「持統の詔」に出てくる「天朝」の例の意味について考察してみます。
この使用例は「天武」の死去に際して「土師宿禰根麻呂」が「新羅」の使者(弔使)に対して言う言葉の中に登場するものです。
この「弔使」は「持統三年(六八九)四月二十日」に「筑紫」到着したようであり、そこで「金銅阿弥陀像」等の「献上物」を「弔意」を表すため提出しています。そして、これらの「献上された」品々を「朝廷」に運び、内容を改めた結果、この「献上物」とこの「弔使」自体に疑問を持った「持統朝廷」は、これを受け取らず返還することとしたわけです。そして、これについての「説明」を(外交上非礼のないように)「勅」の形(つまり「天皇の言葉」として)で「土師宿禰根麻呂」が「詔」として伝えていることとなったと見られます。「根麻呂」が伝える「勅」の中に「天朝」という用語が使用されており、「一見」「天皇自身」の言葉として「自王朝」を「天朝」と言っているように見えます。
「天朝」を「美称」と考えると、「自分」の朝廷(というより自分自身と言えます)を「尊敬」して話していることとなってしまい、前に述べたようにはなはだ不審です。
これも「筑紫」の「朝廷」のことを指すのかと考えると、「問題」と思われることがありました。それはこの「持統三年」(六八九年)という段階で「筑紫朝廷」が存在していたかが「はっきり」しないことです。
「持統朝廷」が近畿王権なのか倭国王権なのか、倭国王権だとしても、この年次の時点で「遷都」しているのかどうかなどについてまだ明確になっていないように思えます。この点について考えるといろいろな可能性があり、もしこの段階で「筑紫」にはすでに「朝廷」がない、という事であれば「天朝」が「筑紫朝廷」を指す用語という「仮定」と矛盾する、という考え方もあり得ます。
ところで、この記事に関しては、別の意味で疑問があります。
『書紀』によれば「天武」の死去した翌年の「持統元年(六八七年)九月」に「たまたま」「新羅王子」一行が来倭しています。彼らの来倭目的は「奏請國政」つまり、何らかの政治的方針の表明などを要請に来たものかと推察され、この時点では「倭国王」の死去を知らなかったのではないかと推量されます。そして、「天皇崩」という知らせを「大宰府」で聞き、そのまま「喪服」に着替え、「弔意」を表したとされています。
その後彼らの「接待役」として「任命」された「直廣參路眞人迹見」が「勅使」として送られ、その彼から「正式」な「天皇崩御」の知らせを受けて、改めて「三發哭」という儀式を行い「弔意」を示しています。
このようにすでに「王子」という高い地位の人間が「弔意」を表しているわけであり、それにも関わらず、一年余り経ってから「別の」弔使が(それも位の低い人物が)派遣されたというのも不思議な話です。
これらの事はこの「六八九年」の「新羅弔使」である「金道那」記事の真偽について「疑い」を生じさせるものです。可能性としてはこの記事が「正木氏」のいわゆる「三十四年のズレ」の対象記事であったという場合です。(「正木裕氏」の「論文」「日本書紀の白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号及びそれに続く関連の論文をご参照願います)
この記事は「三十四年移動」の対象として考えられている本来「孝徳」の「葬儀記事」であったものに続く「一連」のものという可能性があるわけです。(ただし「正木氏」はこの記事については「移動対象」とは考えておられないようですが)
『書紀』によれば「天武天皇」は「朱鳥元年」(六八六年)九月に亡くなっています。そして、明けてすぐの「持統元年(六八七年)正月」に盛大な「誄礼」の儀が行われています。さらに、一年後の「持統二年」(六八八年)正月には「殯宮参り」が行われており、この段階においてもまだ「埋葬」が済んでいないように見えます。
このように「通常」の理解の範囲内の「葬儀関連」記事の他に「六八九年」の「葬儀」的儀式の記事があるのであり、この記事の存在は「不審」であると理解された「正木氏」により「三十四年遡上」という『書紀』に対する研究が発生したわけです。
この「不審」はこの「新羅」からの「弔使」についても言えるのではないでしょうか。
「上」で見たように「葬儀」直後に「新羅王子」が「来倭」して「弔意」を表しているわけであり、一年余り経ってから「弔使」が更に来るというのも同様に「不審」であると思われるものです。
