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本朝と天朝(一)


 前記した「持統」の「大伴部博麻」に対する「詔」では、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。
 ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通(と)どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事について考えてみます。これは、今までは「疑い」もなく、「天皇」の朝廷(近畿王権)を意味するものとされていました。しかし、この「詔」を子細に検討すると別の考えもあってしかるべきではないかと考えます。

 まず、「持統」の詔の中に出てくる「大伴部博麻」の「本朝」について考えてみます。
 『書紀』の中では「本朝」はこの部分にしか出現しませんから、その用法・意味などについて他の例から帰納することは出来ず、あくまでもこの使用された部分の論理性から判断することとなります。
 「辞書」(大辞林)によれば「本朝」とは「我が国の朝廷。また、我が国。国朝」をいうとされています。これは常識的に考えてもうなずけるものです。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩夜麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩夜麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 「正木裕氏」は『「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号』の中で、この「天朝」について「唐朝廷」を指すとされていますが、ここで「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずですから、「本朝」と同様「筑紫朝廷」を指す言葉として使用されているのではないかと考えられるものです。
 現在の辞書では「天朝」については、「朝廷・天子を敬って言う語」というような一種「美称」「敬称」であるとされています。
 しかし、上で見たように「本朝」という用語の使用の状況から考えると、「天朝」という語義は、特に「筑紫朝廷」について使用されているのではないかと考えられるところです。

 「国外」の人間から見た使用例として『書紀』には「八例」数えられます。それは「神功皇后紀」二例、「応神紀」二例、「欽明紀一例」、「敏達紀」一例、「舒明紀一例」、「斉明紀一例」です。これらの例を分析しましたが、その「天朝」という用語からは、それが「筑紫」の「朝廷」を指すものかは不明でした。(引用は省略します)
 また「国内」の人間による使用例は「五例」あります。これらについては以下に当該部分を抜粋して表記してみます。
 
【「膳臣」が「倭国」を天朝と称した例】
 これは「膳臣」が「新羅」に行き、そこで「新羅」に(「新羅王」に)向かっていった言葉の中の例です。

『日本書紀』巻十四雄略天皇八年(甲辰四六四)二月条
八年春二月(中略)膳臣等新羅に謂りて曰わく「汝至りて弱きを以て、至りて強きに當れり。官軍(みいくさ)救わざらましかば、必ず乘(もま)れなまし。人の地に成らむこと、此の役(えだち)に殆(ほどほど)なり。今より以後(のち)、豈に「天朝」(みかど)に背きたてまつらむや。」といふ。(以下略)


【「小鹿火宿禰」が「倭国」を「天朝」と称した例】
 これは「新羅」に派遣した将軍「紀小弓宿禰」が死去した後、同じく「新羅」に向かった彼の子息である「紀大磐宿禰」が傍若無人の素行を行い、それを怨んだ「子鹿火宿禰」との間に起きた確執を記した文に登場する「天朝」の例です。
 ここでは「小鹿火宿禰」は「紀大磐宿禰」と同じ場所で仕事したくない、という事で「角國」という詳細不明ではあるものの「キ」ではない場所で「奉事天朝」することとなったというわけです。

『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)五月条

夏五月 紀大磐宿禰、父既に薨りぬることを聞きて、乃ち新羅に向きて、小鹿火宿禰の掌れる兵馬・船官及び諸の小官を執りて、専用威命ちぬ。是に、小鹿火宿禰、深く大磐宿禰を怨む。(中略)別に小鹿火宿禰、紀小弓宿禰の喪に從(よ)りて來つ。時に獨り角國に留る。倭子連(連、未だ何の姓の人なるかを詳(つばひらか)にせず)をして八咫鏡を大伴大連に奉りて、祈(の)み請(まう)さしめて曰わく「僕、紀卿と共に『天朝』(みかど)に奉事(つかへまつ)るに堪へじ。故請う、角國に留住(はべ)らむ」とまうす。是を以て大連、天皇に奏して、角國に留り居(す)ましむ。(以下略)


【「田道間守」が「倭国」(垂仁天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】
「田道間守」の場合は、彼は当時「但馬国」にいたと考えられ、その彼に「朝廷」から「非時香菓」を取ってくるよう命令が出て、「常世」の国まで取りに行き戻ってきた際の「田道間守」の言葉として、「垂仁」の朝廷のことについて「天朝」という用語を使用している例です。

