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遣唐使の目的と朔旦冬至


 「斉明紀」に見られる「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。
(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)

「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。日本國天皇平安以不。使人謹答。天地合徳自得平安。天子問曰。執事卿等好在以不。使人謹答。天皇憐重亦得好在。天子問曰。國内平不。使人謹答。治稱天地。萬民無事。天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」

 この記録によると、皇帝に謁見した二日後の「十一月一日」に「冬至之會」が行なわれたとあり、「諸蕃」と共に参加しているようです。これについては「通常」は「偶然」のこととされているようですが、行程を見るとそうではないと思われます。この時の「伊吉博徳」達はこの「冬至之會」に参加するという目的を持って派遣されたとは考えられないでしょうか。つまり、必ず「十一月一日」には「皇帝」の元にいる必要があったと見られるのです。

 彼等は「餘姚縣」に到着した後、「越州の底」まで南下し、そこから馬を利用して「長安」に向かい、到着後「皇帝」が「洛陽」に向かったことを知るとさらに追いかけるように馬を走らせて「洛陽」に向かっています。
(以下『旧唐書』と『資治通鑑』による「皇帝」の移動の様子)

「(顯慶)四年…閏十月戊寅(五日),幸東都,皇太子監國。戊戌(二十五日),至東都。」(『舊唐書/本紀 本紀第四/高宗 李治 上/顯慶四年』より)

「(顯慶)四年…閏月,戊寅(五日),上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌(二十五日),車駕至東都。」(『資治通鑑』より)

 このように「高宗」は「閏十月戊寅(五日)」に「長安」を出発し「戊戌(二十五日)」に「洛陽」に到着しています。「博徳達」はこれを追いかけるように「長安」を「十五日」に出発し馬を走らせて「二十九日」に「ぎりぎり」で間に合ったという訳です。
 この移動過程を見ると(特に移動に馬を利用したのは)「期日」に間に合わせるというのが至上命題であったらしいことが窺えるものであり、「唐」からこの「十一月一日」に「冬至之會」を行なうから来るようにという招請あるいは命令を受けたことを示すと考えられます。たまたま到着したら「冬至之會」を行なっていたと考えるには「急ぎすぎ」ではないでしょうか。
 但しこの時は「洛陽」に移動して「冬至」の祭天を行っていると見られますが。これは異例のことであったと思われます。祭天を行うべき「天壇」は通常「長安」の南郊つまり南方の郊外に造られていたものであり(今でもその跡が残っているようですが)この時は「東都」(洛陽)に移動して祭天を行ったように見られます。これはその直前に改められた「禮制」(『顯慶禮』)で「東都」で行うように決められたものではなかったかと推察されます。但しこの『顕慶禮』についてはすでに散逸して内容は不明となっていますから想像するしかないわけですが、それ以前の「太宗」の「当時」については「長安」で行っているようですから、この「高宗」の例は特殊であると思われます。

 この時の「冬至之會」は「十九年」に一度の「朔旦冬至」(十一月一日の朝に冬至を迎える)を祝う集まりであったと見られ、『伊吉博徳書』にも「諸蕃の中で倭客が最勝」と書かれたように「宮殿」には多くの国内国外から使節が集まっていた風情が看取できます。
 この「朔旦冬至」という現象は「天体の運動」に関する事であり、「皇帝」は天体の運動をも支配しているという中国の伝統的考え方で云うと、このような現象が「予言」したように正確に現れると云うことは、「皇帝」の権威を示すものであると同時に、「十九年」という「章」の期間が過ぎてまた新しく次の「章」が始まることが、「皇帝」の治世と絡めて考えられていたこと、その皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示し、それを祝うという意味があったと見られます。そのような重要な「會」であれば周辺諸国も含め広く招請があったとして不思議ではありません。勢威を示すためにも多くの国内外諸国の王や使者が集まることが必要でもあったと思われます。
 そのような場に「倭国」からの使者が「ちょうど間に合うように」参加していたと云うことは、「倭国」にも「参加招請」が届いていたことを示すと考えられます。
 通常の「冬至之會」にも「柵封国」は列席し、「正朔」つまり「暦」の頒布を受けるとされていたようですが、この時は「朔旦冬至」という十九年に一度のイベントですから「柵封国」以外にも招請の声がかかったと見るのが相当と思われ、「倭国」もその例外ではなかったものと思われます。(但し、「冬至之會」の実施を含め「中国側」の資料には何も書かれておらず、その意味では裏付ける史料はないわけですが、逆にそのためにこの『伊吉博徳書』に書かれた内容は重要な史料といえるでしょう。)

