『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。
『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」
しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。
「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」
「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」
これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。
中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」によるようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。
「位記」が存在していたとすれば当然その書式も定まっていたこととなるでしょう。それは『大宝令』以前の定めである「浄御原朝廷の制」(『続日本紀』の表現)に則っていたと思われますが、『大宝令』がその「浄御原朝廷の制」を「准正」としていたとするなら、『公式令』に表されたものがほぼその当時の「位記」の書式を示しているとみられます。その『公式令』の「奏授位記式条」によれば「六位以下」に冠位を授与する場合の書式は「太政官謹奏/本位姓名〈年若干其国其郡人〉今授其位/年月日/太政大臣位姓〈大納言加名。〉/式部卿位姓名」とすると定められています。これによれば「日付」は後方に来ますが、「木簡」によれば「評」木簡の中には日付を記したものがあり、それは全て先頭に来ています。一例を挙げれば以下のものなどです。
「甲午(六九四年か)九月十二日知田評阿具比里五木部皮嶋養米六斗」 (031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区)
(以下木簡は奈文研木簡データベースよりピックアップしたものです。)
「評制」施行時期はあきらかに「浄御原朝廷の制」施行下ですから、この木簡の書式がその「制」の何らかの「定め」に拠っていたことは確かと思われます。しかしその後の「郡」木簡には日付が後ろに書かれたものがみられるようになります。(以下一例)
「美濃国山県郡郷〈〉三斗十月廿二日〈〉 」( 033 平城宮7-12775(木研23 平城宮第一次大極殿院西面築地回)
この木簡の書式も何からの定めに拠ったと考えれば基本は上に見た『大宝令』の『公式令』がその候補として上がるでしょう。
ところで「那須直韋提碑」に書かれた「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜」という文章については、私見ではそれが「朝廷」からの「任命文書」に沿って書かれたものと理解しています。この任命を「栄誉」と考えたがゆえに「碑文」が書かれたとするならそこから直接引用して当然だからです。
当然この文書の書式は任命元である「浄御原朝廷の制」としての「位記」の書式に則ったものであったはずですから、その記述順序はその時点の『公式令』によったものとみるべきでしょう。
この文章を見ると「日付」が先頭にありその後に任命する側である「浄御原朝廷」と「本位姓名」から「今授其位」と続きますが、これは「評制」下の木簡とよく似ており、その意味でもこの時点の(「浄御原令」の)『公式令』の「書式」を表現しているとみるべきでしょう。そうであればやはり以前の検討の通り「那須国造追大壹」であった「那須直韋提」が「評督」を「賜」ったとみるのが相当ではないかと思われることとなります。(「授」を「賜う」に代え「視点」の変更をしているとみられるわけです。)
推測によれば、「追大壱」という冠位が「国造」である(あるいは自称していた)「韋提」に授けられた時点で、やっと「官道」が「那須」という地域に到達したものであり、この「下毛野」の「那須」という領域がこの時点付近で「倭国王権」の権威が「直接」届くようになったと言うことを意味すると思われます。さらにそれから数年後そこに「屯倉」(この時点では「駅家」か)が造られその支配の拠点として「評」が成立したものであり、その監督者である「評督」に「那須国造追大壹」であるところの「那須直韋提」が選ばれたという流れと理解できるでしょう。
すでに述べたようにこの北関東という蝦夷との境界地域は、長く「倭国王権」の「直接」統治領域ではなかったものであり、当地を支配する「在地首長」の手に委ねられていたものと思われます。このため「評制」の施行、「評督」の任命などのことが他地域に比べ大幅に遅れていたものと推量されますが、「天智」の革命とそれ以降に発生した「壬申の乱」などで「東国」の地位が上昇すると共にこの地域に対して統治の網をかぶせることが必要と考えられるようになったものと思われますが、重要なこととして「白鳳の大震災」とも言うべき「六八四年」の大地震と大津波による当時の権力中枢であるところの「西日本」の甚大な被災があったものと思われます。
この時の「倭国王権」は必然的に「西日本」から「東日本」へその依拠する重点を変更せざるを得なくなったものであり、官道の延伸(この場合「東山道」か)が行われるようになった時点以降この地域も「直接統治領域」として組み込まれ、「評制」が施行されるようになったという流れの中にこの「碑」の文章も理解するべきと思われるわけです。
(この項の作成日 2018/10/13、最終更新 2020/05/04)