先に見た「慶雲年間」の「捕虜」の帰国も、また『天武紀』の「捕虜」の帰国記事からも、当時の「捕虜」達が「官戸」という半奴隷的立場に落とされていたことが明らかになっていますが、もし「博麻」達が「唐」に連れて行かれて「官戸」ないしは「官奴婢」という立場となったとすると、この場合は「逃亡」(特に国外への逃亡)はかなり困難であったと思われ、「博麻」が身を売ったところで「唐国内」から脱出することはとても不可能であると思われます。
また結果的に「博麻」は「身を売った」とされていますが、三十年経過の後に釈放されて帰国しています。この釈放は上で見た『続日本紀』の「刀良」等などとは当然異なるものです。「刀良」は「身を売った」わけではありませんし、釈放されたのは「長年月」年月経過して「老年」に達したための一種の「恩赦」のようなものであったと思われます。(そういう制度や運用は実祭にあったもののようです)しかし「博麻」の場合は明らかに「仲間の帰国費用」という「債務」を負い、その返済のために必要な期間「労働」に従事したものであり、その期間が過ぎたため「解放」されたものと考えられ、この二つは明らかにその「性質」が異なるものです。
この「博麻」の場合は「律令」に言う「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。「役身折酬」とは『養老令』「雑令」に定めがあるものであり、「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。
(以下『養老令』雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」
(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」
ここで書かれたような「債務返済」の一方法としての「役身折酬」というような規定を「博麻」達が知っており、それを自らに「適用」しようとしたのではないかと考えられます。(これは彼等に「律令」の知識があったことを示しており、この「六六〇年代」において「倭国」に「律令」が施行されていたことを「示唆」するものでもあります。)
彼らはこれを「抑留」されていた場所で行おうとしたものであり、これは彼らが「官奴婢」や「官戸」という立場ではなかったことを示しているでしょう。確かに『持統紀』の記事では「虜」となったとは書かれているものの「没」されたとは書かれていませんから、「官戸」や「官奴婢」となったわけではないことが窺えます。
元々このような返済方法は「良民」(自由民)にしか許されておらず、「官奴婢」のような立場にいる人間には、そのようなことは不可能であったでしょうし、そのようなことを考えるという「発想」がなかったものと思われます。
「唐」に連行され、「官戸」ないし「官奴婢」などという立場に「落とされた」人間が、更に「債務」を負い、そのために「労働」で返済しようというのは、基本的には「無理」な話であると思われます。そもそも「奴婢」の労働は「無対価労働」とされ、いわば「ただ働き」です。けっしてそれが何十年続こうと解放されるということはありませんでしたが、「良民」が「債務」を払いきれず「労働」で返済するという場合は「賠償」が済むと解放されるのが普通でした。(但し、債務があまりに多い場合はその労働期間も長くなり、「終身」「奴婢」同然に労働させられる場合もあったとされます)
この事からの推論として、「彼等」は「唐」国内において「官戸」でも「官奴婢」でもなかったこととなり、「自由民」として存在していたと推定されることとなります。そのようなことが実際に可能だったのでしょうか。そうは思えません。
また「唐」国内では人身売買ができなかったと考えられます。「唐」で自分の身を売ったとすると、買ったのは「唐人」であることとなりますが、「唐律」では「人身売買」は「死罪」とされていました。「人」を掠(かすめる・さらう)し、掠売し、和売して「奴婢」と成したものは「死罪」、とされていたのです。また、それを買ったものについても「別」に「罪」が決められており、「唐律」では「良人」を「奴婢」としては買えないこととなっていました。
確かに彼等は「戦争捕虜」であって、「良人」でないのは確かですが、だからといって自由に「売買」ができたとも思えません。というより「戦争捕虜」だからこそ自由には売買できなかったという可能性があると思われます。それは、戦争は国家対国家で行われたものであり、「戦争捕虜」の「所有」は「国家」に帰するものと考えられるからです。しかも、戦争終結に当たっては往々にして「捕虜同士の交換」などの「戦後処理」が行われるなど、外交活動の道具ともなるものです。