記事の流れから見ても「三十四年遡上」と考えられる「葬儀記事」と、この「新羅」からの「弔使派遣」とそれに対する「詔」という記事は一連のものであり、「葬儀記事」と同様、本来『孝徳紀』の記事であったものが移動させられているのではないかと推測されます。
つまり、「田中法麻呂」が派遣されたのは実は「天武」ではなく「孝徳」の「崩御」を知らせるものだったのではないかと推量されることとなるでしょう。
ただし、こう考えると「根麻呂」が伝達した「詔」の内容に書かれた「天皇」の「代」が「ずれる」こととなります。
つまり、従来「天武」の「崩御」を知らせる役目であったと考えられる「田中法麻呂」が、「孝徳」崩御を知らせるものとなると、必然的に「巨勢稻持等」がその「喪之日」を「新羅」に知らせた「昔在難波宮治天下天皇」とは「孝徳」ではない、ということとなってしまいます。
ではここでいう「昔在難波宮治天下天皇」とは「誰」を指すのか、というとそれは推定によれば「利歌彌多仏利」を指すものではないでしょうか。
「孝徳」自身は「近畿王権」の王であると考えられますが、彼の時代の「倭国王」以前の歴代の「倭国王」の中で、「難波」に関係している「直近」の人物というと、該当するのは年次的にも「利歌彌多仏利」になると考えられます。
『二中歴』には「倭京」の項目のところに「難波天王寺聖徳造」とあり、この「聖徳」とは「利歌彌多仏利」を指すと考えられますから、彼は「難波」に関係した人物であったようです。
「利歌彌多仏利」は、推測によれば「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降、「倭国王」であったと考えられ(「太子」であったとされているわけですから、「阿毎多利思北孤」死去後は彼が「倭国王」を嗣いだと考えるのは自然です)、「九州年号」では「六四七年」に「常色」に改元されていることから考えて、この年かその前年の「六四六年」に「死去」したものかと推察されます。
この推測を傍証するものが「根麻呂の詔」の中にあります。 この「根麻呂」の詔の中では「昔在難波宮治天下天皇」の崩御に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれており、彼の肩書きが「翳餐」とあります。これは「伊餐(?)」と同じものであり、「新羅」の官位の十七階中第二位のものです。
しかし、この「昔在難波宮治天下天皇」が「孝徳天皇」を示すとすれば、彼が「六五四年十月」に亡くなったわけであるのに対して、「金春秋」は、『三国史記』によればそれ以前の「六五四年三月」に先代の「真徳女王」を継いで「新羅国王」の座についています。
つまり、「孝徳天皇」死去の知らせが来た段階ではすでに「金春秋」は「国王」になっているわけであり、その時点で「翳餐」という「第二位」の官位を持っている「官人」であったとするこの『書紀』の記事とは大きく食い違っているのです。
また、この時点で「新羅」からの「弔使」に対してを献上された物品を返却したり、以前からの倭国に対する態度を問題にしているなど「厳しい」態度に出ているのは、「新羅」が「唐服」を着用して追い返された「六五一年」の出来事と性格を等しくするものです。
これを「天武」の死去時のことと考えると、「天武」の時代に入ってからの「遣新羅使」や「新羅使」などの往来が頻繁になり、それにつれ「新羅」との関係が急速に良好となり「友好的」なものとなっていった「時代」の「雰囲気」と合致しないと思われます。
また、この「詔」の中では「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されています。「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この『持統紀』を除けば)最後は『孝徳紀』です。ただし、『孝徳紀』の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
それに対し同様の意義として「御宇」も見られます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)『孝徳紀』です。(ただし「詔」の中に現れるものです)
この『孝徳紀』の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。