 上の「伊吉博徳」等の行程を見ても「十一月一日」には到着していなければならないというある種の逼迫性が感じられ、これは「十一月一日」までという「期限」が切られていた可能性を考えさせるものです。そう考えると、この時の「遣唐使」はただの「遣唐使」ではなく「祝賀使」でもあったと推定されることとなります。それに「蝦夷」を引き連れていったのも、一種の「生口」のつもりであったかも知れません。
 このような「祝賀」の際には「珍奇」な「物品」や「動植物」を持参し貢上するのが習わしであったようですから、この場合も「蝦夷」の人を「珍獣」扱いしていたのかも知れません。(但し「唐」の方では彼らを「蝦夷国」の使者というまっとうな捉え方をしていたようですが)
 このような「要請」ないしは「命令」があったとすると、当時「倭国」と「唐」の間に定期的な「通交」があったのではないかと考えられることとなるでしょう。そのような可能性としては前回の「遣唐使」(「白雉四年」(六五三年)のもの)が帰国の際に「六五九年十一月一日に冬至之會を行なうので来るように」という事前予告としての招請があったということも考えられます。「朔旦冬至」は「予測」ができますから、この時点で既にそれが判明していたと云うことは当然考えられ、それを伝達したと云うことも有り得るでしょう。
 またそれ以外にも「通交」があったのではないかと考えられるのが『旧唐書』等に書かれた「貞観二年」(六四八年)の「新羅」に「表」を託した一件です。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。」『旧唐書』

 ここで重要なのはこの「六五九年」という年が「閏月」が入る年であり、しかもそれはこの「冬至之會」の直前の「十月」であったと言う事です。つまり「倭国」からの使者(「伊吉博徳」等)に「閏月」について知識がなければ、全然違う日付に到着してしまう事となりかねません。この事からこの時点で「唐」の暦と「倭国」の暦が同一であったと言う事が推定できるのではないでしょうか。
 この時の「唐」の暦は「麟徳暦」(六六五年)の以前の暦である、「戊寅(元)暦」であったわけですから、「倭国」においても同様であったという可能性が強いと考えられます。
 『書紀』の発遣の日付(「秋七月丙子朔戊寅」)を見ても「戊寅暦」と一致していますから、この時点で「伊吉博徳」を含む「倭国王権」が「戊寅暦」を使用していたという可能性があります。
 この「暦」は「初唐」以来使用されていましたから、「倭国」が摂取する機会はかなり多かったと思われます。「遣唐使」はそれまで複数回派遣されていますから導入するタイミングは色々あったわけですが、いちばん可能性があるのは上に書かれているような「六四八年」の段階では正式な国交回復を図った段階ではなかったでしょうか。
 これによれば「貞観二十二年」になって「新羅」に表を付して、つまり「手紙」を託して「起居」を通じるようになったとされます。
 「起居」は「皇帝」の言動の記録であり、公式文書でもあります。この「起居」の記録(起居注)は四半期に一度整理され、史官がまとめて年に一度正式文書として発行されていたものです。これが「通じる」という表現をされていますから、定期的に「起居注」が「倭国」にもたらされるようなやりとりがあったのではないかと考えられます。この中にあるいはその伝達の際に「朔旦冬至」の一件が伝えられたということも考えられるでしょう。
 「起居注」は「西晋」のものが当時国内にもたらされていたことが「日本見在書目録」にあり、そのことから(失われてしまったものの)「晋」以外の「中国」からの「起居注」が存在していたとしても不思議ではありません。「起居を通じた」というのですから、この時国内に「唐」の「起居注」がもたらされていたという可能性が高いものと思料します。 
 ところで、この「起居注」は「日付入り」の記事であったと思われます。つまり何時そのことが話されたのか、決められたのかと云うことが欠落していたのでは情報として不完全ですから、必ず「日付」が書かれていたはずです。このことから、この時の「唐」で使用されていた「暦」に「倭国」が無関心であったとは考えられないこととなるでしょう。少なくともこの時点で「倭国」が使用していた「暦」(それはどのようなものかは不明ですが)とは異なっていた可能性が高く、日付のズレがあったとして不思議ではないこととなります。そうであればこの時点以降「倭国」でも「唐」の暦が使用されるようになったということが考えられます。

 この時「新羅」に託した「表」の内容は不明ではあるものの、わざわざそのような動きをあえてしているところを見るとそれ以前に来倭した「高表仁」との間に発生したトラブルについての「謝罪」が盛り込まれていたと見るのが相当であると思われ、そうであれば「唐」の暦を受容すると言うことも当然有り得ることとなるものと考えられます。
 このように「唐」と「通交」ができた事が「白雉年間」に遣唐使を送ることとなる契機となったのではないかと思われ、そうであればとりあえず「敵国」扱いはされなくなっていたと思われますから、「冬至之會」についても「唐」からの招請があったと考えることができるでしょう。ましてそのイベントの内容がまさに「暦」に関する事なのですから、この時点で異なった「暦」を使用していたとはますます考えにくいこととなります。そうであれば少なくともこの時点では「倭国王権」として正式に「唐」と同様の暦(戊寅暦)が使用されていたと考えられることとなるでしょう。

