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「海東之政」と「倭客」


 この「皇帝」が催した「朔旦冬至」の會に「新羅」や「百済」は呼ばれていなかったのでしょうか。『三国史記』を見てもそれに類する記事が見あたりません。ただし、それについて注意を引く記事が同じ『三国史記』の「新羅本紀」にあります。

『三国史記』「武烈王」
「六年 夏四月 百濟頻犯境 王將伐之 遣使入唐乞師 …冬十月 王坐朝 以請兵於唐不報 憂形於色 忽有人於王前 若先臣長春・罷カ者 言曰 臣雖枯骨 猶有報國之心 昨到大唐 認得皇帝命大將軍蘇定方等 領兵以來年五月 來伐百濟 以大王勤佇如此 故控告 言畢而滅 王大驚異之 厚賞兩家子孫 仍命所司 創漢山州莊義寺 以資冥福」

 これによれば「百済」からの侵犯に際して「唐」に援軍を頼んでいますが、それにも拘わらず「返事」がなく困惑していたことが窺えます。そして、説話では超自然的な現象として語られていますが、実際には「間諜」などによって情報がもたらされたものと思われ、「来年」(六六〇年)の話として「百済」侵攻の予定があることが知らされたようです。この推移を見ると「新羅」は少なくとも「冬至之會」に使者を派遣していないことが明らかですが、「百済本紀」あるいは「高句麗本紀」を見ても同様であり、これら半島諸国はこの時の「冬至之會」に招請されていないと見られます。その理由として考えられるのは「半島諸国間」の関係が良好ではないことがあると思われますが、友好的関係が構築されていた「新羅」だけでも招集して不思議ではなかったと思われるわけですが、そうしなかったのはなぜなのでしょうか。
 それを考えた場合、この時「倭国」を招集する必要があったからではないかという可能性が浮かびます。つまり「倭国」を招請して使者を「手元」に置く必要性を考えたからではないでしょうか。

 本来このようなイベントの際には「蛮夷」という「南」と「東」の果ての遠方の国の出席がそのイベントの重み付けに必要であったものであり、以前から招請する慣習が存在していたという可能性があります。(武則天の「拝洛水」の儀式にも「蛮夷」の表記がありますから、同様に「南方」と「東方」からの出席があったもののようです)
 そうであれば当然この「朔旦冬至之會」の際にも、「東夷」からどこかの国を呼ぶ必要があったと思われますが、「高句麗」「百済」は現在時点の討伐対象国であり、これを招請するとは思われませんから、もし呼ぶとすると「新羅」と「倭国」ですが、この両国を同席させた場合、首都の宮殿内で口論などトラブルが起きるというような最悪の場合も想定され、それなら「倭国」だけを呼んでそれをそのまま「質」にとる方が軍事政略上都合がよいと考えたという可能性があると思われます。
 そのような可能性があると思えるのは、「出火の乱」の嫌疑が晴れた後についても「高祖」が「倭国」からの遣唐使たちに対して、「海東の政」があるから還ることはできないと告げたとされていることです。ここで言う「海東」とは「半島」のことであり、そこに存在する「三国」に対する政治的、軍事的措置を指すものです。
 上の『三国史記』の記述から見てこの「海東之政」は「冬至之會」以前から計画していたと考えられますし、「倭国」はその行程の考察の帰結から見ても「招請」を受けて「唐」にやってきたと見られますから、「唐」は当初から「倭国」からの使者を「幽閉」するつもりであったのではないかと考えられることとなるでしょう。つまり彼らは巧妙に仕組まれた「人質」であったというわけです。
 上の『三国史記』の記事でも「百済」に侵攻する計画があることが判明したのは(六五九年)十月のこととされていますから、「高宗」がまだ「冬至之會」に出かけずに「長安」にいる段階でのこととなります。つまり「冬至之會」を行なう以前に「海東の政」を行なう事が決まっていたと見られることとなる訳です。それは「伊吉博徳」の記録からもそのような経緯であることが推察できます。

