そもそも「那須国」及び「那須国造」は『書紀』の記載から見てかなり古い時代から存在していたように見受けられます。これが「七世紀」に入っても「倭国王権」の支配が強く及ばず、「クニ」がそのまま存続していたという可能性が高いと思料します。仮にこの「国造」が「国司」(国宰)と同等のものであったとすると、授与されるべきは「下毛野国司」であり「那須」のそれではないと思われます。「那須」はあくまでも「下毛野」という大領域の一端をしめるだけであり、国府もそこには存在していませんでした。
「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が行なった「改革」については、「戸籍」などの研究により、この「改革」を受け入れなかった地方があることが指摘されています。たとえば、「美濃」や「出羽」などです。この事は「東山道」からつながる「東国」において「倭国王権」の権威が届かない、あるいは届きにくい領域がかなりあったことを示していると考えられます。「那須」がある「下毛野」についても同様であった可能性があり、それはここが元々「関東王朝」の領域であり、「独立」的指向の強い領域であったと考えられ、「総領」である「高向大夫」たちの統治・支配に従わず、そのまま「那須」という「クニ」が継続していたと推定されるものです。
つまり『常陸国風土記』では「我姫」を「八国」に分けたとするわけですが、「常陸」以外の「我姫」の「内部情勢」は不明であり、それらの「国」(下毛野国など)でも「常陸」同様「国造」の「クニ」が「県」(あるいは「評」)に変わったかというとそうではなく、そのまま「国造」が残り、「国宰」も派遣されていなかったという可能性もあると考えられます。それは上でも述べたように「東山道」の整備が遅れていたことと関係があるのではないかと推定されるわけです。
「古代官道」のうち「近畿」から以東は「七世紀」の始めつまり『隋書俀国伝』にいう「利歌彌多仏利」の時代以降整備が進められていったと考えられますが、まず「難波」「飛鳥」領域周辺の整備が先行したものであり、「東山道」など東方の「諸国」を連絡するものの整備はかなり遅れたものと考えられ、そのことが「那須」という地方に「改革」が及ばなかった最大の理由ではないかと推察されます。
東国へは「東海道」の整備が先行したと考えられるものであり、そのことが「常陸」などについて「倭国王権」の統治が強く及ぶこととなった理由と思われます。
「古代官道」が「倭国中央」の「軍事力」の「展開」に関係していると考えるならば、それが未整備であると言うことと、「制度改定」に従わない地域があると言うこととは直接関連した事柄であると考えられます。つまり「軍事・警察力」が展開できず、「法」と「力」による統制が効かない地域がかなりあったものと思われるわけです。
またこの碑文には「一世之中重被貳照」という、「一生」のうち「起死回生」とも言える事が二回あった、という意味の文章が書かれています。この二回が官位授与などを指すのかは不明ですが、「評督」を授与されたという顕彰碑の中で述べられているわけですから、少なくとも一回はこの「評督」の授与と関連しているといえるでしょう。
彼の死去した年次と成長した子供が複数いるらしいことなどを考えると、その生年は「六三〇年」前後ではないかと考えられ、「国造」を「父祖」から「継承」したのは「六六〇-六七〇年頃」と推定されます。このタイミングは「百済」を巡る戦いが勃発した時期でもあり、また「近江朝廷」の創立と滅亡の時期であります。これらの「争乱」に彼が関わったという可能性があると考えられます。これらの戦いでは「蝦夷」を含む「東国」が参加しているようであり(捕虜として唐に抑留されていた人達の帰国者の中に「陸奥」出身者がいるという記録があります)、「那須」地方からも軍が発せられたと言うことがありうると考えます。この中で彼は九死に一生を得たのかも知れません。これが「第一回」であると考えられます。さらに「評督」を授与されるという晴れがましいことが起きたものであり、これが第二回と言うことでしょう。
また、「追大壱」という「冠位」を受けたということは、通常の考え方で言えば「追大壱」を含む「冠位制」が施行されたのが「六八五年」とされており、この時点において彼にも「冠位」が与えられたとみるのが相当です。この時点で「倭国王朝」の支配下に「完全に」入ったという事となりますが、それは「六八四年」に起きた「東南海」地震などで、東海以西がかなりの打撃を受けたことと関係していると考えられます。
この時は関東の内陸地域には余り大きな被害がなかったと見え、勢力としては健在であったものであり、当時の倭国王権にとって見ると、彼等がこの機を捉えて「反乱」など起こさせないように「臣従」を強いる必要があり、その為改めて「冠位」を授与するという政策が行われたのではないでしょうか。
