ホーム:「持統朝廷」と「改新の詔」:那須の国造韋提の碑について:

碑文に示される「冠位」の解釈について(一)


 以下は碑文全文です。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰/惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照/一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曾/子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子/不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助/坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 この碑文は、実際には八行十九字詰めで書かれており、全部で一五二字です。「六朝風」の書体で書かれており、宮城県の多賀城碑や群馬県の多胡碑と並び、日本三古碑の一つに数えられています。

 この「碑文」には問題とする点が複数あります。ひとつは「評督」であったものが「国造」を授与されたのか、その逆なのかと言うことです。
 従来の解釈は「国造」であった「追大壱那須直韋提」が「評督」を賜ったと読むものです。これに対し古田武彦氏はその逆に「評督」であった「韋提」が「那須国造追大壹那須直」を「賜った」として解釈しています。
 これについては古田氏もこの文章が「漢文」とは言えないというように言っていますが、もしこれが「日本語的」な文章であるとすると、「日本語」の標準的読み下し順である「主語」「目的語」「述語」という順に並んでいると解釈すべきではないでしょうか。そうであれば「主語」は「那須国造追大壹那須直韋提」」であり、目的語」は「評督」となり、「述語」(動詞)は「被賜」となると考えられ、碑文のこの部分の解釈としては「『永昌元年』(六八九年)当時、那須国造那須直である葦提が評督を被り賜われた」となるものと考えられます。
 「話し言葉」ならまだしも「碑文」の文章なのですから、後半の「仏典」などからの幅広い引用も含め高い教養を示していると考えられる人物である息子達が一番大事な冒頭のところで「標準的な」(ある意味「正式な」とも言えますが)日本語の文章形式を使用していないとするとはなはだ不審であり、「主語」が先頭に来ないような文章を想定するのは不自然であると思われます。
 また、「名前」の前にある官職・称号は現在時点のものであるというのはある意味「自明」の原則であると思われます。その本人の「称号」などを「冠する」のは実際に頭に「冠」をつけるのと同じ象徴的な意味があると思われます。
 たとえば「授從三位長屋王正三位」というような文章が『続日本紀』にありますが、これと同様の文章構成ではないでしょうか。(但し「授」が最後に付いた形に変化していますが)
 これらのことから、「韋提」は「国造」であったものが「評督」を賜ったと理解すべきと考えられます。つまりこの場合の「国造」は「令制国」のような広域行政体としてのものではなく、「古」の体制である「クニ」の長としてのものであったと推量できるでしょう。
 古田氏はこの国造」の「国」は「評」の上部概念の「国」と捉えているようですが、もしそうなら「国造」ではなく「国司」ないしは「国宰」と表記すべきでしょう。
 『書紀』などと違い「石碑」つまり「金石文」ですから、ここに「国造」とあるのは軽視できません。(『書紀』が「国宰」を「国司」あるいは「国造」と書き換えているという可能性が考えられるのに対して「金石文」はその可能性が低いと考えられるからです。)

「三代実録」には「国造停止」の記事があります。

「三大実録」
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』同族玄蕃頭從五位下佐伯宿祢眞持。正六位上佐伯宿祢正雄等。既貫京兆。賜姓宿祢。而田公之門。猶未得預。謹検案内。眞持。正雄等之興。只由實惠道雄兩大法師。是兩法師等。贈僧正空海大法師所成長也。而田公是大僧正父也。今大僧都傳燈大法師位眞雅。幸屬時來。久侍加護。比彼兩師。忽知高下。豊雄又以彫蟲之小藝。忝學館之末員。顧望往時。悲歎良多。准正雄等之例。特蒙改姓改居。善男等謹検家記。事不憑虚。從之。」
 