彼等が収容されていた場所が「唐」国内であったとした場合は、一応「軍」の監視下にあったはずであり、そのような人間である立場の者を「買った」人物がいたとしたらまた不思議です。
少なくとも、「唐」において、自分の身を売るとしても「買い手」が付かない可能性が高いと思われます。(そのような「リスク」を犯す意味がないと思われます)
「官戸」や「官奴婢」であったとすると「良人」ではありませんが、それは別の意味で売買はできないわけですから、いずれにしろ「博麻」が「身を売る」ということは「唐国内」ではできなかったという可能性が高いものと思料します。
「持統の詔」に現れた彼等は割合自由に活動していたと思われ、「衣糧無きにより」とされていることから、逆に「衣糧」さえあれば帰ってくることが可能であると彼等が認識していたことを示すものですが、更に、彼等を「買う」というものがいたと言うことなどを総合すると彼等が収容されていた場所は「唐」の国内ではなく、「彼等」が「唐」の国まで連れて行かれたわけではないことを示しているとも思えるものです。
これに関係していると考えられるのが『斉明紀』の「斉明」による「軍派遣の詔勅」です。
「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」
ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていたようです。
「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」
このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを想定すると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
この「詔勅」により戦いが始められたとすると、『書紀』に書かれた「阿曇連」「阿部臣」の両者が将軍となっている派遣軍は実は一旦「新羅」に向かったと言えそうです。そして、それは「水軍」だけで行われたものであり、「上陸」作戦ではなかったと思料されます。しかし、『書紀』にはこの戦いの情景が活写されていません。あくまでも「戦いの場」は「百済」であったかのように書かれています。これは「百済再興」という目的ならば首肯できるものですが、「百済支援」というのであれば「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。つまり「斉明」によるとされる「発遣の詔勅」の目的は「百済再興」ではなく、「百済支援」であり、そうであれば「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われることとなります。これがその一年後であって、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的であるなら、違和感はぬぐい得ないものです。
「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」
このため、戦略的「効果」としては薄いものになったと見られ、この後再度今度は「阿曇連」だけを大将軍として同様の戦いが行われます。
「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」
この記事では「百済」に向かったように読めますが、少なくとも一部については「新羅」へ向かって「背後」を衝く作戦が行われたと見られます。この時は「阿曇連」の水軍が主体で戦うというより、「地上戦闘員」を多数擁していたと見られ、そのかなりの部分が「新羅」へ向かったものと思われ、彼らにより「上陸」作戦が敢行されたと見られますが、その中に「倭国王」も「親征」したものと考えると、彼とその周辺の人物達が一斉に「捕囚」となったとした場合、それは「新羅」の地であったという可能性が高いでしょう。
そして「百済」が「唐」「新羅」の連合軍に敗れた後、彼ら(連合軍)は「旧百済」の首都であった「熊津」に「都督府」を設置しました。それに伴い、「薩夜麻達」は「重要人物」と言うこともあり、「新羅軍」の手に落ちた後は「旧百済国内」のどこか(「熊津都督府」からそう遠くない場所と思料される)へ移送され、「都督府」の監視下に置かれていたのではないかと推測されます。つまり、「唐軍」ではなく実質的には「新羅軍」の「捕囚」となったというわけであり、「唐国内」まで連行されたとは考えにくいこととなるでしょう。