また、この時点で「評督」を授与していないのは「駅家」(「屯倉」)が設置されていなかったという可能性が大きいことと、「関東」勢力の「軍事的」脅威を警戒し、「譲歩」したともいえるでしょう。ある意味「自治権」を認めたという事とも思われ、そのため「古代官道」つまり王権に直結するような施設などを整備しなかったものではないでしょうか。これは当然「懐柔策」と考えられるものです。
そして、その後「持統朝廷」段階で「東山道」がほぼ完成し、「全国」に対して「軍事展開」が可能となった段階で、「駅家」(「屯倉」)が「那須」にも設置されたものであり、「評督」という「駅家」の監督官としての職掌が置かれることとなった際、「国造」である「韋提」に白羽の矢が立ったということではないでしょうか。その際に「評督」へ「横滑り」したものであると考えられます。
また、ここでは「国造」で「追大壹」であった「韋提」が「評督」に任命されていることとなりますが、この「評督」という「称号」(制度)は「利歌彌多仏利」の父である「阿毎多利思北孤」によって造られた制度であると考えられ、当然彼は「九州倭国王朝」の権力者ですから「碑文」に見える「飛鳥浄御原宮」というものが「九州倭国王朝」の系譜につながる存在であることがわかります。(これは「九州」の「筑紫朝庭」のことを意味すると考えられます)
逆に言えば「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」がこの「評督」を授与したのではないことは明白です。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である『書紀』に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。
明らかに「評」という制度は「隠されて」います。それほど忌み嫌った制度を、ここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないでしょう。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)に「九州倭国王権」が「筑紫なる」「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
ところで、この段階になって「那須」のような「北関東」(群馬、埼玉、栃木)付近に「評」制が施行されたように見えるのは「奇異」に映るかもしれません。この「六八九年」という段階で「評制」がなぜ施行されたのかと考えると、その翌年の「庚寅年」の改革が「予定」されていたということと関係があると思われます。
明らかにこの「六八九年」段階では、次年度の予定として「遷都」とそれに伴う「機構改革」が行われる予定であったと思われます。「遷都」するためにはなによりも「統治範囲」の安定化と拡大がその前提と考えられ、たとえば「上毛野」という地域を「評制下」に置くようなことが求められていたと思われます。
この時の「遷都」の動機ないしは条件というものは、それまで延伸と拡幅が行われていた「古代官道」の整備がほぼ完了したことにあると考えられ、それは(当然)「東方」への支配の強化のためであったものであり、それを現実のものとするように「東山道」の末端に位置する「上野」地域の「有力者」を「倭国王権」の一端に加えるという作業が強く求められていたものと思料されます。
「近畿」を始めとして「東国」も含む全ての「列島」諸国を「倭国王」が「直接」統治する、という「利歌彌多仏利」以来の「政治改革」を行ったのが「六九〇年」(庚寅年)という時点であり、この「評督」任命はその「趣旨」に則ったものと言え、今まで「統治」の網がかかっていなかった場所に対して「評督」という地域代表者を決めて任命し、「統治」の最下層の構造を確定させることとしたものと思われます。
この碑が発見されたときこの石碑は「碑文面」を下にして、埋もれていました。これがなぜ倒れていたのかは不明ですが、可能性としては「倒れていた」のではなく「倒されたのではないか」とも考えられます。そして、それは建てた当の本人が自ら行ったのではないでしょうか。
これが建てられた「七〇〇年」の翌年に「九州倭国王朝」から「新日本国王朝」に「行政府」が切り替わり、制度も切り替えられたのです。「七〇一年」に「新日本国王朝」(近畿王権主体)が成立して以降、「評」制が廃止され、替わって「国-郡-里制」となったのです。
そして「評」に関する事物の「隠蔽」の指示が来たのだと思われます。彼らに対して「碑」の文章を削るように、という指示があったのかもしれません。しかし、彼らは(「韋提」の息子達)は自分の父親の韋業を顕彰するためにせっかく建てた「碑」とその「碑文」を残したかったのではないかと思えます。彼らは「碑文」を疵付けるには忍びなかったので、碑文を「下」にして「倒して」対応したのではないかと思われるのです。
(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/02/06)