『書紀』に引用された「伊吉博徳」の記録には「東宮監門郭丈挙」から「日本国の地理及び初めの神の名称」について「全員」に対し問いかけがあったとされます。
「…於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。…」『孝徳紀』
従来この「問いかけ」についていろいろな考え方があるようですが、以前はこれが「全員」に対し行われ、また各員が個別に答えているところから「全員の答えが一致するか」の確認をしていたと推定しました。それは「百済」など第三国のスパイが混じっていないかという疑いのもとからであったと見たのです。
その後この時の「中国」への使者について「唐」へではなく「隋」へのものであったのではないかという疑いが生じました。そう考えると「日本国の地理」等の情報を収集するのには明確な理由があることとなります。
つまりこの時初めて「倭」から「日本」へと国号変更を行い、それを「隋」に認めさせようとしたと見られるのです。しかし「隋」(文帝)は「倭」の「中国」歴代王朝の関係が自王朝まで継続していることを自らの正統性の証明の一助にしようとしたと思われますから、「国号変更」は認めなかったと思われます。
またこの時「天皇」自称も行ったと見られますが、これについては「隋」は認めた模様であり、それは「裴世清」がもたらしたという『書紀』に記載された「国書」の中に「倭皇」とあるところから窺えます。当然「倭王」であるべきところが「倭皇」となっているのは「造作」ではなく、「天皇」自称の証しと見るべきでしょう。
このとき『書紀』によれば「高向玄理」は「唐」で死去したとされるわけですが、そこには全く理由が書かれていません。本来このような「押使」というような高位の人間が唐で「客死」したとするとその状況が語られてしかるべきですが、そこには一切記事がなく、死因などが不明となっています。このような記事の状況から判断して「高向玄理」についてはその「死因」を書くわけにはいかなかった理由があるものと思われます。それは彼が「隋」の官憲から取調べを受け、その最中に死去したのではないかと考えられるからです。
上に述べたように『書紀』によれば遣唐使の各員は「東宮」を護衛している担当の人物より「尋問」を受け「全員」に対し「日本国」についての情報を聞かれたとされます。確かに、夷蛮の国が朝貢に来た場合には「その国の地理や歴代王朝」などを聴き取る、というルールが「唐」にはありました。『唐会要』の「諸司応送史館事例」には「蕃国」の朝貢に際して「使至るごとに、『鴻臚』は土地、風俗、衣服、貢献、道里遠近、ならびにその主の名字を勘問して報ず」との規定があったことが書かれています。
また、この「規定」でも判るように、通常このような尋問などは「鴻廬寺」(外務省)の官僚が行うものですが、この時は「東宮監門」が行っており、異例のことと思われます。
彼(郭丈擧)はこの「遣唐使団」に「何らかの危険性」を感じたが故にこのような「尋問」を行ったものと推察され、このようなある種「異例」な事を行う動機が「郭丈擧」にはあったものと推察します。
通常「鴻廬」は宮殿の入口付近で「蕃国」からの使者について必要な事項を聴取し「兵器等」の有無について調査し「無害」であることを確認したなら引率して必要な区域へ移動させるわけですから、この場合「皇帝」の謁見する場所へ移動中であったと思われる訳ですが、途中で「東宮監門」という「皇太子」の宮殿の護衛を司る「郭丈擧」呼び止められ、尋問を受けたという流れであったと見られるわけです。彼は「皇太子」の護衛役ですから、「皇帝」や「皇太子」に危害が及ぶ可能性や危険性を特に気にしたものと見られ、この「遣唐使団」に何か「不審」あるいは「危険」を感じたものかもしれません。
それまで「倭国」からの使者として来ていたものがこの時の遣隋使団は「日本国」からの使者を標榜していたことから、彼らの素性を更に詳しく確認する必要があると考えたのではないでしょうか。そのような中で「押使」の「高向玄理」が死去したというわけですが、それが何らかの取り調べの中のことではなかったかと推測したわけです。