『日本書紀』巻六垂仁天皇九九年(庚午七十)十二月条
冬十二月癸卯朔壬子 葬於菅原伏見陵 明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午(十二)に田道間守、常世國より至(かへりいた)れり。則ち賚(もてもうでいた)る物は非時(ときじく)の香菓(かくのみ)八竿(ほこ)八縵(かげ)なり。田道間守 是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰さく「命(おほみこと)を『天朝』(みかど)の受けたまはりて遠くより絶域(はるかなるくに)へ往る。萬里(とほ)く浪を蹈みて、遥かに弱水を度る。是の常世の國は、神仙の秘區(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以って往來(ゆきかよ)ふ間に、自からに十年に經(な)りぬ。豈に期(おも)ひきや、獨り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(ま)た本土(もとのくに)に向(もうでこ)むといふことを。然るに聖帝の神靈(みたまのふゆ)に頼りて、僅かに還り來(まうく)ること得たり。今天皇既に崩(かむあが)りましぬ。復命(かえりごとまうすこと)得ず。臣は生けりと雖も亦何の益かあらむ。」とまうす。(以下略)


【「日本武尊」が「倭国」(景行天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】
この「景行紀」の用例は「日本武尊」が死の間際に「能褒野」で発せられた言葉の中に出て来る「天朝」の例です。(大系はここの訓を「みかど」としています。)

『日本書紀』巻七景行天皇四〇年(庚戌一一〇)是歳
是歳 (中略)能褒野に逮(いた)りて痛み甚(さは)なり。則ち俘(とりこ)にせる蝦夷等を以て神宮に獻る。因りて吉備武彦を遣(まだ)して天皇に奏(まう)して曰(まう)したまわく「臣は命を『天朝』(みかど)に受(うけたまは)りて遠く東の夷(ひな)征(う)つ。則ち神の恩(めぐみ)を被り、皇(きみ)の威(いきほひ)に頼(よ)りて而叛く者、罪に伏ひ、 荒ぶる神、自づからに調(したが)ひぬ。是を以って甲(よろひ)を巻き戈を?(おさ)めて、ト悌(いくさと)けて還れり。冀(ねが)はくは曷(いず)れの曰曷れの時にか『天朝』(みかど)に復命(かえりごとまう)さむと。然るに天命(いのちのかぎり)忽ちに至りて、隙駟(ひのあし)停(とど)まり難し。是を以って獨り曠野(あらの)に臥す。誰にも語るもの無し、豈に身の亡びることを惜しまむや。唯愁ふらくは不面(まのあたりつかえまつらず)なりぬることのみ。」とまうしたまふ。既にして能褒野に崩(かむさ)りましぬ。時に年卅(三十)(以下略)


【「持統朝廷」のことを「天朝」と言っているように見える例】
これは「新羅」からの「弔使」に対しての「土師宿禰根麻呂」が「勅」を伝える場面で「天朝」が使用されている例です。(ここでも「大系」は「みかど」と訓をつけています)

『日本書紀』巻三〇持統三年(六八九)五月甲戌廿二
五月癸丑朔甲戌。土師宿禰根麻呂に命(おほ)せて、新羅弔使級餐金道那等に詔して曰わく「太政官卿等が敕を奉(うけたまは)りて奉宣(のたま)はく、二年に田中朝臣法麻呂等を遣わして、大行天皇の喪を相告げしめき。時に新羅が言(まう)ししく、「新羅の敕を奉る人は元來蘇判(そうかん)の位を用(も)てす、今復た爾(しか)せむと將(おも)ふ。」とまうしき。是に由りて法麻呂等、赴(つ)げ告ぐる詔を奉宣ふこと得ざりき。若し前(さき)の事を言はば、在昔難波宮治天下天皇の崩(かむあが)りましし時に、巨勢稻持等を遣わして 喪を告げる日に、翳餐(えいさん)今春秋、敕を奉りき。而るに蘇判を用て敕を奉ると言すは、即ち前の事に違(たが)へり。又近江宮治天下天皇崩りましし時に 一吉餐(いっきつさん)金薩儒等を遣わして弔ひ奉(まつ)らしめき。而るを今級餐(きふさん)を以て弔ひ奉るは 亦た前の事に違へり。又新羅元來奏(まう)して云(まう)さく、『我國は日本の遠つ皇祖の代より、舳(へ)を並べて楫(かじ)を干さず奉仕(つかえたてまつ)れる國なり』而るを今は一艘のみあること、亦た故(ふる)き典(のり)に乖(たが)へり。又奏して云さく『日本の遠つ皇祖の代より、以って清白(あきらけ)き心で仕へ奉れり。』とまうす。而るを竭忠(まめこころあ)りて本職(もとのつかさ)を宣べ揚ぐることを惟(おも)はず。而(しか)も清白きことを傷(やぶ)りて、詐(いつわ)りて幸(まめ)き媚(こ)ぶることを求む。是の故に調賦(みつき)と別(こと)に獻れるとを、並びに封(ゆひかた)めて以って還(かへしつかわ)す。然れども、我が国家(みかど)は遠つ皇祖(みおや)の代より 廣く汝等を慈みたまひしコ、?ゆべからず。故、彌(いよいよ)勤め彌(いよいよ)謹み、戰戰兢兢(おじかしこま)りて、其の職任を脩(おさ)めて、法度(のり)に尊(した)がひ奉つらむ者をば、『天朝』(みかど)、復た廣く慈みたまはまくのみ。汝道那等、斯の敕(みことのり)したまふ所を奉りて、汝が王に奉宣(の)べよ」とのたまふ。