 ここで「空海」の父親(佐伯田公)の処遇について嘆願ともいえるものが書かれているようですが、その中に「允恭天皇」の時代に「国造」が置かれたらしいこと、「孝徳天皇」時代にその「国造」が「永從停止」とされたことが書かれています。
 このように「国造」が停止されたというのは、とりもなおさず「評」が成立したことを意味するものと考えられますから、「評督」の成立以前は「国造」であったこととなります。このことから、少なくとも「国造」は「持統」の時代には消滅していたこととなります。
 上にあるように「評制」が全国に施行された段階以降は「国造」は停止されたとされているわけですから、「七世紀」も末の段階で「国造」を名乗っているとすると、古い制度としてのものの自称であるという可能性が高いものと思われます。

 さらに、この「碑文」に書かれた「追大壹」は(『書紀』によれば)「六八五年」に施行された官位制にあるものであり、この時点以降のどこかで「官位」を受けていることとなります。
 これに関しては、上に見た「評督」が「国造」を賜ったと見るのが無理であるという理由にもなっています。もし「評督」が「国造」を賜ったと理解したとするとその時点でこの「追大壹」も同時に授けられたと理解する必要が出てきます。でなければ「国造」は授けられたが、「官位」はなかったなどという奇妙な結論になりかねません。しかし、この「追大壱」という冠位は、通例辺境ともいえる地方の有力者に与えられるものであり、そうみた場合標準的なものであるのに対して、ここに書かれた「国造」が「広域行政体」としての「国」(つまり「評」の上部概念としての国)に対するものとすると、「令制国」の「国司」に与えられるものとしては異例の低さとなってしまいます。
 通常国司は(国のランクによって変るものの)「六位以上」の冠位を有するのが通常です。しかし「追大壱」は「正八位上」程度の位階にしか相当しません。「国司」には「浄御原朝」の冠位で言うと「勤位」以上が必要であり、「追位」では全く低すぎるといえるものです。このことはここでいう「国造」の「国」が「令制国」のそれではないことを如実に示すものです。
 例えば「伊福部氏」の系図によれば「郡大領」とされる人物が(「外」位ではあるものの)、「正七位下」の位階があったことが記されています。

「因幡国伊福部臣古志 并せて序

散位従六位下伊福部臣冨成撰す

それ前條を観て、はるかに玄古を稽ふるに、国常立尊より以降、素盞嗚尊までは、国史を披き閲して知りぬべし。故、降りて大己貴神を以て、始祖と為す。昔、先考邑美郡の大領外正七位下、諱は公持臣、右馬少允正六位下佐美麻呂臣と宴飲し、酒たけなはに常に古志を論ず。蒙、常に隅に座して、膚に鏤め骨に銘す。恐くは末裔聞かざるが故に、伝を転して之を示す。但し道聞衢説は、蒙の取らざる所なり。時に延暦三年歳次甲子なり。…」
 
 これは「務大肆」クラスに相当しますが、この「郡大領」は以前「評督」であったらしいことが推定されており、そう考えれば「追大壱」から見ると「昇進」となり、このような「官職」を与えられたなら「栄誉」と考えて不思議はないと思えます。

 また彼(「韋提」)は「直」という姓を持っていますが、多くの「直」姓氏族が後に「連」を授与されているのに対して「那須直」は「連姓」を授与されていないようです。それはこの「那須」という地域そのものがそれほど重きを置かれていなかった事を示すともいえますが、また「倭国王権」の統治領域に組み込まれたのがかなり遅れたことの証ともいえるでしょう。それは「評督」授与が遅れたことにも現れているといえます。そしてこの「直」という姓と「追大壱」という冠位の組み合わせは不自然ではないと思われますが、これが「評督」であったものから「追大壱」「国造」を授与されたとすると、「昇進」でもなければ「栄誉」でもないこととなり、それを記念して「石碑」を建てるというようなことが行なわれたかどうかさえ疑わしいと思われます。
 もし「評督」ではなくなったとするなら、「評制」という制度そのものの消滅時期が最もふさわしいものと思われ、七〇〇年まで継続して然るべきではないでしょうか。この六八九年という段階で「評督」ではなくなるということの意味が不明です。
 結局「国造」を自称していたものが「評督」を与えられ、その地位と権利を「追認」されたことが重要であったのではないでしょうか。
 これについては「改新の詔」などでも「元国造」であるという事を主張して権利を認めるようにという圧力が国司(国宰)にかかっていたらしいことが窺え、この「那須直」の場合も同様であったという可能性が考えられるところです。

