「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。
また、この「憲法」の内容は「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項がほとんどであり、「統治の根本」を記したものです。これはまさに「食国法」というべきものでしょう。
また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。
またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはいけないものでした。
つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に「直線的に」つながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさに「ふさわしい」ものと考えられるのです。
また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それは当然ともいうべきものです。
ところで、『書紀』によると「十七条憲法」の制定は「推古十二年」(六〇四年)のこととされています。
「推古十二年(六〇四年)夏四月丙寅朔戊辰条」「皇太子親肇作憲法十七條。…」(推古紀)
『推古紀』の「裴世清」来倭記事についてはすでに実際の年次より二十年程度の年次移動があると考えられることとなったわけですが、この記事についても同様に(というよりそのしわ寄せとして)年次移動されているものと思われ、実際には『隋書』(開皇年間の前半)のことではなかったかと考えられます。つまり実際には『隋書俀国伝』に云う「阿毎多利思北孤」に相当する人物によって造られまた施行されたものと考えられ、ここではそれが「聖徳太子」という人物に投影されていると推定できます。
彼(阿毎多利思北孤)に対するその後の「倭国王権」の「傾倒」は今考えるよりもはるかに強かったものではなかったでしょうか。それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないかと思われます。そう考えると、その彼が作り上げた「憲法」を「変える」というようなことは、彼の直系の後継者達は考えもしなかったろうとも思われます。つまり、「阿毎多利思北孤」以降の倭国王は「即位の儀式」の一環で「十七条憲法」を遵守することを誓い、表明することを行っていたのではないでしょうか。この『続日本紀』の記事はそれを表しているものと考えられます。
これはたとえば、(唐突かも知れませんが)現代「米国」における「大統領就任式」の際に「合衆国憲法の名の下に」行われる「誓いの儀式」を彷彿とさせるものです。
「合衆国憲法」は「合衆国」における最高法規でありまた「大統領」として「遵守」し「行うべき」根本法規でもあります。「新大統領」はその就任の式典において、これに「遵守」を「誓う」事で「新大統領」として「承認」されるわけです。ここにおける「合衆国憲法」というものが、単なる「大統領継承法」でないことは明らかです。
また、現代の「日本国憲法」においても「内閣」は「最高法規」である「憲法」を遵守することを(その「憲法」の規定の中で)義務として負っているのです。
このようなことは当時の「倭国」においても事情としては全く同じであったのではないかと思われ、新しく「倭国王」となった際には「阿毎多利思北孤」が造った国家統治の「根本法規」である「十七条憲法」を遵守することを誓うことで「即位」が成立していたものと推察します。
また、このように「即位」の段階で「不改常典」という形で「憲法」が顔を出すのはその「第一条」で「以和爲貴。無忤爲宗。」と書かれていることと関係していると考えられます。つまり「無忤」(逆らわない)という言葉は、「皇位継承」の際にこそ重要な意味を持っていたからであると思われ、「和」という言葉は「日嗣ぎ」を「話し合い」で決めると言うことが強く求められていたことを示しているのではないでしょうか。(この点に関しては、「石井公成氏」の『「憲法十七条」が想定している争乱』印度学仏教学研究第四十一巻第一号平成四年十二月でも同様の指摘、つまり「十七条憲法」の存在意義が特に皇位継承の際に有効であると考えられるという点について言及されています。)
またすでにこの「不改常典」について「皇位継承」の際のものと言うよりは「公法」としての意識からのものという解釈もされており、その場合「公」意識が高揚される「七世紀初め」の時代、特にそれが「十七条憲法」において顕著であることと整合するとも言えるでしょう。
「十七条憲法」の中では「公」という用語がしきりに使用され、「公私」の区別をつけることが重要視されていました。そこでは「公務」「公事」「公賦」など、「公」の語が頻用されており、「公」の概念を前提として多用されていると思われます。また、以下の『推古紀』の「天皇記及び國記」記事においても「公民」という用語が現れるようにこの時期「国家」(公)と「公民」つまり全ての「民」は「公民」であり、国家に属するという観念が生まれていたことが窺えます。
「推古天皇二十八年(六二〇年)是歳条」「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」
このように『推古紀』段階においては「公」と「法」の両立と一体性が主張されたものと考えられますが、このような記事群は「公」つまり「国家」の権限を重大に考え、間接的権力者の存在を許容しない姿勢の表れと見られますが、そのような「直接統治」という統治体制と「公」の観念は連動していることが推定され、その「公」の絶対性を保証しているのが「法」であり、その極致である「最高法規」が「十七条憲法」であるということと思われます。
このように「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時点において、「公」と「国家」と「法」という「三位一体」の概念が創出されたものと見られますが、「不改常典」の使用例において「法に随う」という表現によって間接的に「法」が「天皇」の上にあるという観念が現れているのは注目すべきです。このことは「十七条憲法」において「公」の観念が打ち出されていることの間には深い関係があると考えます。
この「不改常典」と「十七条憲法」の「類似」と言うことに関しては「大山誠一氏」がその論(注)の中で言及されており、そこでは以下のような表現がされています。
「…十七条憲法と不改常典が、同じ理念のもとに作成されたと考えることを、もはや躊躇する必要はないであろう。…」
このように「不改常典」と「十七条憲法」の中心的思想が共通している事が指摘されています。ただし、彼の場合「聖徳太子架空説」を唱えており、「八世紀」に入ってから「藤原不比等」により「不改常典」も「十七条憲法」も「捏造」されたという立場で語られていますからその点「注意」が必要です。
