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斉明朝の「遣唐使」と「韓智興」


 「斉明紀」の中に「伊吉博徳言」からの引用記事がありますが、その中で消息が書かれている人物の中に「韓智興」という人物が出て来ます。彼は「六五九年」に派遣された「遣唐使団」が遭遇した「事件」の当事者です。
 この時「倭国」からの遣唐使を含む諸外国からの使者が「洛陽」の宮殿に集められ「冬至之會」という宴が行われていました。その際に「出火事件」があり、その場で宴は流会となってしまったのです。その後「倭種」とされる「韓智興」の供人の「西漢大麻呂」により「遣唐使」達が「讒言」されるという事態となり、それがきっかけとなって「遣唐使」達は「長安」と「洛陽」に分かれて幽閉される事となったという事件がありました。
 「韓智興」という人物はこの「六五九年」の「遣唐使団」の中にいたわけではなく、すでにそれ以前に唐に滞在していた人物と考えられます。なぜなら「彼」の「供人」である「西漢大麻呂」は「我が客」を「讒言」したと「伊吉博徳書」に書かれており、この事は「韓智興」達は「我が客」ではないことを意味しますが、この「我が客」というのは「博徳」にとって「同じ遣唐使団の仲間」を意味する語ではないかと考えられますから、彼らは「六五九年」の遣唐使団の一員ではないことが窺われます。
 では「白雉四年」(六五三年)の遣唐使団にいたのでしょうか。そうではないと思われます。

 すでに述べたようにこの「白雉四年」の遣唐使節に関する情報については「伊吉博徳」は入手可能であったと考えられますが、そのような人物達について書かれた「伊吉博徳言」という記事中に(孝徳紀に存在します)「別」という言い方で「韓智興」と「趙元寶」の両者について書かれています。この「別」というのは「文脈」に沿って素直に解釈すれば、他に挙げられている遣唐使団メンバーとは「別」という意味と考えられ、この「白雉四年」の遣唐使団には「いなかった」人達であったと考えられます。たまたま帰国が一緒であったため、ここに書かれたものと推察されるわけです。
 しかし、「白雉四年」以前には遣唐使は長く途絶えており、その前の遣唐使は「太宗」の時期であることは確かですが、それが何年なのかは「中国側」の資料では複数の説があり、不確定といえます。ただし、有力なのは「六四〇年」であり、「甲子朔旦冬至」という記念すべきイベントがあったであろう年次です。この時の遣唐使のうち「學生」などそのまま滞在して学業に励むべき人たちは「高表仁」の来倭に合わせて帰国はしなかったと見られ、そのまま唐の国に残っていたと云う可能性が考えられます。ただし、その後派遣された次の「遣唐使」である「白雉四年」の「遣唐使船」に同乗して帰国しなかったこととなる点については、「不審」とは考えられますが、必ず全員が次の遣唐使船で帰国したというわけではなさそうですから、この時点で滞在を延長していた人たちもいたという可能性はあるでしょう。(「白雉五年」の「遣唐使船」記事は「隋代」の派遣記事の年次移動されたものと推定しましたから、除外します。)

 ところで「古田氏」の「失われた九州王朝」の中では、「伊吉博徳言」という中で消息が言及されている人達について「重要人物」であるという見解もなされていますが、特にそうであるとは思いません。もしそうであるなら「伊吉博徳」からの引用部分ではなく『書紀』本文中にその名前が書かれて然るべきであると考えられますが、それが「省略」されているという中に「彼らの「地位」や「立場」が浮き彫りになっていると考えられます。つまり「伊吉博徳言」からの引用中に名前が書かれた人物達は資料を作成した「伊吉博徳」と「同輩」クラスの人物達であり、将来を嘱望されてはいるものの当時それほど「位階」が高くもない人物達であったと思料され、そのような関係であったが故に「伊吉博徳」がその消息を関知するところとなったと考えられるものです。 
 前述したように「今年」が「七〇四年」と推定されること、「伊吉博徳」が『続日本紀』に最後に登場するのが「七〇三年」であること(『大宝令』編纂に対する褒賞記事)、「後継者」と考えられる「伊吉連子麻呂」という人物が最初に登場するのが「七〇七年」であることなどから考えて、「七〇四年」当時「七十歳」ぐらいで、退官の年齢になっていたものかと推察され(『養老令』の「官人致仕条」によれば「七十歳」になると「定年」となり「退官」できるとされています)、逆算すると「六五九年」の遣唐使当時「二十五歳ぐらい」となり、ちょうど「初叙」(官位につける最低年齢)の年齢程度となります。つまり、彼は初めて官位についてすぐに「遣唐使団」のメンバーとして選ばれたと考えられるものであり、いってみれぱほんの「駆け出し」の頃のことと考えられるものです。同様の年齢や環境であった他の人物達も名前が書かれなかったとしても不思議ではありません。総計人数も多数であり、彼のような人物達が記録に残らなかったとしても驚くにはあたらないと思われます。(「六五九年」の遣唐使記事にしても「本文」では「伊吉博徳」の名は書かれていないわけです。)
 だからこそ『書紀』の「原資料」にはないような事情を「彼」は知っていたものと推察されるものであり、その彼への情報収集が『書紀』「編纂」の際に行われたものと推定されるものです。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/04/18)