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「西漢大麻呂」の讒言事件


 「伊吉博徳言」に中に書かれた、「韓智興」の供人である「西漢大麻呂の讒言」の内容については、『書紀』では全く触れられておらず「不明」なわけですが、当初はこの遣唐使達については、この「讒言」により「唐朝に罪あり」とされ「流罪」が決定し、さらに「韓智興」については特に重い罪である「三千里の外」への流罪とされることとなったと言うぐらい「重大」な事案であったものです。
 しかし、ここで彼「西漢大麻呂」が為した「讒言」が本当に「讒言」という言葉通り、根拠のないものであったなら「我客」が「唐朝に罪あり」とはされないでしょうし、もし事実なら指摘した側である「韓智興」が「流罪」になる必要はないと思えるものです。このあたりの「伊吉博徳書」の記述には「不審」が感じられるところです。
 実際には「韓智興」側の受けた罰の方が大きいと見られますから、やはり「讒言」であったのでしょうか。しかも、「讒言」は「供人」であるのに対して実際の罰は彼の主人である「韓智興」本人が受けています。このことは「唐」の側から見ると「重罪」と疑われる何かがあったと推察されます。
 ここで「韓智興」に適用された「三千里の外」への「流罪」というのは、当時の「流罪」の中では最高刑であり、死罪に次ぐものでした。このような准極刑と言えそうなものを適用される罪というのはよほど重大な犯罪であり、ここで考えられるのは「国家反逆罪」的なもの(謀反)であったのではないかと考えられます。
 「唐律」では「謀反」とは「皇帝」に対し「暗殺」などを企てることを言い、これに加わった者は、主犯であるか従犯であるかを問わずみな「死罪」となると規定されています。そして、この時「西漢大麻呂」の「讒言」に関係しているのではないか、つまり、「謀反」と考えられる事件が実際に起きています。

 「十一月一日,朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中,倭客最勝。後由出火之亂,棄而不復檢。」

 つまり、「冬至之會」なるものがあり、そのため「諸蕃」の国々が集まっていたのですが、「出火」事件が起き中止となっていたのです。そしてその約一月後に「西漢大麻呂」の「讒言」事件が発生するわけです。
 この時の「出火」事件が「乱」と称されていることからも「謀反」、つまり「皇帝」に対し「危害」を加えようという意図を持ったものであったと認定されたものと考えられます。それは「獲罪唐朝」という表現からもわかります。「唐朝」とは「皇帝」を指す用語であり、「皇帝」に対して「罪」があるとされたというのですから、「謀反」以外の何者でもないと思われます。このことから関係者に対し徹底的な捜査が行われたものと考えられ、その過程で「西漢大麻呂」が「伊吉博徳」等の遣唐使団中に犯人がいる、という事を上申(自白)したのでしょう。

 「十二月三日,韓智興{人西漢大麻呂,枉讒我客。客等獲罪唐朝,已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博コ奏。因即免罪。」

 この約「一ヶ月」という期間は「唐」の司法関係者により、この「出火」が「事故」なのか「事件」なのか両面より捜査されていたものと考えられ、そのような中で、「西漢大麻呂」の口から、この「出火」に対し「皇帝」に対し危害を加えようという意図があったこと、それは「主導」したのが「遣唐使節」の誰かである、ということが話されたのではないか、そしてそれを信じた「唐」の司法関係者により、「遣唐使」の誰かが「逮捕」されたのではないかと考えられるものです。
 彼らがそう信じた理由というものも「百済」「高麗」と「倭国」の関係を疑っていたからであると考えられ、そういう意味で「神経過敏」になっていたものでしょう。しかし、同時にそのことを知っていた「西漢大麻呂」についても嫌疑がかけられ、その取り調べの過程で彼の主人である「韓智興」の名前が出たのではないでしょうか。 
 「唐」側の判断としては「韓智興」は以前より「唐」のキに滞在している人物であり、到着したばかりの遣唐使よりもこの犯行に対し「主」たる役目であった、と判断したのかもしれません。それが「死罪」でないのは「外交使節」の一員だからであり、特に微妙な時期の半島情勢に関わる出来事でもあり、倭国と全面的な反目は避けるべく「一等」罪を減じ「三千里」の流罪としたのではないかと推察されます。
 
