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氷連老人と博麻達が同席していた理由


 「持統」の「大伴部博麻」を顕彰する「詔」の中でその名前が出てくる「冰連老人」という人物については、彼が「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと考えられるものであるのに対して、「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの事は「何らかの」矛盾を含んでいることを示すものと思われます。
 この「矛盾」に対しては、全くの推測と仮定の世界とならざるを得ないわけですが、一つのストーリーが考えられるでしょう。つまり、彼はそもそも「学生」ではなく、その名目を借りた「軍事スパイ」であったためであり、戦場となることが確実となった「百済」で諜報活動を行っていたが、戦いが始まってしまい、倭国から派遣された軍隊と共に戦いに参加し、「薩夜麻」達と共にそこで捕虜となった、というシナリオです。

 「博麻」「薩夜麻」などは「兵士」であり「将軍」であったわけですが、それに対し「冰連老人」は「遣唐使」であったはずです。その彼らが同じ場所に「収容」されているわけですが、それが「唐国内」であったとすると当時「倭国」や「百済」と戦いになった時点で「唐国」は「倭国」などから派遣されていた人達をいずこかに「収容」したと言うこととなります。(太平洋戦争当時のアメリカにおける日系人の「強制収容」と似ています)果たして、このようなことがあったのでしょうか。
 「唐」側資料を渉猟しましたが、戦争の相手国からの「使人」や「学生」あるいは「諸蕃」の「子弟」を「充てていた」とされる「宿営」などを、「拘束」したとか「収容した」というような資料は見あたりませんでした。(逆に本国に送還したという記事ならありました。)
 唯一確認できるのが「六五九年」の「遣唐使」を「両京」(長安と洛陽)に分かれて幽閉したというものです。この中に「氷連老人」がいたとすると彼等に「薩夜麻」達が合流する必要があり、それは「百済王」達が「唐皇帝」の前に連行された時点以外ないと思われます。これらの中に「薩夜麻」が混じっていたとする他ない訳ですが、その想定は困難でしょう。なぜなら、「百済王」達はその場で(倭国からの遣唐使も含め)解放されているからです。それは「薩夜麻」達が「虜」とされて歴年拘束されていたとする状況と整合しないと思われます。
 『書紀』によると「天命開別天皇三年」つまり「六六三年」時点でまだ「虜」とされていたように書かれており、「百済王」達の置かれた状況とは異なることが判ります。このことからこの時点で「氷連老人」と「薩夜麻」達が合流したわけではないこととなります。

 既にみたように、「博麻」は「旧百済」の地で「債務返済」のため労働していたと考えられる訳であり、「氷連老人」が「薩夜麻」達と共に補囚になっているところを見ると、彼は「六五九年」の遣唐使が「派遣」された時点付近で既に「百済」(あるいは「新羅」)にいたという可能性が出てきます。そして、「百済を救う役」が「勃発」した時点で参戦した「倭国軍」の中に「薩夜麻」や「博麻」がおり、彼等と共に「旧百済」の地で「唐・新羅連合軍」の「虜」となったとみる以外にないのではないでしょうか。いずれにせよ「氷連老人」はなぜ「百済」にいたかですが、それは「軍事情報」の収集という重要な任務があったものであり、その最中に戦闘に遭遇したということではないでしょうか。
 「六五九年」に派遣された「伊吉博徳」達を含む「遣唐使」団は「洛陽」で行われた「冬至」の儀式に参列し「暦」などを受領する目的であったと推量されますが、それ以前に派遣されていた「遣唐使」達も同様にこのとき「洛陽」に集まっていたという可能性もあるでしょう。(むしろ「唐」政権により「洛陽」に集められていたという可能性さえあるでしょう。それは一種の「捕虜」としてです。)
 そして発生した「出火事件」の関連で彼等「倭国」からの人々は一斉にその身柄を収監されたということが考えられます。しかしこのときに「氷連老人」がその中にいたとすると「薩夜麻達」と一緒に「捕虜」となることはできません。明らかにそれ以前に「半島」にいなければならず、可能性としては『書紀』で「六五三年」に派遣された「遣唐使団」のうち遭難しなかった「吉士長丹」を「遣唐大使」とする一行がその目的を果たし帰国したという「六五四年」に、同時に帰国したかあるいはその途中「百済」に止まったかということが考えられます。(帰国が「百済」、「新羅」を経由したことはこの両国の送使を伴って帰国したことからも窺えます。)
 このいずれかであれば「六五九年」の遣唐使が派遣された時点ですでに「百済」国内にいることは可能であり、「新羅」が「唐」と連合して「百済」「高句麗」と対処する段階で「百済側」に立って行動していたとみることもできるでしょう。