「…十二月三日。韓智興■人西漢大麻呂枉讒我客。々等獲罪唐朝。巳決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博徳奏。因即免罪。事了後。勅旨。國家來年必有海東之政。汝等倭客不得東歸。…」

 この文章の流れにおいても「韓智興」等に対する処置の決定とは別に「国家」(この場合「皇帝」を意味する)が「海東之政」を行うということが既定のものであったように受け取れます。(「来年」という年次の指定もそのような「計画性」の存在を暗示しているようです)
 しかしこれはある意味当然ともいえるでしょう。なぜなら「冬至之會」が終ったなら、まもなく年も明けるわけであり、新年度の予定等はそれまでに決定されていると考えるのが通常ですから、「倭客」はある意味「予定通り」帰れないのであり、この「韓智興」がらみのトラブルがなかったとしても、「倭国」の「百済」への援軍や介入を最小限度に止めるためには「質」を取っていた方が良いという判断ではなかったかと思われ、「倭国」の半島情勢への本格介入をためらわせるためのものという可能性が考えられるところです。そのために当初から計画して招集したものではないでしょうか。
 しかし、何の口実もなく参戦することもできず、「遣唐使」足る彼等を何の理由もなく留め置くわけにもいきませんから、おそらく「唐」は「新羅」から要請に対する返答を留保しながら参戦する大義名分を考えていたものでしょう。
 「冬至之會」が「出火の乱」により中断するという不審事が起きた事から出兵する理由付けを得たものではないかと推察しますが、このような重要な「會」が中断されるのは「失態」ともいえますから、これが作為とは思えません。(すでに述べたように皇帝の周辺の組織に対するてこ入れが行われたように見られることもそれを表しています)しかし、これを絶好の口実にできることに改めて気がついたと云うことではなかったでしょうか。
 またこのような情報が「新羅」に(当然隠密裏に)伝えられていなかったとは考えにくいということもいえるでしょう。なぜなら「新羅」は共同戦線を張るべき相手であり、軍事情報は必要最低限与えてしかるべきだからです。
 上のように考えると「唐」が「倭国」に対して「冬至之會」への出席要請をした段階から既に計算された出来事であったことが推定できます。「伊吉博徳」達が倭国を出発したのは「七月」とされており、参加準備などのことを考えると、少なくとも六五九年の当初には倭国へ参加要請が伝えられていたのではないかと考えられるでしょう。つまりこの段階ですでに「唐」は「百済」への侵攻を計画していたこととなります。

 その後「唐」「新羅」連合軍が「百済」を打ち破った後「百済王」達が「皇帝」(高宗)の前に連行されることとなりましたが、そこは「東都」(洛陽)においてでした。

「(顕慶六年)十一月戊戌朔,■國公蘇定方獻百濟王扶餘義慈、太子隆等五十八人俘於則天門、責而宥之。…」(『舊唐書/本紀第四/高宗 李治 上/顯慶五年』)

 つまり「高宗」の面前に連行されたのは「則天門」であったとされいるわけですが、「則天門」とは洛陽宮城の南の正門を指す名称です。ここでも「高宗」は「東都」たる「洛陽」に来ていたものであり、それは「冬至」の儀式を行うためであったと思われるわけですが、その彼の前に「百済王」達は連行されてきたというわけです。つまり、この儀式は「伊吉博徳」達の眼前で行われたものであり、その彼等は「洛陽」に幽閉されていたこととなります。
 「則天門」では外交儀式などが行われたとも言われますから、このとき「諸国」の使者達が「冬至」の儀式あるいはその後の何らかの「會」に参加するためや、「正朔」つまり「暦」の頒布を受けるためにこの場所に参集していたと思われ、その彼らの前に「百済王」等が連行されてきたこととなります。このことは「諸国」に対する強烈な「威圧」を示すものであり、彼等に対して「服従」を無言のうちに強制する趣旨があったものと推測できるでしょう。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2019/05/12)