 この時の「出火の乱」が単なる「事故」ではなかったのはその直後に行われた「人事」からもいえると思われます。

「(顯慶)四年…閏十月戊寅(五日),幸東都,皇太子監國。戊戌(二十五日),至東都。
十一月,以中書侍郎許圉師為散騎常侍、檢校侍中。戊午(十六日),兼侍中辛茂將卒。癸亥(二十一日),以英國公蘇定方為神丘道總管,劉伯英為禺夷道總管。」(舊唐書/本紀 本紀第四/高宗 李治 上/顯慶四年)

「閏月,戊寅,上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌,車駕至東都。
十一月,丙午(四日),以許圉師爲散騎常侍、檢校侍中。
戊午(十六日),侍中兼左庶子辛茂將薨。
思結俟斤都曼帥疏勒、朱倶波、謁般陀三國反,撃破于?。癸亥(二十一日),以左驍衞大將軍蘇定方爲安撫大使以討之。」(資治通鑑/顕慶四年条)

 これらの記事群は、何気なく見過ごしてしまいそうですが、十一月一日に「出火の乱」があったとすると、その三日後の「四日」に「侍中」について一種のテコ入れが行なわれている事実が注目されます。
 「侍中」とは皇帝の至近に仕える者達であり、皇帝からの問いに答えたり、身辺に気を配るなどの責を負っていたものです。
 この時点では「皇帝」はまだ「東都洛陽」に滞在中であり、「侍中」も帯同していたと思われます。その「侍中」に対して「中書侍郎許圉師」を「散騎常侍」に任命し、「侍中」を「検校」、つまり「調べて、不正を糾す」などの仕事をさせることとしたようです。またその「侍中」の「長」ともいえる「侍中兼左庶子」である「辛茂將」が亡くなるという「異変」が起きています。そしてその直後「蘇定方」を「神丘道總管」とし「劉伯英」を「禺夷道總管」としていますが、これは「対百済戦」の行動開始といえます。この流れは「侍中」に関する事と「百済」に関する事が関係しているという可能性を示唆するものです。さらにその日付は上に見るように「出火の乱」の捜査期間内であり、上の記事直後の「十二月三日」に「讒言事件」が発生するわけですから、それらに関連がないと考える方が困難です。
 つまり、この事件を承けてすぐに「侍中」つまり「皇帝」の側近のメンバーに対する調査が行なわれたらしいこと、それを指揮するために「許圉師」を「散騎常侍」に任命していること、その直後「侍中」の主要メンバーである「辛茂將」が亡くなっていることが知られ、この死去が「出火の乱」に対しての何らかの責任をとったものではないかと推察されるものです。(警備上のことか)でなければ「出火」の災に負傷してそのために亡くなったというようなことも考えられます。
 そして、「遣唐使」達は「海東の政」という軍事作戦の遂行の支障となるため、帰国できないというだけではなく「自由行動」を制限されることとなったという訳です。
 上でみるようにそれ以前に既に「蘇定方」「劉伯英」という将軍を対百済戦へと派遣することが定められており、これらのことからこの時の「出火の乱」がそれらの行動の「契機」となったことらしいことが推定できます。
 つまり「唐朝」としてはこの「出火の乱」について「謀叛」と見たと思われ、いわば「テロ」があったと考えたものと思われます。それが「倭国」からの遣唐使の誰かによるものであるという(「大麻呂」による)「自白」があったものであり、それは「百済」から「紛れ込んだ」人物によると判断されたものと思われ、そのため「唐」としてはその「本体」である「百済」に対して「制裁」を加えるということとなったものと見られます。(新羅「武烈王」からの援軍要請があったことも一つとは思われますが、既にそれ以前から行動が開始されているようです)

 この「讒言」は「唐」当局者の取り調べ期間中の出来事であったと思われ、この取り調べに対して「西漢大麻呂」が供述し、それにより「倭国」からの使者に対して「罪」が決定されたものの、「伊吉博徳」が「奏上」した結果、嫌疑が晴れたのか情状が酌量されたのか不明ですが、「無罪」となったとされています。これについては「伊吉博徳」はその「書」の中で、この件について自分に功績があったかのように書いていますが、彼は下級官人だったはずであり、「遣唐副使」など上級者がいる中で、彼が取りなしただけで「大罪」が一転して「無罪」になる理由がまた不明です。このことは「伊吉博徳」に「唐」関係者に対し有力な「コネ」か「ルート」があったものと考えねばなりませんが、そう想定する根拠が見あたりません。(でなければ人の手柄を横取りして書いているかどちらかと思われます)


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2014/10/16)