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「東漢草直足嶋」の「震死」事件について


 すでに見たように『斉明紀』には『伊吉博徳書』からの引用があるわけですが、それについては彼が「遣唐使」として派遣された際の「帰朝報告書」であるという考えもあるようですが、そうは思われません。なぜならその『伊吉博徳書』の中に「朝倉朝廷」に帰国してから起きた事件について記述があり、その内容は「帰朝報告書」としては「不適切」と思われるものだからです。

 彼ら「伊吉博徳」を含む遣唐使団は、「唐皇帝」から「海東の政」(百済と高句麗に対する戦闘行動を指す)があるから還すわけにはいかない、とされ「洛陽」と「長安」に離れて「幽閉」されてしまい、「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により滅亡した後になってから解放され、「六六一年」になって帰国したわけです。この際の事情は『伊吉博徳書』によると、帰国途中船が迷走し「耽羅」(済州島か)に流れ着いた後、「筑紫」の「朝倉の朝廷」に到着し「奉進」、つまり「帰国報告」を行ったわけですが、そこには以下のように書かれています。

「又為智興{人東漢草直足島所讒 使人等不蒙寵命。使人等怨 徹于上天之神 震死足島。時人稱曰 大倭天報之近。」

 この記事については「通常」は「唐朝廷」における話と思われているようで、「寵命」は「唐の皇帝からのもの」と理解されているようです。つまり、先ほどの「西漢大麻呂」の「讒言」事件と同じ内容の重複記載と考えられているようです。「大系」の「頭注」も「断定」は避けつつ「同様の記事である」という言い方をしています。しかし、そう考えるには以下の不審点があります。

 〔一〕この「伊吉博徳書」の話の展開はほぼ「時系列」に沿っています。もしこの「足島」讒言が「洛陽」での話であったとすると、その時点での記録がされていてしかるべきですが、「三千里流罪」事件時点では書かれていません。「倭国」に関係している人物が「死亡」しているわけですし、それに関する記事がその時点で書かれないということはあり得ないものと思われます。

 〔二〕また、仮に「震死足島」が「洛陽」で起きたこととすると「唐」国内で起きた事案に対して「大倭」の「天」の「報い」であると表現されていることには違和感があるというべきでしょう。それほど遠距離まで「大倭」の「天」の「神意」が有効であったとか到達したというようなことは考えにくいと思われます。古代においては「神」の支配する「領域」(神域)は無限に広いわけではなく、「依り代」があれば別ですが、なければ「祭神」として祭られている場所(社)の「中」(境内など)では神威を示すことはできても、そこを離れるとその「有効性」が著しく減ずるというものではなかったかと考えられます。(そもそもそのような領域を「境内」と称したものであり、その範囲の区画となるべき地点を「境」と称したものです。)そのような考え方が人々にあったとすれば「唐」の朝廷にまで「大倭」の「天」が威力を及ぼしたとは考えなかったでしょうから、このような記述はしなかったものと思われるわけです。

 〔三〕また「足島」が「洛陽」で「讒言」した「報い」が「倭国」に戻ってから起きたのだとすると「大倭天報之近」というように、「怨み」が神に通じて効果が出るまでが「近い」(早い)という表現されていることと齟齬するでしょう。この「讒言」が「西漢大麻呂」の「讒言」と同一事象であると考えると、「六五九年十二月三日」の事件であることとなり、帰国したのは「六六一年五月二十三日」ですから約一年半もあるわけであり、とても「近い」とは言えないわけです。

 〔四〕さらに、「東漢草直足島」の「震死」に関連すると思われるものが、この『伊吉博徳書』が挿入されている直前の記事です。その記事は天皇が「朝倉」に「遷居」した際に「朝倉社の木」を切って神の怒りを買い、鬼火が出たり、近習するものに病死者が出たりした、というものです。