 但し、気になるのは「博徳達」の行程に不審な点があることです。「越州の底」に到着したのが「九月二十二日」とされているのに対して、「長安」に向かって出発したのが「潤十月一日」ですから、一ヶ月以上も滞在していたこととなります。それにしてはその後「馬」に乗って(というより「馬車」を使用したか)急いで移動しているように見られ「越州の底」から「長安」まで「十五日間」ですから、これは通常の移動の日数を遙かに上回るものと思われます。この「越州の底」というのが具体的にどこを指すかやや不明であり、またどのようなルートをとったかも不明ですが、仮に現在の浙江省の南側地域(温州付近か)から「重慶経由」で「長安」(現在の西安)まで移動したとすると、ざっと道のりで二千キロメートル程度あります。しかも高低差もかなりありこれを十五日間で移動している事となりますから、一日百三十キロメートル以上となってしまいます。「日本律令」では馬による移動としては緊急の場合は一日一〇〇キロメートル以上の移動が許可されていましたが、それも整備された「官道」を使用するという前提でしたから、この時の「倭国」からの遣唐使が「唐」の官道を使用できたとも思われませんし(そうであれば「阿利麻」達のように「洛陽」へ案内されたはず)、彼等は一般道を使用したものと思われ、そうであればとても一日一〇〇キロメートル以上もの移動が可能であったとは思われません。そう考えると『博徳書』の記載には疑いが生じることとなります。
 移動スピードから考えると、一日せいぜい数十キロメートル程度が現実的であり、そう考えるとこの行程に関する部分日付表記に問題があるように思われます。
 記録をよく見ると出発時には「潤十月一日」とあるのに対して「長安」に到着した時点では単に「十月十五日」とあります。その前に一ヶ月以上の空白があることを考えると、この「潤」の字は本来「到着」の日付である「十月十五日」に冠されるものであったと考えられないでしょうか。それを裏付けるのは記事の中での日付表記のルールです。
 この「十月十五日」を除くすべての例において同月の場合は「月名」表示がされていませんが、これは『伊吉博徳書』の中では同月の場合最初の例以降の日付には「月名」を表示しないという彼なりの決め事があったように見受けられることとなります。そう考えると「十月十五日」の例が唯一の例外となってしまいます。つまりこのことは出発時と到着時は別の月であったという可能性が高いことを示すものであり、この「十月十五日」を例外と考えるよりは「潤」字の入る場所が違うという可能性の方が考える方が合理的であるとこととなるでしょう。
 つまり「長安」に向かって移動を開始したのは「閏十月一日」ではなくその前月の「十月一日」であったと考える方が穏当だということです。

(ただし、こう考えると「越州の底」に到着してから「長安出発」までの期間としてほぼ一週間程度となりますが、準備期間としては短いような感じはします。例えば、「通行許可証」の発行に時間がかかる場合も想定できますが(後の遣唐僧達のようにそれらがない場合手続きに時間がかかる場合もあったようです)、この時の「遣唐使」のように「倭国」の身元保証と「唐国」の招請状が提示されれば速やかに許可が下りたものと考えられます。それは別に移動していた「東漢長直阿利麻」達が素早く「洛陽」に「護送」されたらしいことからも想定できます。)

「…十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。…」

 この時彼らが「長安」ではなく「洛陽」に護送されたのも「冬至の會」が「洛陽」で開かれること、倭国からの使者もそれに参加するための招請状を持っていたことなどが理由として挙げられそうであり、この時の「遣唐使」がそもそも「祝賀使」であったことが強く示唆されるものです。

 もし仮に「潤十月一日」の「潤」が誤記であり、実際には「十月一日」であったとすると、「移動」には「四十五日」程度かかったこととなりますが、そうであれぱ一日あたりの移動距離は四十キロメートル弱程度に収まりますから可能な範囲といえます。
 『伊吉博徳書』には「所乘大船及諸調度之物留着彼處。」とあり、彼等は上陸した場所に「皇帝」に献上すべき「調度品」をとりあえず残していたようですから、かなり身軽であったとは思われるものの、「蝦夷」の人達を連れていたことやその「蝦夷達」が持参した「貢献物」はそのまま持って行ったらしいですから(「難波吉士男人」の残した記録によれば「白鹿皮一。弓三。箭八十。」を献上しています。)これ以上のスピードアップは困難であったと思われるのです。
 その後「高宗」の不在を知って「長安」から「洛陽」まで約三百五十キロメートルを十四日間で移動していますが、この場合は一日あたり二十五キロメートル程度ですから、それと比較しても「倍」程度となって、変わらず「高速移動」ではあるものの、まだしも非現実的ではないと思われます。(ちなみに「高宗」は同じ「長安―洛陽間」を二十日間かけて移動しており、当然ですがかなり「ゆっくり」としたものだったようです。)
 この行程のペースについては彼らの帰国する際の行程に要する日数が参考になるでしょう。彼らは「百済」が「唐・新羅」連合軍に敗れ「義慈王」以下が「洛陽」に連行された時点以降解放されたとされ、その後帰国の途に就いています。
(以下『伊吉博徳書』より)

