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「永昌」改元について


 この「永昌」改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「武則天」の「詐欺」のようなものでしたが)
 そして、この「改元」に先だって「六八八年五月」に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられたようです。

「五月戊辰 詔當親拜洛,受寶圖有事南郊告謝昊天。禮畢御明堂朝羣臣。命諸州都督刺史及宗室外戚 以拜洛前十日集神都。」(『資治通鑑』による。)

 同様のことが『旧唐書』にも書かれています。
「其年五月下制 欲親拜洛受寶圖。先有事於南郊告謝昊天上帝。令諸州都督刺史并諸親 並以拜洛前十日集神都。…」

 これによれば「拜洛」の「十日前」には集合しなければならないとされています。これは結局同年十二月(二十五日)のことであったものであり、これに合わせ内外諸官が「洛水」に集められ、「武則天」が「圖」を「拝」するのに「内外百官」が陪従したとされています。

「十二月己酉(二十五日) 太后拜洛受圖 皇帝皇太子皆從 内外文武百官蠻夷各依方敍立 珍禽奇獸雜寶列於壇前 文物鹵簿之盛 唐興以來未之有也。」(『資治通鑑』による。)

『旧唐書』にもほぼ同様の記事があります。
「至其年十二月,則天親拜洛受圖 為壇於洛水之北中橋之左。皇太子皆從 内外文武百僚蠻夷酋長各依方位而立。珍禽奇獸並列於壇前。文物鹵簿自有唐已來未有如此之盛者也。」

 このように「諸州都督刺史及宗室外戚」に対し招集をかけたとされていますが、実際には「内外文武百官蠻夷」や「内外文武百僚蠻夷酋長」という表現がされており、「唐」国内だけではなく、周辺諸国にも「招集」がかかり、かなりの数の「祝賀使」が集められた様子が窺えます。この頃の「唐」の「勢威」はかなり強く、また「武則天」の性格から考えてもこのような祝賀のセレモニーが「大々的」に行われたであろう事は想像できるものであり、「唐興以來未之有也。」つまり、唐が興って以来今まで見たことがないぐらいだ、というわけですから、想像を絶するものであったと思われます。
 このセレモニーの「蠻夷酋長」に「海外諸国」が入っていないと考える理由は見あたらず、前年の五月に「招集使」が内外に派遣された際「倭国」にも「使者」が来たのではないかと考えられます。そして「倭国」でもそれに対応するため急ぎ使者を派遣したのではないでしょうか。
 この時の使者が派遣されたとすると、これは単なる「祝賀使」であり、「献上物」の持参と儀式への参列のみ行ったものと考えられます。このため、唐側資料にも倭国側資料にも記載されていないのでしょう。(これは他の夷蛮諸国も同様ですが)

 但しこの考えは「二〇〇二年」に「石神遺跡」から出土した「具注暦木簡」に「元嘉暦」が使用されていたと考えられていることと一種「矛盾」するといえるでしょう。「奈文研」などの見解では「木簡」に記された「辛酉破上弦」「戊戌皮三月節」などの文字列から、この「具注歴」の暦として「元嘉暦」が相当すると考えられているからです。しかし、この「具注歴」に書かれた暦は本当に「元嘉暦」なのでしょうか。
 「奈文研」を始めこの「具注歴木簡」に書かれている暦が「元嘉暦」であるという点では異論を見ませんが、本当にそうかというのが当方の意見です。
 疑問に思う一点は上に見たように「永昌元年」という「唐」の年号との矛盾です。なぜならこの年号の使用日付と「具注歴木簡」の日付(月)は同じなのです。全く同じ月を表現するのに「暦」は「元嘉暦」で、年号は「唐」の年号というのは甚だしい「矛盾」と言えるのではないでしょうか。
 「元嘉暦」が「南朝」の暦であり「唐」にとって「忌むべき」ものとも言える性格であることを考えると、「永昌」という年号と共存できるはずがないと言えるでしょう。
 「具注暦木簡」に表された日付や十二直などの表記は確かに「元嘉暦」で再現できますが、実は同様に無理なく再現できる他の暦が存在しています。それは「戊寅(元)暦」です。これによってもこの「具注歴木簡」に書かれた干支や十二直は再現できます。但し「戊寅(元)暦」では「三月」が「小の月」となります。つまり「二十九日」までしかないわけです。
 「奈文研」が発表した復元案(※)によれば暦の冒頭に月名などを表記するために「四行分」の「スペース」を取り、その後に等間隔で三十日分の記事を書いているようになっています。つまり、写真を見ると「三月癸亥」の真裏に「四月戊戌」が来るように見えます。「四月戊戌」というのは「十六日」であり、三十日側から数えると十五行目となります。この真裏に「三月癸亥」があるわけであり、これが(「元嘉暦」のように)「大の月」なら「十一日」となりますから、先頭に四行スペースを取ると同様に十五行目となって「真裏」に来ることとなって位置の対応は適合するという訳です。しかし、スペースが四行分かどうかは実は不明であり、これが四行としているのは「逆」に「三月」を「大の月」とするためであり、「元嘉暦」が使用されているということを言おうとする為であるともいえます。
 この先頭分のスペースが「五行分」であったとすれば、「十六日」である「四月戊戌」は十五行目で変りませんが、「三月癸亥」が「十日」となっても同様に「十五行目」となって整合します。つまり、「三月」は「小の月」で良いこととなりますから「戊寅暦」であっても構わないこととなります。(スペースが五行あったとする方が月名などをそのスペースの真ん中に書き込むのに都合が良く、またバランスを取りやすいと思われます。)
 そもそもこの時の「暦」そのものが不明なのですから、「三月」が「大の月」と決まっているわけではないのは当然であり、「二十九日」までしかなかったという想定も充分有り得ます。(但し、これは『書紀』の『持統紀』に使用されている暦の種類の問題とは別であり、そこには「元嘉暦」によって記されているとしか考えられない記述が並んでいることは確かです。しかし、『書紀』の記述に使用されている暦が必ずその時点で使用されていた暦であると言えないのは古代の部分の記述に「儀鳳暦」が使用されている例からも当然であると思われます。)