中国の史書の出現例も同様の傾向を示し「治天下」は古典的用法であるのに対して「御宇」は「隋」以降一般化した用法であると考えられます。このことは「治天下と「御宇」が混在している『書紀』の例は「隋代」以前に倭国に伝来した「漢籍」によって既に書かれていたものであり、その後「隋代」以降に流入した「漢籍」によって「御宇」使用例が付加・補強されたことを示すものと思われます。
また、「飛鳥浄御原律令」は『大宝令』が「准正」としたと『続日本紀』にも書かれているように『大宝令』とほぼ同内容と考えられ、『大宝令』以降に「御宇」の例が見られることは即ち「飛鳥浄御原律令」時点で「御宇」という使用法が既に発生していたと考えられますが、そう考えると、「持統」の「詔」に「治天下」という表現が使用されているのは「不審」と考えられることとなり、これも時代の位相が違うことを示します。
これらの事はこの「六八九年」の「新羅弔使」である「金道那」記事の真偽について「疑い」を生じさせるものであり、この記事については年次が移動されている可能性を感じさせます。これは「正木氏」のいわゆる「三十四年のズレ」の対象記事であるという可能性があるものと思われます。(ただし「孝徳」の「葬儀記事」とは考えられませんが)
また「正木氏」はこの記事については「移動対象」とは考えておられないようです。
『書紀』によれば「天武天皇」は「朱鳥元年」(六八六年)九月に亡くなっています。
そして、明けてすぐの「持統元年(六八七年)正月」に盛大な「誄礼」の儀が行われています。さらに、一年後の「持統二年」(六八八年)正月には「殯宮参り」が行われていますからこの時点ではまだ「埋葬」が終わっていないようです。ただし「一周忌」の儀式であったことは間違いないようです。
このように「通常」の理解の範囲内の「葬儀関連」記事の他に「六八九年」の「葬儀」的儀式の記事があるのであり、この記事の存在は「不審」であると理解された「正木氏」により「三十四年遡上」という『書紀』に対する研究が発生したわけです。
この「不審」はこの「新羅」からの「弔使」についても言えると思われます。
記事の流れから見ても「三十四年遡上」と考えられる「葬儀記事」と、この「新羅」からの「弔使派遣」とそれに対する「詔」という記事は一連のものであり、「葬儀記事」と同様、本来『孝徳紀』段階の記事であったものが移動させられているのではないかと推測されます。
つまり、「田中法麻呂」が派遣されたのは実は「天武」ではなく「孝徳」の時代の「倭国王」の「崩御」を知らせるものだったのではないかと思料されるわけです。(「三十四年遡上」と考えると、「孝徳死去」の年月と「田中法麻呂」の派遣年月が齟齬するので、これは「孝徳」に対するものではないと判断できます。)
『書紀』によれば「六四六年」に「遣新羅使」が送られており、それに応え翌「六四七年」(常色改元の年とされます)「金春秋」が「来倭」しているようですが、この時の「金春秋」の肩書きは「大阿餐」であったと『書紀』にあります。他方『三国史記』によれば「六四三年」の段階ですでに「伊餐」であったようです。(以下の記事)
「(善徳王)十一年(六四三年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊餐』金春秋於高句麗」
これらに従えば『書紀』の記事にある「大阿餐」という官位が疑わしいと考えるのが通常でしょう。つまり「高向玄理」等が「遣新羅使」として送られた段階で既に「伊餐」ないしはその直下の位階を得ていたのではないかと考えられるものであり、そうであれば、「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「金春秋」が「奉勅」したというのはずっと以前の事ではなかったかと考えられるわけですが、こう考えると「根麻呂」が伝達した「詔」の内容に書かれている「巨勢稻持等」がその「喪之日」を「新羅」に知らせた「昔在難波宮治天下天皇」とは「孝徳」ではないこととなるでしょう。
ではここでいう「昔在難波宮治天下天皇」とは「誰」を指すのか、というとそれは「利歌彌多仏利」を指すものではないかと推定されるわけです。
彼の時代の「倭国王」以前の歴代の「倭国王」の中で、「難波」に関係している「直近」の人物というと、該当するのは年次的にも「利歌彌多仏利」になると考えられるからです。
