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「永昌元年」の謎


 この碑文では冒頭に「永昌元年」と書かれていますが、これは「武則天」時代の「唐」の年号です。なぜ北関東の石碑に「唐」の年号なのでしょう。

 「永昌元年」は西暦で言うと「六八九年」であり、「持統天皇称制三年」に当たります。(また、この年代は「九州年号」によれば「朱鳥」年間に当たります。しかしここでは「朱鳥」年号は使用されていません)
 ここで「唐」の年号が使用されている理由として考えられるものは、「評督」に任命する、という「朝廷」からの文書に「永昌元年四月」という日付表示が書かれていたのではないかというものがあります。
 「群馬県」にある「多胡碑」にも「弁官符」という書き出しになっていますが、これは「符」(朝廷からの文書)の丸写しではないか、と考えられ、この「那須直碑」も同様ではないかと考えられるわけです。そもそも自らの「権威」の根源としての「公式文書」であればそれを「引用」した形で「碑文」を構成したとして当然とも思えます。
 ところで、「碑文」で見ると「評督」に任命されたのは「六八九年」の「四月」です。しかし、「永昌」に改元されたのは「六八九年」の「正月」のことです。
 「評督」に任命する、という文書に「永昌元年」と書かれていた、とすれば「この間」に「改元」の情報が「倭国」に伝わらなければなりません。そのようなことが「短期間」に可能であったのでしょうか。
 もし「不可能」であったと考えると、この「唐」の年号が「石碑」に書かれているのは「石碑」造立事の「造作」であると言う事になるでしょう。

 そもそもこの「石碑」が建てられたのはいつ頃のことでしょうか。それはこの「石碑」が「倒されていた」と言うことからある程度判断できます。そのようなことがされたのはこの「石碑」に書かれたあることが「存在が許容されないこと」だったからであると思われます。それは「評督」という表記と「永昌元年」という年号の二つであったと思われます。
 これらはいずれも「新日本国王権」にとって見れば「あってはならないこと」であり、消去したい事実であったと思われます。「評督」は「前王朝」の制度でしたし、「永昌」という年号は「唐」の軍門に下っていたことの証明となってしまいますから、共に隠蔽せざるを得なかったと言うことではないでしょうか。そう考えると、この石碑が倒されたのは「七〇一年」以降その至近の時期であると考えられますから、「石碑」に「永昌元年」という年次が書かれたのはそれ以前のことであることとなります。
 しかもこの碑文中には「六月童子」という表現があり、これが「六ヶ月の喪に服す子供」の意という解釈もあり、そうであれば「喪の明けない」内に立てられたということが考えられ、それ以降「追記」したものと考えるということとなるでしょう。つまり、「意提」の死去した年の内にこの碑は建てられ、碑文も書かれたとなるわけですが、その時点で「永昌」という「唐」の年号を「追刻した」こととなります。
 「永昌元年」という年号はこの時点での造作であり、「評督」任命の文書には「唐」の年号は「書かれてはいなかった」と言うこととなりますが、その場合本来の「任命」文書には、何と書いてあったのでしょうか。
 これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「凡公文応記年者。皆用年号。
釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。そうであればこの碑文も同様に「干支」だけが書かれていて、それを「七〇〇年」の「石碑」造立時点で「唐」の年号を書き加えたとみるべきでしょうか。
 しかしそのような想定が不審なのはいうまでもないでしょう。そもそも「評督」という称号をもらったことを「誇るべき経歴」として「韋提」の家族はこの石碑を建立したはずであるのに、その授与した「王朝」の名前は出しているのに「授与された日付」を表す年号を削除し「唐」の年号を書き加えるというのは、道理に反していると思われます。
 また「干支」だけであったものをわざわざ「唐」の年号を書き加えるという行為も不審極まるものであり、あり得ないものと考えます。そもそも「碑面」には「改削」の跡らしきものも全く見いだせません。つまり、このような「隠蔽」工作をしたという想定は成り立たないと考えられる事となります。

 以上の論理進行から推測して、やはり「永昌元年」という年号は「碑」が立てられた段階以前から「韋提」に関することとして記録・記憶されていたものであり、彼に対して「評督」が任命される段階において「倭国中央」からもたらされた「公文書」に書かれてあったものとみられ、「永昌」改元した「六八九年正月」から「任命」月の「四月」までの間に「唐」から「倭国」に「情報」が伝達され、「任命文書」という公文書に書かれることとなったものと考えるしかないこととなります。
 「歳次庚子年」とあるように「碑」を建てた時点の日付は通常の「干支」によっていることからも、その後「唐」の年号を使用すべしというルールがなくなったことを表しているようですが、この「評督」授与という段階における「永昌」という年号の存在は、任命文書に「唐」の年号を書くべしというルールがあったことを示すものであり、「唐」の年号が実際に記載されていたことを強く窺わせるものです。(唐の年号使用規定が消えたのは「庚寅年」つまり(六九〇年)の改革の中にあったと見られ、その時点以降「公文」から唐の年号が消えたものと推察します。)

 ところで「年号」を使用すべしというルールがなかったはずであるのに「唐」の年号だけは書かれたこととなりますが、それは「唐」への畏怖(というより恐怖)によるものではなかったでしょうか。唐により封国となっていたら当然「唐」の年号を使用すべきですから、この「飛鳥浄御原朝廷」の帰属意識が注目されます。
 この「永昌」年号を使用することとなった事情とその改元情報はどのようにして「倭国」にもたらされたものでしょうか。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/06/17)