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「韓智興」という人物について


 「伊吉博徳」達の遣唐使が到着し、彼らが参加した「唐」朝廷による「冬至の會」という催しに、以前から「唐」に滞在していた「韓智興」達も参加していたものと考えられます。
 「韓智興」達が「六四〇年」の「甲子朔旦冬至」というイベントに対する参加者の一部であったとすると、その経路としては「新羅道」経由で「唐」に来たものと思われます。
 『資治通鑑』の中では「新羅」から使者が来た記事と一連のものとして「倭国」からの使者記事があり、その「倭国」からの使者記事には日付がなく、これは「新羅」からの使者記事と同じ日付であった可能性が考えられますが、それはそもそも両国の使者が同行したという可能性を示唆するものです。そう考えると、この時は「新羅道」を経由したとみられるわけであり、使者の顔ぶれも「親新羅」的人物が選抜されていたという可能性が考えられます。

『資治通鑑』
「(貞観)五年(辛卯、六三一)冬,十一月丁巳(二日),林邑獻五色鸚鵡,丁卯(十二日),新羅獻美女二人;魏徴以爲不宜受。上喜曰:「林邑鸚鵡猶能自言苦寒,思歸其國,況二女遠別親戚乎」并鸚鵡,各付使者而歸之。
倭國遣使入貢,上遣新州刺史高表仁持節往撫之;表仁與其王爭禮,不宣命而還。
…」

 このように『資治通鑑』の「新羅」からの「美女」献上記事と「倭国遣使」記事とが同じ日付であることが推定されるものであり、それは「新羅」と「倭国」の使者が同行して「唐」へ来たらしいことが推測されます。
 この時の「遣唐使団」の中に「韓智興」達がいたとすると彼らも「親新羅」的立場の存在であったと思われますが、彼は(趙元宝や彼らの随員と共に)そのまま「唐」に残り、学業と情報収集を行っていたものと思われますが、このような中で「六五九年」の「倭国」からの「遣唐使」が「冬至之會」に派遣され、参加していたわけです。

 ところで、「倭国」では「六五一年」に「新羅」からの使者が「唐服」を着用していたため、激怒して追い返す事件がありました。

「白雉二年(六五一年)是歳条」「新羅貢調使知万沙喰等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自難波津至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。」

 そして、この記事のように「新羅」に対して「威嚇」すべし、という意見も出るなど、反感が強くなっていたものです。このことは国内の「百済系氏族」の発言力が高まったことを示すと考えられますが、相対的に「親新羅系」氏族の地位低下を招いたものと考えられます。その主体となったのは「巨勢氏」など「軽皇子」の支援勢力であり、彼らが「政権」を握って以降「新羅」に対する敵視政策が始まったと見られます。しかし、そのため「白雉四年」の遣唐使は東シナ海直接横断ルートを取らざるを得なくなり、その結果「難船」することとなったのです。このことに対する反省もあったと思われますが、「六五七年」には「新羅」に対して、「新羅」から「唐」への使者に「倭国」の使者を同行させてほしいという申し入れをしましたが、これを断られています。

「(斉明)三年(六五七年)是歳条」「使使於新羅曰 欲將沙門智達間人連御廐依網連稚子等付汝國使令送到大唐。新羅不肯聽送。由是沙門智達等還歸。」

 倭国では遣唐使船の航路として安全なルートである「北路」を確保したかったのでしょうが、そのためには「新羅」を経由する必要がありました。それまで対「新羅」での交渉の窓口であった「高向玄理」を前回の「遣唐使」派遣の際に失っているため(唐で客死しています)、改めて「沙門智達」等を窓口に「遣唐使」派遣の協力を得ようとしたものでしょう(彼らも親新羅的な人物と考えられます)。しかし、「新羅王」(金春秋)は個人的な関係があった「高向玄理」以外との交渉を拒絶したものと推察されます。
 彼がそうした理由は「倭国」の「親百済」的態度に警戒感を抱いていたことがあるでしょう。倭国は以前より「親百済」の方針であったものであり、それが「六四六年」になって、突然「新羅」に使者「高向玄理」を派遣するのですが、それは結局「唐」との関係をより良好にするために「新羅」を利用しようとしただけであったと考えられ、それを「金春秋」に見抜かれていたのだと推察されます。
 この申し出は翌年(六五八年)に「僧」だけに限定して受け入れた模様で『書紀』に以下の記事があります。

「(斉明)四年(六五八年)秋七月是月条」「沙門智通。智達。奉勅乘新羅船往大唐國。受無性衆生義於玄弉法師所。」

 この段階では「新羅」としては外交使節という「政治的」な人員に対しては引率同行の受け入れを拒否したものと見られ、その翌年(六五九年)に派遣された遣唐使は(伊吉博徳を含んだ使節団)往路も復路も「新羅道」つまり「北路」ではなく、難船の危険性が高い東シナ海直接横断をしなければならなくなったものと見られます。そしてやはりこの時も二隻のうち「大唐大使」が乗っていた船は座礁して転覆した模様です。そのことは『書紀』に引用された「難波吉士男人書」というものに書かれています。(「難波吉士」も「百済系」かと推察されます)

「(斉明)五年(六五九年)難波吉士男人書曰 向大唐大使,觸島而覆。副使親覲天子,奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一弓三箭八十獻于天子。」

 これによれば、かろうじて「副使」の乗った船が渡海に成功した模様であり、唐皇帝に拝謁する事ができたとみられます。(伊吉博徳もこれに乗船していたものでしょう)
 このように「六五九年」の「倭国」からの「遣唐使」派遣が「新羅」に対して良い印象のない中で行われたことは明らかです。
 これに対し「唐」に滞在していた「韓智興」とその供人が、この「遣唐使」に対し「反感」を感じたのではないでしょうか。それが「唐」朝廷内での「西漢大麻呂」の「讒言」事件に発展することにつながったのではないかと考えられるものです。
 「韓智興」達は「新羅」と関わることによって「親新羅」的立場に立つこととなったのではないかと考えられ、「反新羅」という立場を明確にした遣唐使団とは異なる立場であったと思われます。

 倭国としてはそれまでの対「唐」、対「新羅」という外交の主要な事項においては、はかばかしくない成果となっており、それを回復するためにも「六五九年」の遣唐使は責任が重かったと考えられるわけですが、「西漢大麻呂」の讒言事件が影響して「唐」の「百済」征討作戦に歯止めをかけることができなかったものです。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/04/18)