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三十年に亘る補囚の理由


 「大伴部博麻」の帰国後「持統天皇」から出されたという「詔」によれば、彼は「土師連富杼等」の帰国のために「身を売った」とされています。しかし、先に検討したようにこの時に帰国したのは「土師連富杼」ともう一人(弓削連元寶兒)が一緒であったもようです。彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。

 この「大伴部博麻」達は既に考察したように、「百済」の国内のどこかに「収容」されていたものと推察されます。
 このように「百済」からの帰国と仮定すると、その道のりは『魏志倭人伝』に書かれた「魏使」の行程と余り違わないかもしれません。そうであればその行程としては「陸行一月」程度以内及び「水行」は実質的には「数日」でしょう。「魏使」の場合は「帯方郡」からですから、水行期間が長かったと考えられますが、「熊津都督府」付近とするとほとんど「陸行」と考えられます。

 時も場所も違いますが、「古代ローマ」での「奴隷」の売買の相場は「年収」程度の金額が相場であったようです。また「秦漢」では「奴婢」の購入費用は代々「田一畝分」程度とされています。
 仮に「大伴部博麻」が体を売って得た金額が「新羅」での「年収」分と考えると、その金額は上に述べた帰国行程から見て「二人分」の「帰国費用」としては多すぎるぐらいではないでしょうか。
 このことは実際にはもっと少ない金額で帰国できた可能性を考えさせ、そうであればその返済期間に自分自身の帰国費用の工面に要する期間を加えたとしても、「三十年」は余りに長いと考えられるものです。
 もし仮に「新羅」の平均年収程度を借り入れたと想定しても、「十年程度」で返済可能ではないかと思慮します。(収入の20パーセントを返済に充てるとする)
そして「自分自身」の帰国費用の捻出に更に「五年」程度かかると想定した場合は「十五年」、これをいくらか大目に考えても「二十年」ぐらいの期間があれば帰国可能となると思われ、「三十年」という長期の滞在期間には「不審」が感じられるものです。
 また、天武紀には「遣新羅使」が数多く送られており、これを利用することはそんなに難しくなかったものと思われ、それにも関わらず帰ってこられなかったということに「不審」を感じるものです。
 つまり、三十年も滞在が長期化した理由は「別」にあるのではないかと推察されます。この理由として考えられるのは、「政治的」な理由ではないでしょうか。

 「大伴部博麻」は「六九〇年」になって「新羅」の船で帰国していますが、これは実は「薩夜麻」の死去の話を聞いて帰国したのではないでしょうか。つまり、彼は「薩夜麻」の生存中は、その帰還が「許されなかった」のではないかと思えるのです。
 彼の存命中に「大伴部博麻」が帰国すれば、「部下を売って帰国した」と「薩夜麻」にとっては印象の悪い話を流布される可能性があり(事実であったかはともかくとして)、はなはだ「不名誉」な事であり、民意が離れていく事を懸念したのではないでしょうか。

 「薩夜麻」については『書紀』は帰国記事だけであり、その後のことが(その前もそうですが)一切書かれていません。「百済を救う役」及びそれに続く「白村江の戦い」で捕虜になった人物で「君」の称号で呼ばれるような「高位」の人物の帰還は彼しかいないのです。
 これら一連の戦いでは多くの人間が捕虜になった模様であり、「大伴部博麻」や「八世紀」に入ってから帰国できた「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等」等の人物などもいますが、彼らに対してはその時点の天皇より彼らの労苦に報いるような「顕彰の詔」と多大な褒賞が与えられています。であるとすれば、帰国した「薩夜麻」にも同様に「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう詔が発せられても良さそうなものですが、それらは「全く」記載されていません。
 もし、彼が取るに足らない存在であれば「郭務悰」を伴って帰国するなどの行動や、その帰国に際して「郭務悰」に先立って「対馬」の守備隊に「身分」を明かし、攻撃しないよう要請するなどの行動も不可能でしょう。(彼は「筑紫君」なのですから「対馬」の人間にとっては「既知」の人間であったと考えられます)
 そもそも「郭務悰」と同行している、という事は「郭務悰」はこの「薩夜麻」という人物について「熟知」していたと考えられるものです。つまり、「薩夜麻」が「筑紫君」であること、『書紀』には記載がないものの、推測によれば「倭国王」であり、少なくとも「百済遠征軍」の将軍の一人であったことなどです。
 彼の発言や行動あるいは指示が「倭国」では有効であることを承知していたからこそ、同行させたと考えられ、逆に言えば「薩夜麻」の存在が「倭国内」で重要であることが推察されるものです。
 また、他の帰国者のように「褒賞」などを与えられ一種の「お茶を濁す」ような事も可能でしょうが、彼に対してはそのようなことをするわけに行かなかったことが「何も書かれていない」このとの「裏側」にあるのではないでしょうか。つまり、彼は「最重要人物」であったと思われ、そのような人物である「薩夜麻」が「帰国」後もそれなりの地位にいたであろう事は想像に難くないと考えられます。

 また「彼は」「筑紫の君」という立場でしたが、「大伴部博麻」は「筑後の軍丁」ですから、「薩夜麻」の部下であったわけであり、(だからこそ主君のために体を売ろうとしたと考えられますが)そんな彼(大伴部博麻)に「薩夜麻」の立場を悪くするような「証言」ができるわけもないわけであり、彼(薩夜麻)がその後も生きていたであろう事は間違いないことと思われますから、彼のために「体を売った」とされる「大伴部博麻」が帰国できる条件が整わなかったものと考えられます。
 つまり「薩夜麻」の死去は「六九〇年」という年次にかなり接近した年であることが推定されるものです。そして、「やっと」帰って来ることができた「大伴部博麻」は「捕囚時」のことを話したのでしょう。その結果、「持統天皇」は詔を出すこととなったものです。
 その「持統」の詔では「朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」とされ、「薩夜麻」達を帰国させるのに「身を売った」ということが「尊朝愛國」とされ、最上の美徳であるように顕彰されていますが、それもそのはずであり「薩夜麻」が国内において「至上」の存在であったことをその過大とも誇張とも思える詔の表現が示しているようです。
 しかしこの「大伴部博麻」が帰国してから話した(話すことができるようになった)内容については、「多くの人々」が「薩夜麻」と結びつけて考え、そして受け取ったものと思われ、この「倭国王」の挙動に対して「失望と怒り」をもって受け止められたのではないでしょうか。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2016/12/06)