『二中歴』には「倭京」の項目のところに「難波天王寺聖徳造」とあり、この「聖徳」とは「利歌彌多仏利」を指すと考えられますから、彼は「難波」に関係した人物であったようです。(拙論『「国県制」と「六十六国分国」 -『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において」古田史学会報一〇八号及び一〇九号』でも「難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世」というのは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の朝廷を指すという指摘をさせていただきました)
「利歌彌多仏利」は『隋書俀国伝』によれば「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降「倭国王」であったと考えられ、「九州年号」では「六四七年」に「常色」に改元されていることから考えて、この年かその前年の「六四六年」に死去したものかと推察されます。
この「詔」が「三十四年」前に出されたものと考えると、「喪使」が派遣された年次としても「翳餐(伊餐)」という「金春秋」の「位階」や「治天下」という表現などもその時代に合った大変似つかわしいものになると考えられます。
また「詔」の中で「田中法麻呂」の派遣が「二年」と記され、それは「朱鳥二年」のこととする「正木氏」の研究(『「朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)」古田史学会報七十八号 二〇〇七年二月十日)があり、これは上で行った思惟進行と合致しないわけですが、それについては以下のように考えられます。
「孝徳」の時代はまだ、「葬儀」と「即位」などの「吉凶」の行事が明確に分離していなかったと思われ、ある程度長い「服喪期間」をとった後に即位するなど、「吉凶」が分離されるのは『持統紀』以降(「飛鳥浄御原令」による)とする研究もあり(「田沼眞弓氏」「日・中喪葬儀礼の比較研究」 )、この「孝徳」の時代の「倭国王」の場合、死去後「殯」(もがり)が済んだ時点(「葬儀」の前)の時点で「即位」が行われ、その年を「新王元年」としたのではないでしょうか。
そうすると「翌年」は「新王二年」と考えられるわけであり、『書紀』の記事では「天武」の死去した翌年「田中法麻呂」の発遣記事があり、この「発遣」を指して「詔」の中で「二年」と言っているわけですから、これは「六五三年」の「発遣」とされていたのが本来ではなかったかと推察されるものです。
(このように「吉凶」が分離されずほぼ同時進行する例としては「崇峻」死去後翌月には「推古」が即位しているなどが代表的な「旧に類する」例と考えられます。これと同様のものであったのではないかと推測されるものです)
ただし、このように想定した場合、当然「詔」の中の「近江宮治天下天皇」に関わる「一節」全体は「八世紀」の『書紀』編集段階での「潤色」・「付加」であると考えざるを得ません。
「昔在難波宮治天下天皇」の「崩」を知らせた「巨勢稻持」は『書紀』に名前が出て来ませんし(似た名前はありますが)、「田中法麻呂」は上で見たようにタイミングがずれているように見えます。にも関わらず「近江宮治天下天皇」についてはその「弔使」の名前が『天智紀』の記載と見事に「合致」しています。
他の部分がやや「齟齬」があることと、この部分だけが「整合」していることが全体としてアンバランスなものになっており、この事はこの部分が「潤色」であることを示唆するものでしょう。つまり、この部分は元々の「詔」には無かったのではないかと推量され、『持統紀』に記事を移動した際に『持統紀』に出された「詔」であることを「補強」するために行われた「偽装」と考えられるものです。
以上により、この記事は「三十五年」遡上して「六五四年」に移動して考える方が合理的であると推測され、この「弔使」は「孝徳」の時代の「倭国王」の「葬儀」に関する「弔使」であると考えられます。そう考えると、この当時「難波」は「副都」であり、「首都」つまり「朝廷」は「筑紫」にあったと見られますから(難波副都説については「古賀達也氏」「前期難波宮は九州王朝の副都 -『古賀事務局長の洛中洛外日記』より転載」古田史学会報八十五号をご参照願います)、この「詔」の「天朝」というものが「筑紫朝廷」を指す用語として『書紀』では使用されている、という「仮定」(仮説)は、ここでも成立する可能性が高いのではないでしょうか。
(この項の作成日 2011/12/24、最終更新 2015/03/23)