 そもそもこの「冰連老人」の派遣は「白雉四年」(六五三年)に行われたものであり、「新羅」との間に緊張が走り、また「高句麗」と「百済」の間に結ばれた「麗済同盟」の活発化により、その「新羅」と「唐」との間が急接近している時期でした。
 また「倭国」としては「六三二年」という時点以降「唐」との正式な外交関係が途絶している状態であったため、「六四七年」(常色元年)に即位した「倭国王」は「唐」との正式な外交関係確立を目指し、そのために「新羅」を懐柔する作戦を立てたわけです。そのため「倭国」は「唐」の暦の受容など「唐」の政策にすり寄る形で関係改善を目指したものと思われます。しかし、意に反し「新羅」は「唐」との関係を強化する方向で動き出し、「倭国」にとっては「橋渡し」の役を果たさなくなってしまいました。
 「六五一年」には「新羅」からの使者を追い返す事件が発生した事もあり(「新羅」の服を捨て「唐」の服を採用したことに激怒した)、直接「唐」との間の関係を正常化する目的で「遣唐使」を派遣したものと考えられます。
 またこの時点(六五二年)に「倭国王」は死去したと推定され、代って即位した「新倭国王」の方針の変更により「唐」との親和政策を強化する方針の下派遣されたと思われます。
 このような時点での派遣は多分に「政治的」なものであったはずであり、彼ら派遣された「学生」「学問僧」などの中には「純粋」に「唐」の制度や仏教などを学ぶ者達以外に、「ロビイスト」的活動をその中に含んでいた者もいたと思われます。派遣された彼らは「唐」の都で過ごすこととなったわけですが、その間学業に励みつつ、それを兼ねて「情報収集」などの仕事を行っていたものと思われます。
 その後、更に「半島」の緊張状態が極限に達しようと言う時に、「唐」から「冬至の会」に参加するよう要請があり、これを千載一遇の好機と捉えた「倭国王権」は、最後の切り札的に「六五九年」の遣唐使を派遣したものと思われます。
 この時の遣唐使団には「蝦夷国」の使者が同行していました。これは実は「唐」に対する「示威行動」でもあったと考えられます。すなわち「蝦夷」という「唐」から見て「絶域」中の「絶域」とも言うべき場所さえも「支配」している、という「統治領域」の「広大さ」を誇示することにより、唐に対し「抑止力」としての効果を期待したものではないでしょうか。
 「倭国」としては「唐」など歴代の中国との交渉は長いわけであり、「倭国」の「領域」も既に「唐」としてはほぼ把握していたと思われますが、しかし「百済」をめぐる情勢が緊迫してくると、「倭国」に何らかの軍事的影響が及ぶ可能性が出て来たわけであり、国内では「副都遷都」を含め、各種の「防衛策」を講じていたものと思われ、「隼人」「蝦夷」についてもこれを「服属」させると共に、その事実を「唐」に「披見」する事で、「倭国」の「実力」と「版図」の広さを改めてアピールし、その事により「唐」に対し「軍」を派遣するなどの「行為」を抑制させるための「抑止力」として機能させることにしたものと推察されます。

 ところで、「薩夜麻」はその後解放されましたが、「冰連老人」が同時に解放されたのかどうかは不明ですが、彼はその後「七〇四年」の遣唐使船で戻るまで「唐」国内に居続けたものであり、「薩夜麻」が「唐皇帝」の元に「劉仁軌」により連行された際に「泰山」まで引率したものと推量されます。その後「博麻」や「薩夜麻」達が帰国したあとも「冰連老人」だけが帰国しなかったかあるいはできなかったということも考えられます。もちろん、それは「本来」の業務である「勉学」に努めるという意味もあったかもしれません。あるいは、引き続き「残留」して「唐軍」等についての軍事情報を収集すべきという命令が(薩夜麻から)与えられたという可能性もあり得ると思われます。彼はそもそも「軍事情報」を収拾するのが役割であった可能性があり、そうであれば、その「業務」を貫徹する様に指示が出たのかもしれません。
 またそれを口実として帰国を許可されなかったという可能性も考えられ、それは一種の「口止め」が行われたのではないかと思料します。この点については「大伴部博麻」の帰国が「六九〇年」という段階まで遅れた理由と同一ではないかと考えられ、彼も帰国が許可されなかったという可能性があります。

 ところで、「大伴部博麻」が帰国できた理由のひとつとしては「徳政令」があるかもしれません。「天武」「持統」両時代に出された「元本」と「利息」の双方について「乙酉年」以前についてはこれを免除するというこの「朱鳥の徳政令」は、「債務」を「労働」で支払っていた人たちにも適用され、彼ら「全員」が解放されたことを示します。
 これは「国内」に出されたものですが、「国外」で同様に「労働」による「債務」返済に従事していた人たちにもその恩恵が及んでいたのかもしれません。これは「戸籍」がある限りの者全てに適用されたという可能性もあるからです。
 ただし、「利息」「元本」共にその権利を失う「債権者」側にとっては、「大事件」であり、かなり強烈な「反感」や「拒否」があったかもしれません。または「政府」(「国家」)に対し「肩代わり」を要求するものも多数に上ったのではないでしょうか。
 これに対し全員であるかは不明ですが、一部の者には「肩代わり」することもあったのではないかと思料され、それに併せ「博麻」の場合も「債務」の「肩代わり」をしたと云うこともあり得ます。彼の場合は「主君」のために身を売ったのですから、国家がその賠償をして当然だからです。つまり「薩夜麻」等「博麻」の献身を知っていた人によって、「博麻」の捜索が行われ、発見された彼の「残債」を肩代わり(立替払い)したと言う事も考えられます。それにより彼は帰国できたのかも知れません。
 これに関しては、「天武」の葬儀の際に「倭国」を(たまたま)訪れた「新羅王子」に「博麻」の「捜索」と「支払い」を託したという可能性もあります。
 この「捜索」により「旧百済」領内で「債務」返済のため「労働」に従事していた「博麻」を見つけ、「唐」からの還りの「学問僧」に付けて帰国させたという可能性もあると思われます。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2017/02/06)