ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:「不改常典」と「十七条憲法」:

古田氏の見解について


 この「不改常典」に対する理解について、古田武彦氏はその著書(『よみがえる卑弥呼』所収「日本国の創建」)の中で、「皇位継承法」とは認めがたいとして、以下のように言及されています。

「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」
 
 このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。
 ひとつは「統治の根本」を記すものであること、ふたつめにはそれが、『書紀』内に「特筆大書」されているものであること、もうひとつが「天智朝」のものであることとされています。
 古田氏が言われるように「不改常典」というものは「万人周知」のものでなければならないのは確かです。「宣命」を聞いた「誰もが」それが意味するところを即座に了解できるものでなければならないものだからです。そうでなければ「大義名分」を保有していることが証明できないばかりか、「権威の根源」が不明となり、「即位」の有効性にも関わるものとなってしまいます。
 またこれが「律令」に類するものではないことも理解できます。「律令」は(その中に「官人」に対する規定等を含むものの)基本としては「統治する側」ではなく「統治される側」に対して行うべき、守るべき条項を列挙したものであり、性格が全く異なると考えられるからです。
 この意味では「旧来説」(皇位継承法とみなすものや「近江令」とする説)のほとんどが条件を満たしていないこととなります。
 しかし「古田氏」自身は最終的には「天智朝」に出された「冠位法度之事」であるという見解に到達されたようです。しかし、「冠位法度」は確かに「国家」を統治するに必要なものではありますが、「国家統治」の「根本」と言うものとは少なからず性格が異なっていると考えられます。なぜならそれらは「変改」しうるものだからです。その時代に応じて「改定」され得るものであっては、「永遠に変えてはいけない基本法」とは言えないと思われます。
 現に「天智朝」で出された「冠位」や「法度」のほとんどは(あるいは全部)、「八世紀」以降までそれが生き続けたと言う事実はありません。例えば「冠位」は「七世紀の初め」の「聖徳太子」の時代に定められたとされるものを初めとして、何回か改定されています。「八世紀」には「八世紀」の新しい「冠位法度」が存在していたわけであり、時代の進展に応じて変化し、改められるのがそれらの宿命でもあります。そのように変化流転する中でも「永遠に変わらない」ものが「不改常典」なのであり、これが単なる「制度」や「令」の類ではないことは明らかであると思われます。
 こうしてみると『書紀』における「天智朝」にその様なものを見いだすのは不可能なのではないでしょうか。議論が混乱している最大の原因は『天智紀』にその様なものは「そもそも存在しなかった」からではないかと考えられるのです。つまり『書紀』における「天智朝」と限定する限り、それと「整合する」どのような徴証も見られないわけであり、(そのため議論が百出しているわけですが)「近江令」などの存在も不確かで、内容の稀薄なものに依拠するしかないとすると、この「不改常典」の際に必ず出てくる「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記に対する従来の理解が正しいのかということが根本的な疑問として浮かび上がります。つまりこれは本当に『書紀』における「天智」を指すものなのかということです。

 この「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記については古田氏はその著書『古代の霧の中から』の「近江宮と韓伝」という章において、「天智」とは異なるという主張をされています。つまり『書紀』においては「近江」に「都」を置いた天皇は複数あり、その中で「天智」の場合はただ「近江宮」という表現が行なわれており、それ以前の天皇とは異なっているとされたのです。これに従えばこの『続日本紀』の例も「天智」ではないという可能性を含んでいると思われます。
 古田氏によれば『書紀』編纂終了の「七二〇年時点」における「王朝関係者」の意識として「近江大津宮」というのは「景行」や「仲哀」達の都であったとするものであり、「天智」に対してその称号は使用しにくい性質のものであったとするのですが、これは『書紀』編纂者だけではなく『続日本紀』の編纂担当した人達についても同様のことが言えるのではないでしょうか。なぜなら『書紀』(というよりその原型ともいうべき『日本紀』)と『続日本紀』の前半部分(聖武紀)までについては、その編纂者も編纂時期も同一であったという可能性が考えられるからであり、そうであれば『続日本紀』においても「近江大津宮」という表現は「天智」ではない別の「倭国王」を指すという可能性があると思われます。少なくともこの「近江大津宮御宇天皇」という表記が「天智」を指すものではないと考えることは不可能ではないと思われるわけです。

 また、古田氏はその「磐井の乱」に関する研究の中で、「磐井の乱はなかった」という立場を表明されましたが、それに対して「会員」の飯田・今井両氏から「反論」が提出されました。それに対する再反論の形で書かれた「批判のルール 飯田・今井氏に答える」(古田史学会報六十四号 二〇〇四年十月十二日)の中で、「磐井の乱」の存在を否定する論理として『「書紀にあるから正しい」と言いえぬこと、津田批判以来、歴史学の通念だ。』とされ『古事記』『筑後国風土記』などとの「整合性」を問題にされると共に、「考古学的痕跡」の有無についても言及され、『イ、神籠石 ロ、土器 ハ、その他(金属器等)いずれを検討しても、「六世紀前半」に一大変動のあった証跡がない。』と結論されたのです。
 ここで語られていることは、『書紀』や『続日本紀』など「正史」と言われる「記録」に書かれているものであっても、それだけでは正しいとは言えず、「他文献」との整合性や考古学的痕跡などとの合致などにより裏打ちされることがその資料的価値を保持する上で重要であることを語っていると思われます。
 逆に言うと『書紀』や『続日本紀』に書かれている事であっても、他史料や木簡あるいは石碑などの金石文との不一致が存在する場合、その記事内容については「疑って」かかるべきものであることを示すものであり、その資料に準拠して議論を展開することは困難な状況となることを示しています。
 たとえば『書紀』の「郡制」表記の場合を想定すると分かりやすいと思われます。『書紀』には徹頭徹尾「郡」としてしか出てこないわけですが、「木簡」及び「金石文」には「評」が出現し、その結果「郡」という表記は『書紀』という「正史」に書かれているにも関わらず、その表記の持っている価値は地に落ちました。『書紀』に「郡」とあるから…というような論理進行で議論を進めることは不可能となったのです。
 つまりいくら「史料」に「天智」を意味すると思える表記があったとしてもそれを担保するどのような史料も木簡も発見もされず、存在もしていないとすると、疑うべきはその「天智」という「理解」の方ではないかと考えるのは少しも不自然ではありません。
 また、「不改常典」に関する古田氏の提示した条件のうち前二つは、『続日本紀』の「複数」の「詔」から考察して帰納されたものであり、論理的な性格を有しています。しかし、「天智朝」である、という事は、単に史料にそう書いてあるというだけの「表面的」な事であって、「論理性」を有しているとはいえない事項です。つまり一種「書き換え」が可能な事項に部類すると思われるものです。
 これらのことを踏まえると、「近江大津宮御宇天皇」という表記についてもそれが『書紀』における「天智」を指すと即断できるものではないことがわかると思われます。その場合「天智」以外の代の記事中に「不改常典」と思しきものを探すべきこととなりますが、そうすると答えは割合「容易」に出ると思われます。つまり「国家の統治に関する根本法規」であり、「『書紀』内」に書かれていて、誰でもが容易に想起しうるものというと(実は)ただひとつしかないと思われます。それは「十七条憲法」です。


(※)柴田博子「立太子宣命に見える「食国法」 ―天皇と「法」との関係において―」(門脇禎二編『日本古代国家の展開(上巻)』所収 一九九五年十一月 思文閣出版)


(この項の作成日 2012/09/04、最終更新 2016/02/21)