(以下「東国国司詔」より)
「…若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。…」

 これによれば、元々国造でもなかったにも拘わらず、「詐訴」してその権利を主張する者達が居るので実情を正確に調べるようにという指示が出されています。つまり新しく「統治領域」に入ったところには以前のデータがないため、本人の主張がかなりのウェイトを占めていたらしいことがわかります。そのため「虚偽」を申し出ても判定できないと云うことから正確を期すようにというものであり、「韋提」についてもその自らの主張を証するものが少なく、その権利をなかなか認めてもらえなかったものなのではないでしょうか。

 「国造」から「評督」へは「官位」としてはそれほどの上昇ではなかったものの、「倭国体制」に組み込まれると共に、「評」が施行され「評督」に専任されることにより、自称ではなく実際の地方統治が実績として認められたものであり、「評督」としての「特権」も同様に「倭国中央」のお墨付きを得たと言うことが重要であったものと思われます。

 このことは「難波朝廷」から「諸国」に施行されたはずの「評制」が「那須地方」ではそれ以降も施行されていなかったこととなりますが、これはこの「那須」という地方当時まだ「倭国」の支配が不十分な地域であったものであり、それは「古代官道」がまだ整備されていなかったことにその原因があったと思われます。
 「評制」あるいは「評督」は「官道」及び「駅家」と深く関係した制度であり職掌であったと考えられるものであり、逆に言うとこの時点で「東山道」の終着点とでもいうべき場所までようやく「古代官道」つまり「東山道」が延伸され、「駅家」が置かれたということを示していると思われます。
 「東山道」の整備が進行し、その末端が「北」へと伸びるにつれ、「下毛野」の北辺とも言うべき「那須」地域にも「駅家」が置かれ、その管理者として「評督」が置かれるというような流れではなかったでしょうか。

 『常陸国風土記』には「地名」を改めたという記事があります。

『常陸国風土記』「久慈郡の条」
自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇至於此時 皇后参遇因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介

 この記事を見ると倭武天皇時につけられた地名を「国宰」が変更しているようです。ここでは「国宰」の権威が倭武天皇を上回るものであることを示しており、またその権威は今に通じているようです。つまり「国宰」は地名変更の権利を有しており、倭武天皇の「権威」を犯しているということとなります。
 倭武天皇が関東王朝の象徴的人物と理解できることを踏まえると、この時点で倭国の権威が関東に及び「国宰」が倭王権を代表して関東王権に優越的立場に立ったことがうかがえます。
 ところで関東の前方後円墳の消長を見ると七世紀前半という時点で「一斉に」途絶するのが判ります。すでにそれ以前に西日本の前方後円墳の築造が停止されていることを考えると、この政策の執行主体が西日本側にあったことは疑えません。
このような「地名」変更政策は、「中央」が決めた制度や規格以外のものを許容しないという意思の表れであり、権威を透徹させようとする王権の意志の表れと思われます。その意味で非常に強い権力者の存在を措定する必要があるでしょう。
 この『常陸国風土記』の記事と「前方後円墳」の廃絶時期からは、広域行政体としての「国」が成立しその責任者として「国宰」が任命派遣されるという政策が行われたのは「七世紀初め」ではなかったかということが強く推測できるわけであり、『隋書』に書かれた「阿毎多利思北孤」とその太子とされる「利歌彌多仏利」の政策であった可能性が大きいと思われます。