「斉明六年五月 乙未朔癸卯 天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時 ?除朝倉社木而作此宮之故 神忿壞殿。亦見宮中鬼火。由是大舍人及諸近侍病死者?。」

 この記事に続けて上で見た「徹于上天之神 震死足島」という『伊吉博徳書』に繋がるわけです。
 どちらも「神」の怒りに触れて死ぬという共通点があり、これらの記事が同じ文脈の中にあり、しかも「連続」しているという事から、これら二つの事件の間に「関連」があると考えるのは当然です。(これは当然「斉明」という人物に対する批判であり、そのために『伊吉博徳書』を利用しているといえるものです。)

 以上のことから、この「東漢草直足島所讒」から始まり、「震死足島」ということとなったという一連の記事内容は「帰国時点」での「朝倉の宮」における事象であると考えられ、この「讒言」事件は、帰国した「朝倉」の朝廷でも「韓智興」の供人に「讒言」されて「倭国王」から「使人等不蒙寵命」と云うことになったという顛末と考えられるのです。
 「韓智興」本人はこの時帰国していないものと考えられますが、(前段参照)彼は「供人」を「伊吉博徳」らの遣唐使とともに帰還させ、事の顛末について「報告」したものと思われます。
 「韓智興」は一時「三千里の外」への流罪とされるなど、唐国との間に重大事案を引き起こしたわけであり、彼は至急その報告をする必要(義務)があったでしょう。そのため「供人」を「伊吉博徳」等「遣唐使」の帰国に併せ派遣したものと思われます。それが「東漢草直足島」だったのではないでしょうか。そして、その「朝倉朝廷」への報告の時点で再び「讒言」をしたというわけです。つまり「東漢草直足島」にしてみれば、正確に報告すると自分と自分の主である「韓智興」に責が及ぶ事を懸念したものと思われ、彼と彼の主人である「韓智興」の行動について「正当化」する「言い訳」を行った際に、事実と違うことを述べたのかもしれません。その内容が「伊吉博徳」等の方に、より事件の原因があるかのようなものだったのでしょう。そして、彼らの帰国時点(六六一年五月現在)の「朝倉朝廷」の倭国王はその時「韓智興」側の話の方を信じたというわけであり、そのため「寵命」を受けられなかったと言う事と推察されます。このことを「伊吉博徳」等が「怨んだ」ところ「直ぐに」「上天之神」に伝わり「震死足島」となった、ということから「大倭天報之近」という表現になったものと考えられます。このように解釈すれば、彼らはすでに「倭国」に帰っているわけですから、「大倭」の「天」の「報い」という言い方もうなずけるものですし、「怨ん」でから「近い」という表現もまさにその地のことですから、その通りであると考えられ、これらのことはこの「足島讒言」という事件が「洛陽」滞在時点での事象でないことを証明するものと考えられます。
 また、ここでいう「寵命」は「天子の恵み深い命令」のことであって「お褒めの言葉」ではないと思われます。これを「唐皇帝」からのものという理解が大勢のようですが、当然「倭国王」からのものであり、本来は帰国した彼らの業績を踏まえた、次の新たな「業務命令」をいうものと思われますが、それを受けられなかった、という事であり、言ってみれば、ここで「お役ご免」という事となったものと推定されるものです。

 このような内容を含んでいる『伊吉博徳書』が「帰朝報告書」であり当の「朝倉朝廷」に提出されたと考えるのは「失当」ではないでしょうか。上の文章の問題の部分は、その「朝倉朝廷」との「軋轢」が書かれているとも言えるものですから、これは「報告書」としてはなはだ「そぐわない」ものと考えられ、この『伊吉博徳書』が本来「公的」な資料ではなかったことを物語っているものと推察します。
 また、このような「外交」という国家の重要な事業についての記録を「私的」資料に依拠しているという事からも、この時(「八世紀」)の王権は「外交」に関する「記録」や「資料」が非常に少なかったものと思料されます。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/10/08)