このように「旧百済」の国内で「捕囚」生活を送っていたと考えられるわけですが、この時「帰国費用」を「博麻」に「貸し付けた」(形としてはそうなる)人は、彼ら「博麻達」の立場や思惑、心情などを「知っていた」(分かっていた)ものと推察され、彼らに「同情的」な人物であったのではないかと考えられます。
「百済」は元々「倭国」と深い関係にあり、これらのことは「博麻」に対して「融資」に応じ、帰国に要する費用を立替えた人物は「旧百済」関係者と推測され、彼は「百済」の「富貴層」に属する人物で、何らかの形で「倭国」と「関係」の深かった人物であったという可能性を想定させます。(「熊津都督府」の経営はもっぱら「旧百済国人」がこれに当たっていたとされることもこれを裏書きするものです)
また、推定によれば「薩夜麻」は「劉仁軌」に引き連れられて「泰山封禅」に参加させられたものと考えられます。この時の様子は以下のように複数の史書に書かれています。
「麟コ二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚ス 擢拜大司憲」「旧唐書・劉仁軌伝」
「麟コ二年(乙丑、六六五)上命熊津都尉扶餘隆與新羅王法敏釋去舊怨
「八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣太子福男來侍祠。」『資治通鑑』
これらによれば「劉仁軌」は「新羅」「百済」「耽羅」「倭国」の「四国」の「酋長」(資治通鑑では「使者」)を「浮海西還」つまり「船で」「西に」連行したとされています。
「薩夜麻」は明らかに「高官」であり、そのような人物の場合、派遣した将軍(この場合「劉仁軌」)の「帰国」の際に「連行」するのが基本と考えられ、(「蘇定方」が「百済義慈王」以下彼の配下の将軍達を連行して「皇帝」(高宗)に示したように)それ以前のタイミングでの連行、そして「皇帝」への「拝謁」というようなことは行なわれなかったと推察されます。
この場合、「劉仁軌」の帰国というのが上の「泰山封禅」のタイミングであり、その時点のことを「仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會」と書かれているわけですから、彼が「倭国」の「酋長」を含め半島諸国の王を連行したとすると「倭国酋長」は明らかに「唐」にいるのではなく「熊津都督府」の近傍にいたこととならざるを得ません。 また、この「酋長」というのが「王」を指すと考えられるのは、上の「劉仁軌伝」にあるように、彼らを連れて行ったところ「高宗」ははなはだ喜び、「劉仁軌」を特別昇進させたと言う記事からも分かります。ただの「使者」(各国の将軍程度の高官を指すか)でこれほど喜びはしないでしょう。これらのことからこの時「劉仁軌」が連行した「各国」の「酋長」とは各々の国の「王」を指すことを意味し、「倭国酋長」については「捕囚」の身であった「薩夜麻」であった可能性が強いと思料されるものです。
この「百済を救う役」とそれに引き続く「白村江の戦い」では推定で「総計七万四千人」という多数の「倭国人」が派遣されたものと考えられ、そのうちのかなりのものが戦死し、(多くは海戦での死者と考えられます)また、戦後一部のものについては帰国できたものの、かなりの数の人間(数千人以上ではないか)が「捕虜」となったものと思料されます。
これだけ多数の「捕虜」が発生すると、彼等を一時的に収容する場所も複数必要となると考えられますし、「唐軍」と「新羅軍」の関係を見ると別々に戦っていたように見受けられ、その際の捕囚も各々の軍の帰属で収容場所も変わったとも見られます。その中には確かに「唐」まで連行されたグループもいたものです。
その後、「倭国」との戦争状態が六七〇年代に終結したことを受け、その時点で「熊津都督府」の管理下にあった捕虜は解放されたものと見られますが、半島情勢がその後大きく変化し、「旧百済」の地であった「熊津都督府」も「新羅」に制圧されるところとなるなど、新羅」が「唐」を追い出して半島全体を支配する構図となったため、「唐」に連行されたグループの中には「帰国」が出来なくなったものもいたものでしょう。
もちろん「衣糧」ないし「旅費」を持っていた「遣唐使」などはその一部のものが「新羅」経由で帰国できたものもいたようですが、全体としては帰国が大幅に遅れたものです。
しかし、「旧百済」の地に「収容」されていたグループの大多数はその後「帰国」出来たものと考えられ、「百済」であれば、「倭国」ともそれほど遠距離ではありませんし、人身売買に関する「唐律」を「百済」が受容していたとも考えられませんので、「博麻」のように「身を売って」旅費を稼ぐというようなことも可能であったものと考えられるものです。
(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2015/08/15)