「新羅や高句麗の人間が天皇になったり、民間人が天皇になったりしたことがある」などと書かれていたので、「禁書」とみなされ、民間にあるものについては捜索し、「焚書」(焼く)とするよう下命が出されたが、いまだに残っているようだ、と書かれています。

「世有神別紀十卷,天神、天孫之事,具在此書.發明神事,最為證據.然?紀夐遠,作者不詳.夐,遠視也,?正反.自此之外,更有帝王系圖.天孫之後,悉為帝王.而此書云,或到新羅高麗為國王,或在民間為帝王者.?茲延?年中,下符諸國,令焚之.而今猶在民間也。…」

 そして、このようなものには誤りが多く、正しいことが少ないとされ、それを是正するために「再編纂」が行われたのだ、というのです。
 このように「桓武天皇」のころには『日本紀』にはいくつか「異系統本」が存在していたものと思われ、「桓武天皇」やその後の「嵯峨天皇」などがこれを忌み嫌って「焚書」にしたもののようです。また、同じような理由により、改めて「準正」といえる史書を作ろうとしたのでしょう。(「百済」出身者を母に持つ「桓武」達にしてみれば、「新羅」「高麗」の人間が「帝皇」になったなどと書かれている点が最も忌み嫌うべきものであったと思われ、それらを排する立場で書き直されたものと考えられることとなります。)
 そうしてできあがったものが今現存している『日本書紀』であると思われるのです。そしてそれは『日本紀』を相当程度潤色して成立したものと思われ、これを現代においても金科玉条としている人たちが多数おられるというわけです。


(※)『江談抄』第五 「[木偏+山](そま)の字の事」(後藤昭雄・池上洵一・山根對助校注『新日本古典文学大系 江談抄・中外抄・富家語』岩波書店)
それによれば「三十九段 「[木偏+山](そま)の字の事」という中に「またとひて曰く、「[木偏+山]の字は本朝の作り字か、いかん」と。命せられて伝はく、「[木偏+山]の字は本朝の山田福吉の作るところなり。榊の字はまた日本紀に見ゆ」と、云々。」とありますが、「大系」の注でも「日本書紀には用いられていない。」と書かれています。
 同じく『江談抄』第五」の「二十四段」「日本紀の撰者の事」という段では筆記者である「実兼」に対し「日本紀はみらるや」と問いかけたのに対し「実兼」が「少々は見たるも、未だ広きに及ばす。そもそも日本紀は誰人の撰するところなりや」と返答したところ、「日本紀は舎人親王の撰なり。…」と返答したと書かれています。
 ここでも『日本紀』が高級官僚には必読の書であったこと、それが『日本紀』という書名のまま流布されていたことを推測させるものです。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2016/11/12)