「十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福。國弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引?向天子。天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。…辛酉年正月廿五日。還到越州。…」

 これによれば「洛陽」から「越州」(「還到」という表現からこれは出発時の「越州之底」という場所を示すと思われます)までおよそ二ヶ月(六十日)要しています。この間の距離は約千四百から千六百キロメートルと推測され、一日あたりでは約二十三から二十七キロメートル程度となります。これは「洛陽」に移動するために「長安」から要した移動の行程とほぼ同程度となりますが、想定される「往路」と違ってある程度「余裕」を持った行程ともいえるでしょう。「往路」は期限(日程)が切られているという事情から多少急ぐのは自然ですから、四十五キロメートル程度であれば想定としてそれほど不審とは言えないと思われ、そう考えると『伊吉博徳書』の記載の「潤」の入る位置はやはり「間違い」と思われるわけです。

 『博徳書』の記載についてはさらに「疑問符」が生じる点があります。それは「高宗」に拝謁した日付が「三十日」とされていることです。この年の「潤十月」は「小」の月であり「三十日」は存在していません。それがここに記載されています。明らかに「暦」についての誤解があったものと思われます。
 本来の「戊寅元暦」ではこの「六五九年」の「十月」は「大」の月、「閏十月」は「小」の月のはずですが、「伊吉博徳」等はこれを逆に「十月」を「小」「閏十月」は「大」というように理解していた可能性があります。つまり、「出発」以降「一日」ズレて理解していたと思われるわけです。そうであれば「長安」への到着は実際には「閏十月十四日」であり、「皇帝」に拝謁したのは「二十八日」と思われます。(「冬至之會」が行われた日付は両者とも同じ「十一月一日」で変わらないと考えられます。)
 この時使用されていた「戊寅元暦」は導入されてから多分二十年程度しか経っていないと思われ、正しく理解していなかったという可能性があるでしょう。つまり「唐」から頒布された暦ではなく「倭国王権」で独自に作成した「暦」を使用していたという可能性があると思われるわけです。毎年十一月一日に暦の頒布を受けていればそのようなことはないわけですが、柵封されていない倭国のような国では独自に暦を作る必要があり、そのため理解不十分となったという可能性が考えられます。(これを「元嘉暦」と考えても「月」の大小は「戊寅元暦」と同じですから変わりません)それを示すのが『伊吉博徳書』では日付が「干支」ではなく「日付」で表されていることです。そこでは全ての日付が「数字」で表されており、「干支」が全く見えません。これはこれ以降も同様であったと思われ、「暦」は八世紀に入るまで「数字」で日付が書かれていたものと考えられます。それは「文武」の即位日付が『書紀』と『続日本紀』で「干支」が異なるという有名な事象に現れています。
 『書紀』では「八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」とされるのに対して『続日本紀』では「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。」となっていて「朔干支」が異なっています。これは『書紀』が「元嘉暦」によって「朔干支」が記されているのに対して『続日本紀』では「儀鳳暦」によって「朔干支」が書かれており、両者でそれが異なるからであるとされています。しかし暦法によって「朔干支」が異なるというのはわかりますが、「受禪」して「即位」した日付が異なるはずはありませんから、元々の「宮廷内記録」は「数字日付」で「八月一日」として書かれていた(あるいは「伝承」されていた)ものと推量できるでしょう。それを「史書」を編纂するという段階で「干支」に「換算」していると思われるわけです。ところが元となった暦が『書紀』と『続日本紀』で異なることとなったためそのため同じ内容を持った日付の「干支」が違うという事案が発生していると思われるわけです。

(ただし「章」一つ、つまり19年前の「六四〇年」の場合は「閏十月」が「大」の月、その前の「十月」が「小」の月であり「伊吉博徳」の誤解と整合しています。これは微妙な問題ですが、その「六四〇年」にも倭国からの使者が「朔旦冬至」の儀式に派遣されていたという可能性があることを考えると、この誤解には根拠があることとなるでしょう。)


(この項の作成日 2011/01/08、最終更新 2016/12/17)