 それ以前(つまり七世紀初め)からあった「小領域」の責任者としては「造」「別」がいたとされますが、一部には「評督」もいたと思われます。そしてそこには「官道」が通じていて「直轄地」としての扱いを受けていたものと思われるものです。つまり「造」には「国造」と「評造」がいたものであり、それは「官道」の有無の違いではなかったかと推察されます。
 「官道」が通じていた場合「屯倉」があり、その「屯倉」とそれを取り巻くその周辺の生産地域を「評」と称し、そこを統括する「評督」あるいは「評造」が配されていたと思われますが、他方「官道」が未整備の地域には「屯倉」がなくその結果「評」も設置されなかったものであり、そこには単に「国造」だけがいたものでしょう。つまり「評」の責任者としての「評督」あるいは「評造」の方が「国造」よりランクが上であると思われることとなります。なぜなら「評」は「直轄地」であり、そこで生産・収穫されたものは基本的に「王権」に官道を通じて「直送」されるものであったわけであって、そのような地域を監督している役職も「王権」との関係がより密であったとみられるからです。逆に言うとそれほど地方との関係が濃密な王権がこのとき発生していたこととなり、そのように地方の末端まで権威を及ぼすことが可能なほどその王権の行政組織が階層性を持っていたことの表れと思われ、「官僚制」が整備されたことやその根底に「法」があり、また「律令」があったことを推定させるものです。
 また、このことは「評」の発生が「七世紀初め」をかなり遡上する時期を措定すべきことを示すものですが、それは「隋」には「評」という制度がなかったことでも判ります。「隋」の制度や組織などを学ぶために大量の「学生」「僧」などを派遣したことは即座に持ち帰った知識を国内政治に応用したと見るべきことを示しますが、「評」という制度は「隋」にもその後の「唐」にもなく、その意味で「遣隋使」「遣唐使」が持ち帰ったとは考えられないこととなるでしょう。そう考えれば「評」という制度については「半島」の諸国からの知識であり、情報であったと思われますから、六世紀代のことと見るべきこととなりますが、それを示唆するのが『筑後風土記』(『釈日本紀』に引用された逸文)に記された「磐井」の墓の様子を示す描写です。そこには「猪」を盗んだものに対する裁判の様子が石人により表現されていました。

 「猪」は当時「王権」が独占していた「食肉」に供される動物であり、「飼育」されていたと思われます。これは時に応じ「王権」に「生きたまま」運ばれ、「王権」の元で捌かれることとなっていたものであり、そのような「高貴」の人の元に行くはずの「猪」を盗んだということで彼は捕らえられ裁判を受けていると見られるわけです。
 このような重要な「食物」の輸送に使用されていたのが「官道」であり、その「猪」の飼育も含め食糧の供給基地として「屯倉」があったと見られますが、その責任者が「評督」あるいは「評造」であり、この「磐井」の墓の様子から彼の時代にすでに「評」があったと見て間違いないものと思われるわけです。
 このように「七世紀初め」以前から一部には通じていたと思われる「官道」も改めて規格を大幅に拡大して延伸することとなったものであり、その官道整備のある程度の進捗を契機として「広域行政体」の設置が行われたとみられます。その際に「国宰」が配置されたわけですが、そのような場合「大夫」(五位以上)が任命され、派遣されたものと思われるわけです。
 この「大夫」と称する役職の階級は後世においても宮殿内に上がることのできる最低の位階であり、ある意味一般の人々から見ると「雲の上の人」であったはずですから、そのような人物を配することにより王権の意思を直接伝えるという意図があったものと推量されます。

 この時点で以前の「国」状態の際の小領域の責任者である「国造」は廃されたはずですが、あらたに造られた「広域行政体」の中にはその国内に権威が行き届かない地域が残った場合もあったとみられ、カバーする「権威」の網の「密度」の違いによっては「国造」がそのまま残った場合もあったとみられます。その典型的な例が「下毛野」の一端である「那須」という地域であったものであり、ここは「蝦夷」との境界であって、明らかに「関東王権」としても「倭国王権」としても「末端」という場所でしたから、「官道」がこの段階では開通しておらず「評」が設置されていなかったため「国造」を自称していた人物(勢力)がそのまま後代まで遺存し続けたということが考えられるでしょう。
 上に見たように「国造」に比べ「評督」の方が権威が高かったという可能性がありますが、そうであれば「那須直韋提」の場合以前「評督」であったとした場合その後「国造」を授与されたとしても、死後子供達が石碑を建てるほどの「栄誉」とはいえないと思われますから、その意味でも「国造」であったものが「評督」を拝したとする方が合理的と思われます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2020/07/25)