なぜ彼が取り調べを受けていたかというと彼は「押使」であり、使者の中の最重要人物であり、この訪問の意図を体現していると考えられたからでしょう。そして彼自身が「日本國之地里及國初之神名」を正確に答えられなかったのではないかと思われるわけです。(記事としてもこの「日本國之地里及國初之神名」を皆が聞かれて答えたというものと「高向玄理」の死についての記事が連続しており、それはその二つに関連があることを示唆するものと思われます。)
彼は「渡来人」であったと思われますから、そのような国内伝承を正確に記憶していなかったと云うことも考えられるでしょう。このため、「スパイ」(特に「高句麗」からの)の疑いにより「取調べ」を受け、その途中で拷問として食料を与えられないことがあって、餓死ないし栄養失調で死亡したものではないでしょうか。
そのような推測があながち無理ではないのは『宝物集』等各種資料に「燈台鬼」という伝承が残されていることです。(※)
それによれば「高向玄理」とおぼしき人物である「可瑠大臣」という人物が「遣唐使」として赴き、そこで何らかの罪により「面皮」をはがれ「額」に「燈台」を打たれることとなったというものであり、これは「高向玄理」に対して「拷問」(というより「刑」か)が行われたことを示唆する伝承なのではないかと思われます。(各種史料ではこの「可瑠大臣」の息子である「宰相」が「唐」へ赴き父である「可瑠大臣」と再会するというストーリーのようです)
この「可瑠大臣」については『推古紀』の人物であるというものや「高向玄理」という固有名詞が出ているものもあり、この伝承が発生した段階から「高向玄理」という人物が念頭に置かれたものであったのは間違いないものと思われます。また「伝承」というものが全体ではなくとも、一部は必ず事実に基づくものであると考えられることを思うと、彼が「遣隋使」として派遣されて帰ってこなかったという事実がその下敷きになっていると思われるわけです。
同種のストーリーが語られる『平家物語』の「長門本」では彼が「唐」の官憲に捕らえられた嫌疑として「陰陽道」の奥義を日本に持ち帰ろうとしたためという説明がされており、一見そのような理由で拘束されるのは不審ですが、これは実際には「暦」に関する知識あるいは「渾天儀」など「暦」を製作するのに必要な機械を日本に持ち帰ろうとしたことを指すものではないでしょうか。
「暦」やそれに必要な「漏刻」などの管理は「隋」でも「唐」でも(我が国でも)「陰陽寮」の管掌範囲ですから、「暦」関連の知識や技術を「陰陽道の奥義」として表現してもあながち間違いとはいえません。
そもそも「暦」は「皇帝」の権威に直接関わるものであり、「暦」を作り頒布する権利は「皇帝」だけが持っていたものです。「附庸国」などはその暦が「頒布」されるのを受容する以上のことはできず、許可されていないのに自分で作ったりあるいは使用したりすることは固く禁じられていたものです。
「倭国」は「隋」に遣使するまでは「南朝」に臣事していたものであり、少なくとも「百済」を通じて「南朝」の暦である「元嘉暦」を使用していたものと思われます。しかし「隋」との国交を持つこととなって以降「隋」で使用している暦について知ろうとしたものと思われますが、「倭国」は絶域であることなどから「隋」と同じ暦の頒布を受けられず(絶域のため毎年貢献のため渡海する必要がないとされたものと思われ、そうであれば暦が正確である必要がないと考えられた模様です)、そのため「暦」を自力で作ろうとしたのではないでしょうか。
「燈台鬼」説話では「物言わぬ薬」を飲まされたという描写も見られ、「拷問」であれば逆に自白を容易にするような薬が処方されて当然ですから、これは「秘密」を漏らせぬよう口止めのために薬を飲まされたものと理解できるわけです。
(※)山下哲郎「軽の大臣小こう−『宝物集』を中心とした燈台鬼説話の考察−」(『明治大学日本文学』第十五巻一九八七年)、浜畑圭吾「延慶本平家物語における「燈台鬼説話」(龍谷大学国文学論叢第五十一集)
(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2019/06/02)