 ここで想定した「戊寅(元)暦」は「唐」で始めて改暦された記念碑的な「暦」であり、「唐」では「唐初」から「麟徳暦」に取って代わられる「六六五年」まで使用されていたものです。「中国」で作られた「暦」が既にその本国である中国で使用されなくなり、とっくの昔に改暦されていても、周辺国では使用が継続しているというのはしばしば確認される事象です。なによりも、「戊寅(元)暦」がここに使用されているとすると、「永昌」という「唐」の年号との「矛盾」も解消する事が重要であると思われます。
 ただし、倭国ではこの「戊寅(元)暦」が既に「唐」では使用されていない古いものであったということにこの「六八九年」の「祝賀使」派遣の時点で気がついたということではなかったでしょうか。そのため帰国後「麟徳暦」への改暦が議論され決まったものと思われますが、通常「暦」の製作と頒布は「十一月朔日」に行なわれるものですから、その翌年の三月や四月という時点では「戊寅(元)暦」の使用がまだ継続していたものと思料されます。
 そしてその年の「十一月」の時点で「改暦」されたものと見られ、「麟徳暦」が使用される事となったと見られますが、またこの「六八九年十一月」という時点は「庚寅年籍」の造籍が為された時点でもあり、これは「改暦」と同時の出来事であった可能性が高いと思料します。

 ところで「持統」の「大嘗祭」は「六九一年十一月」に行われたと『書紀』にありますが、洞田一典氏によれば、「持統」の「大嘗祭」は実際には「六九〇年十一月」に行なわれたものであったと「復元」されています。(※)つまり「大嘗祭」実施と共に「暦」の改定及び「周正」へ変更を行ない、「十一月」を「歳首」(年の初め、つまり「一月」)と変更したため、結果的に「大嘗祭」は「一月」に行なわれたこととなったと推測されています。そして、そのような原資料の状況を、「八世紀」の『書紀』編纂者が「不審」として「翌年の」「六九一年十一月」と「誤って」表記されたと考えられたのです。つまり「大嘗祭」は「仲冬中卯の日」に行なわれたはずという「観念的解釈」に縛られた結果、一年繰り延べた記事を作成したと考察されています。これは「生年」の次の年を名前にするという命名法に影響を与えたとみるとその考察が正当であるのが判明します。
 またこの時の「歳首」変更は、「唐」の「武則天」が行なったものに倣ったものという推測もされており、「持統」の「唐」への傾倒がかなり強かったことをうかがわせます。
 それまで「天武」在世中はそのような傾向は見いだせなかったものであり、「持統」の時代になって大きく変化した部分であると思われます。

 そして、「六八九年」の「正月」に「永昌」と改元されるわけです。

「永昌元年正月乙卯(一日),享于萬象神宮,大赦改元賜?七日。」「新唐書/本紀 第四/則天順聖武皇后 武?/永昌元年」

 「祝賀使」はこの「改元」を見届けたものと思料され、帰国したこの「祝賀使」からは「朝廷」に対して詳細な報告があったものと思われます。その報告の中には「武則天」に招集され「洛水」に集まった各国からの献上物の量とその内容、さらに直後に完成した「明堂」の規模と絢爛豪華さ。(高さは90m程度と推定されています)それらが報告されたものと推察されますが、さらに、「武則天」からは「封国」でない諸外国に対しても、「永昌」という年号を使用せよ、という言葉があったのではないかと推察されます。
 むろん「封国」ならばそうすべきですが、「柵封」されていたわけではない国々に対しても同様の「強い要請」が「武則天」からあったのではないかと思われ、「倭国朝廷」はこの「武則天」の「勢威」に押され、あるいは「怯え」、「永昌年号」を「正式文書」に使用することとしたのではないかと考えられます。これに併せて「麟徳暦」の導入を行うとともに「歳首」変更にも応じたものであり、それは「唐」の「正朔を奉じる」という姿勢を表すことで「服従」を誓ったものではなかったでしょうか。

 このように「祝賀使」の報告を受け、朝廷内部の公的文書に「唐」の年号を使用することとなり、「評督」任命の公文書に「永昌元年」という年号が書かれることとなったとすると、それが記載された文書が彼の元に届いたのが「六八九年四月」のこととなるわけですが、「唐」から帰国してすぐに公文書が書かれたこととなり、かなり「慌ただしい」事とは推察されますが、決して不可能ではないと思われます。
 (ここでは、倭国内でも一般的に「永昌」という年号が使用されたとは考えていません。それはあくまでも「公式文書」への記載に留まると考えられ、国内的には(年号を使用すべしというルールがなかったのであるから)「干支」が使用されていたこととなると考えられます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2019/06/23)