彼の場合「聖徳太子」は「八世紀」の「書紀編纂者」の「捏造」というスタンスであるわけであり、これは「近畿王権」中に適当な人物が該当しなかったことの裏返しであるわけですから、その流れで「十七条憲法」も捏造としているわけです。ただし、「不改常典」と「十七条憲法」はほぼ同時期に「発生」したとされ、それらに「共通点」があるとするわけですが、その点については注目すべきでしょう。
彼によればこの「両者」はどちらも「王権確立」に深く寄与するために(「藤原不比等」により)書かれたものであり、それが「明示」されるのにもっともふさわしい場は、その「権力継承」の場である「即位」の儀式の時であったというのです。
この「思惟進行」は特にその「結論部分」が非常に重要であると考えられ、「十七条憲法」が「本来」「権力交代」の場面で出されたものではないかという推測は、『推古紀』に書かれた「十七条憲法」が出されたのが「冠位制定」直後であったことからも窺えます。つまり本来「冠位制定」は新王即位に伴う機構改定の一部であったと考えられますから、この時点で「新倭国王」が即位していたことが窺えるものであり、それに併せて布告されたものではなかったでしょうか。
ただし、大山氏の考えとは裏腹に「聖徳太子」と「十七条憲法」は「実在」であったと思われ、それは決して「捏造」されたものではなかったと考えられます。そして、それは『隋書俀国伝』に「倭国王」として登場する「阿毎多利思北孤」(及びその太子「利歌彌多仏利」)がそれに該当する人物であったと見られることとなるでしょう。つまり、「大山説」はその点で誤解があり、また限界があると言えます。「実体」は「七世紀初め」の方にこそあると推察されるものです。
さらに、以下の文章が『続日本紀』に出てきます。
「冬十月…
辛丑。詔曰。開闢已來。法令尚矣。君臣定位。運有所属。■于中古。雖由行。未彰綱目。降至近江之世。弛張悉備。迄於藤原之朝。頗有増損。由行無改。以爲恒法。」『続紀』養老三年(七一九)十月十七日
この『続日本紀』の文章からは「近江朝」以前には「法令」がなかった、あるいは「書かれたもの」としては存在していなかったと云うことを示していると思われますが、このことが確かならば『書紀』の「十七条憲法」という存在と矛盾します。
『書紀』では明らかに(書かれたものとして)「憲法」が制定されたことを示しますが、『続日本紀』では「近江之世」に至って「悉く」「備わった」というのですから、また『弘仁格式』ではそれがこの国における「法制」の初めであったというのですから、これらの食い違いは明確です。
この食い違いは「近江之世」という表記が示す真の時代がもっと早い時期を示すことを示唆するものであり、「推古朝」として私たちが認識している六世紀末から七世紀初めであることを強く推定させるものです。
『令集解』(官位令)には以下のような問答が書かれています。
「…問。律令誰先誰後。答。令有律語〈仮如。獄令云。犯罪応入議請者。皆申太政官。応議者。大納言以上判事等。集官議定。雖非六議。本罪合議。処断有疑者。亦衆議量定是〉。律有令語〈仮令。雑律違令笞五十。注云。行路巷術。賎避貴之類是〉。以此案之耳。謂共制。但就書義論。令者教未然事。律者責違犯之然。則略可謂令先萌也。『又上宮太子并近江朝廷。唯制令而不制律。』以斯言也。亦令先萌也〈跡同〉。…」
つまり「律令」の「律」と「令」のどちらが優先するのかというような問に対し「上宮太子と近江朝廷」では「令」があったが「律」がなかったとされ、「令」が優先する意義が回答として書かれています。この事自体も重要ですが、ここに「上宮太子」と「近江朝廷」が並列的に書かれている事もまた意味があると思われます。従来これは「近江令」の存在証明的扱いをされているようですが、それと同時に「上宮太子」と「近江朝廷」が遠くない関係にあったこと、また「上宮太子」により「令」が制定されていたことを示す文章でもあります。しかし「上宮太子」による「令」とはどのようなものを指すのでしょうか。実際に『書紀』を見ても(『懐風藻』を見ても)それに該当するようなものは見あたりません。実際にはこれは「十七条憲法」を指すともいえるのではないでしょうか。
「…逮乎聖德太子,設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章。及至淡海先帝之受命也,恢開帝業,弘闡皇猷,道格乾坤,功光宇宙。既而以為,調風化俗,莫尚於文,潤德光身,孰先於學。爰則建庠序,?茂才,定五禮,興百度,憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。於是三階平煥,四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。旋招文學之士,時開置醴之遊。當此之際,宸瀚垂文,賢臣獻頌。雕章麗筆,非唯百篇。…」(『懐風藻』序)
これを見ても明らかに「令」とは「百度」を指すと見られ、確かに「淡海先帝」は「令」を制定したといえそうですが、また『懐風藻』によれば「淡海大津宮御宇天皇」の業績として「定五禮,興百度,憲章法則」とされいます。
つまりここに書かれた「憲章法則」つまり「憲法」というものが「十七条憲法」を指すものではないかと考えられるわけであり、ここで「十七条憲法」というものと「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とがつながっていることとなりますが、この事は「不改常典」が「十七条憲法」であるという考え方に根拠がないとは言えないこととなります。
さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。
「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」
この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を指すと考えるべきでしょう。
『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。この「十七条憲法」の制定という記事は、『書紀』では「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には上に見るように彼によるものではなく「近江(淡海)帝」に関わるものであったものと考えられるものです。
この『懐風藻』の記事が『書紀』にいう「天智」ではないと考えられるのはその治世期間についての形容からも言えると思われます。そこでは「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが『書紀』にいう「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものです。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
つまりこの「淡海帝」を『書紀』の「天智」のこととするにはその「表現」が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容であると思われるのです。
(この項の作成日 2012/09/04、最終更新 2015/03/05)