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「文武」と「南宮」


 ところで、『二中歴』の「人代歴」の「文武」の項には興味あることが書かれています。

「文武治十一 天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」

 ここでは「文武」について「持統南宮」という表現がされています。その解釈としては「皇太子」を意味するというものもありますが、「皇太子」は一般に「東宮」であり、これは「隋・唐」以降「皇太子」の宮が「都城区画」の東側に築かれていたことからの呼称です。たとえば「東宮大夫」は「皇太子」の公的教育官僚であり、「春宮大夫」は「皇太子」の私的教育官僚とされ、「公私」の両面から「皇太子」を教育・補佐するとされているわけですが、「南宮」というものが「皇太子」に関して書かれた史料はありません。

 この「南宮」は「漢」以降「魏晋」など後継王朝において「南北二宮」ある場合の「南側」を指すものであり、後代には「北宮」が「後宮」となり「南宮」が「紫宸殿」となったものです。

「…署其衞尉呼延晏為使侍節前鋒大都督前軍大將軍,配禁兵二萬七千,自宜陽入洛川,命王彌劉曜及鎮軍石勒進師會之。晏比及河南,王師前後十二敗,死者三萬餘人。彌等未至,晏留輜重于張方故壘,遂寇洛陽,攻陷平昌門,焚東陽、宣陽諸門及諸府寺。懷帝遣河南尹劉默距之,王師敗于社門。晏以外繼不至,出自東陽門,掠王公已下子女二百餘人而去。時帝將濟河東遁,具船于洛水,晏盡焚之,還于張方故壘。王彌劉曜至,復與晏會圍洛陽。時城?饑甚,人皆相食,百官分散,莫有固志。宣陽門陷,彌、晏入于南宮,升太極前殿,縱兵大掠,悉收宮人珍寶。曜於是害諸王公及百官已下三萬餘人,於洛水北築為京觀。遷帝及惠帝羊后傳國六璽于平陽。聰大赦,改年嘉平,以帝為特進左光祿大夫平阿公。…」(『晉書』/載記第二/劉聰 子粲 陳元達)

 この『晉書』の「西晋」の滅亡時点を描いた記事では、「宣陽門陷,彌、晏入于南宮,升太極前殿。縱兵大掠,悉收宮人珍寶。」という表現がされており、「宣陽門」から入ると「南宮」があり、そこに「太極前殿」があったこととなります。さらにそこには多くの「宮人」がおり、「珍宝」があったということにもなるでしょう。
 この「太極前殿」の別名を「紫宸殿」といい、「北宮」が「後宮」となって以降は「正殿」の地位を獲得したものです。
 「持統南宮」という表現からは「持統」が「北宮」つまり後宮におり、その時点で「南宮」つまり「紫宸殿」に「文武」がいたという表現と考えられます。ではその宮殿とはどこのことでしょうか。「藤原宮」なのでしょうか。

 すでにみたように「藤原宮」では「紫宸殿」は「持統」が存命中には完成しなかったものと思われ、(宮域が確定したのが「七〇五年」付近と思われる)それまでは木造の仮殿はあったと思われるものの「南北」そろってはいなかったとも見られます。そう考えると、『日本帝皇年代記』にあるように「平城京」の前の「宮」は「難波宮」であったということとなるでしょう。
 『日本帝皇年代記』の「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあります。あたかも「平城京」の前の「キ」は「難波」にあったかのようです。

「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(『日本帝皇年代記』(上)より)
 
 この記事は現行『書紀』にある「六八六年」(朱鳥元年)のこととして書かれている「難波宮殿」の「焼亡記事」と明らかに「矛盾」するものですから、『書紀』の「火災記事」に対する「疑いの念」を起こさせるものです。
 考古学的には「前期難波宮」が「火災」にあったのは間違いないと考えられますが、それが「六八六年」のことであったのかどうかは「不明」であり、実際の火災の年次は異なっていたという可能性も考えなければなりません。それと関連していると考えられるのが「藤原宮」の完成が非常に遅かったという事を示す「木簡」の記録です。
 「藤原京」発掘から出土した「木簡」についての解析から「宮殿完成」は「七〇四年」以降であると言う事が確認されています。更に「平城京」の遺跡から「藤原京」から運び去られた材料が大量に発見されており、平城京の建設の過程で藤原京は解体されたこととなります。しかし、「平城京」の完成が「七一〇年」であるとすると「藤原京」時代は圧倒的に短期間であることとなり、「本当に」「宮殿として使用されたのか「キ」は「藤原京」であったのか、重大な疑問が出てきます。もし「藤原京」が「未完成」のまま「解体」され、その施設資材が「平城京」建設に転用されたとすると、「宮殿」は使用されなかったこととなりますが、その時点付近で「宮」(京)として使用されていたのはどこであったのかと云うことになります。「飛鳥宮」では「首都機能」が貧弱であり、ここでは官僚達が公的業務をこなすことは出来なかったものと思われますから、集約的に官僚統治機構が備わっていたのはこの当時「難波京」しかなかったと思われ、そうすると「火災」にさえ遇わなければ「難波京」はそのまま存続していたものと考えられますから「火災記事」に疑問が生じることとなります。つまりこの「平城京」完成時点での「首都」機能は「難波京」にあったということとなるものであり、それを示すのが『年代記』の記事ということとなるのではないでしょうか。

 「難波宮」の遺跡から復元されたレイアウトからは「太極前殿」とおぼしきものが確認されており、これが「紫宸殿」に相当すると考えられます。「白雉改元」記事にも「紫門」という表現があり、これは「紫宸殿」の前の「門」をいうと思われ、「宣陽門」に相当するものであったと見られるでしょう。

「白雉元年…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於『紫門』外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至『中庭』。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進『殿前』。時左右大臣就執輿前頭。伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於『御座之前』。天皇即召皇太子共執而觀。…」

 これは「味経宮」での「白雉」を観閲する儀式の際に出てくるものであり、「紫門」は「紫宸殿」からまっすぐに伸びる路が宮城の外部に出る門を指したものと思われます。さらにそこから入って「中庭」を進むと「天皇」と「皇太子」のいる「殿」の前に来るわけですから、この「殿」は間違いなく「紫宸殿」となります。ここは「遺跡」から確認される配置と照らし合わせると「前殿」の位置にある建物であり、ここが「南宮」と呼称されていたとして不自然ではありません。

 さらに「南宮」と「朱鳥」の関係も注目すべきです。
 「天帝」を守護するとされる「四神」の一つである「朱鳥」は「南宮」に居していたとされますが、そもそも「朱鳥」は「シリウス」を意味していたものと思われ、その「シリウス」は「瓊瓊杵尊」の象徴とされていたと考えられるわけですから、「瓊瓊杵尊」が「皇孫」であることと「文武」が「持統」から見ると「皇孫」であることとは深くつながっているものと思われ、この「文武」への継承(禅譲)を含んで「朱鳥」と改元されたものと思われるわけです。そしてその「文武」が「南宮」である「紫宸殿」にいたと見られるわけですから、天界と地上界がここで見事に重なっていることとなります。


(この項の作成日 2015/07/20、最終更新 2016/11/12)