 「田道間守」は「但馬」の人間ですし、「小鹿火宿禰」は記事からは不明ですが、元々「新羅」国内に拠点があった「親新羅系」の氏族と考えられます。また「膳臣」は「新羅王」の前で「天朝」と称していますので、これはある意味「新羅王」と立場が異ならないことを示しているようです。「天朝」がどこを指すかを別として「新羅王」が言うのであれば「倭国の王朝」を指して「天朝」という用語を使用するのは、或いは適切かも知れませんが、「膳臣」が言うとすると「本朝」が似つかわしいはずであるのに「天朝」と称している訳です。
 この「膳臣」については、その後の伝承によれば「近畿」周辺の人物と考えられ(若狭に拠点があったというものもあるようです)、少なくとも「九州」にはそのような「膳臣」に関わる伝承もその後の「子孫」もいないものと考えられます。
 そして、同様のことは「日本武尊」についても言えると思われます。彼は、『書紀』では明らかに「近畿王権」に関わる人物として描写されているわけですから、間違いなく「諸国」の人物と考えられます。(遠征に同行した武人も近畿周辺の人物です)
 彼が自分のいた「朝廷」のことを言うならば「博麻」と同様「本朝」という呼称使用するところのはずですが、実際には「膳臣」と同様「天朝」と言っており、この事は「彼らにとって」「倭国朝廷」は「本朝」と言いうるものではないと言うことを意味していると推察され、「田道間守」「小鹿火宿禰」「膳臣」「日本武尊」達の「本拠」と言えるところには「倭国朝廷」がない、という事を示していると考えられます。

 これらの例ではいずれも「本朝」と呼称しても良いと考えられるところで「天朝」と言っているのが注目されます。つまり、「本朝」という呼称が使用されない理由としては「大伴部博麻」がいみじくも「還向」と言う用語を使用したように「還る」という意識があって初めて使用できる言葉であり、それは「我が」朝廷、つまり「自分たちの属している」朝廷という意識があって始めて使える、というものと考えられるものです。
 つまり、「本朝」とは「自分たちが属している」「朝廷」であり、「天朝」とは「自分たちが属していない」「朝廷」を意味すると考えられるわけです。
 「辞書」(大辞林)では「天朝」について「『朝廷』に対する美称」とされていますが、論理的に考えても「自分が」所属する「朝廷」に対して「美称」「敬称」は使用しないものと思われ、それは「自分」に対して「尊称」する事と同意になると考えられることから、「他の朝廷」に対するものであるのは(潜在的に)自明の前提であると考えられます。
 そもそも「朝廷」とは「天子」(皇帝)の政治の中心点を指す言葉ですから、その「天子」の元には「一個所」しかないわけであり、「倭国の朝廷」も同様「一個所」しかなかったものと考えられます。そしてその「一個所」しかない「朝廷」がある場所というのが「倭国」の「本国」であると考えられ、その「本国」にいる(属する)人達の自分たちの王朝に対する自称が「本朝」であり、「諸国」の者達から見た「倭国」の「朝廷」に対する「敬称」が「天朝」なのだと思われます。
 そして「博麻」に拠れば「本朝」とは「筑紫」の「朝廷」を指すものと考えられるわけです。

 日本は「古」(いにしえ)から「倭国」と呼ばれていたわけですが、「倭の五王」の頃に対外拡張政策を採り、その結果、以前までの「倭国」と、その後「征」「服」「平」するなどして(「武」の上表文の表現による)「倭国」の勢力下に入った「諸国」に分けられることとなったと考えられます。
 その後は「元々の倭国」の領域に属する立場の人達は「倭国」の朝廷を「本朝」と言うようになり、「諸国」は「畏敬」の念を持って「天朝」と呼ぶようになったものと考えられます。
 彼らの例からは「近畿王権」のことを「倭国朝廷」とは考えていない、あるいは呼称していないと言うことを示しています。
「最後」の「持統」の例も同様と思われますが、ただしこの場合「不審」と考えられる点がありました。


(この項の作成日 2011/12/24、最終更新 2015/03/23)