ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):七世紀の倭国の外交と遣唐使:遣唐使外交について:

「高向玄理」について


 「白雉五年」の「遣唐使団」の肩書き(冠位)については「六六四年」に「天智」が定めたという官位制の中にあるものであり、時系列として矛盾していると見られます。

「天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。大錦上。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。小錦下。大山上。大山中。大山下。小山上。小山中。小山下。大乙上。大乙中。大乙下。小乙上。小乙中。小乙下。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。」「(天智)三年(六六四年)春二月己卯朔丁亥条」

 「高向玄理」については「新羅」に派遣された際の肩書きが「小徳」と書かれており、これは『推古紀』に定められたという「冠位十二階」の上から二番目です。また、彼は「国博士」という地位にあって「僧旻」と共に「八省百官」を定めたとも書かれています。

「以沙門旻法師 高向史玄理爲國博士。」(天豐財重日足姫天皇四年(六四五年)六月庚戌条)

「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調。黒麻呂更名玄理。」(大化二年(六四六年)九月条)

「詔博士高向玄理與釋僧旻。八省百官。」(大化五年(六四九年)二月 是月条)

 同じように「小徳」という冠位であったことが記されている「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」はその後「左大臣」「右大臣」となっており、彼らとはこの頃まではほぼ同格の扱いであったものと考えられます。

「初發息長足曰廣額天皇喪。是日。小徳巨勢臣徳太代大派皇子而誄。次小徳粟田臣細目代輕皇子而誄。次小徳大伴連馬飼代大臣而誄。」(六四二年)元年…十二月壬午朔。…甲午。

「於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。字馬飼。授大紫爲右大臣。」「六四九年」大化五年夏四月乙卯朔甲午。

 ところが、この「六五四年」の遣唐使の際の「冠位」は「大錦上」(大華下)となっており、これは上から「八番目」です。しかも上に述べたように時系列として矛盾しているというわけですが、「或曰く」として書かれている「大華下」が正しかったとしても「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」が「左右大臣」に任命される前が「小紫」であったのに比べ二段階低くなっており、さらに彼らは「大紫」に昇格したわけですから、いっそう差がついていることとなります。

 また、「六五〇年」の「白雉」が献上され、「改元」される際に、「倭国王」から「故事」に類似の瑞祥の出現があったか問いただされているメンバーの中には「高向玄理」の名前はありません。「国博士」という地位にあったものであれば、当然この場にいなければならないものと思えますが、その名が見えていません。これらは何を意味するものでしょうか。
 これについては以前は「降格」という可能性を念頭に考えていましたが、そうではないらしいことに最近気がつきました。
 ここに見える「小徳」と「大錦上」については一概に「矛盾」とはいえないという可能性もあると考えるようになりました。それは「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれていることからです。

「…太子勝於被戦畢于時以大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、それらは「遣隋使」が「隋」の皇帝に語った内容に基づくと見られますが、ここに書かれた「内官」とは「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「冠位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。

 ここに書かれた「中臣國子」という人物は『書紀』には出てきませんが相当すると思われるのが『推古紀』に現れる「中臣國」です。

「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。謀及大臣。詢于群卿。田中臣對曰。不可急討。先察状以知逆。後撃之不晩也。請試遣使覩其消息。『中臣連國』曰。任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅。征伐新羅。以取任那附百濟。寧非益有于新羅乎。田中臣曰。不然。百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅。遣吉士倉下於任那。令問任那之事。時新羅國主遣八大夫。啓新羅國事於磐金。且啓任那國於倉下。因以約曰。任那小國。天皇附庸。何新羅輙有之。随常定内官家。願無煩矣。則遣奈末智洗遲。副於吉士磐金。復以任那人達率奈末遲。副於吉士倉下。仍貢兩國之調。然磐金等末及于還。即年以大徳境部臣雄摩侶。『小徳中臣連國』爲大將軍。以小徳河邊臣禰受。小徳物部依網連乙等。小徳波多臣廣庭。小徳近江脚身臣飯葢。小徳平群臣宇志。小徳大伴連。闕名。小徳大宅臣軍爲副將軍。率數萬衆以征討新羅。…」「(六二三年)卅一年。…是歳条」

 この記事は既に触れましたが実際には「六二三年」ではなく、干支二巡遡上した「五〇三年」と推定されています。なぜならそこには「任那」が存在しており、それだけでも不審ですが、この時点で「百済」「新羅」と「倭国」を加えて「任那」の争奪戦をしていることとなっており、そのような戦いがこの時点付近の大陸や半島をめぐる国際情勢とは位相を異にするものと考えられるからです。
 この年次がもし正しければ、それは「隋」が「高句麗」と戦った影響もあって疲弊し衰亡して「唐」に取って代わられた直後であり、「半島」においてはその「隋」に拮抗し得た「高句麗」の影響力が強くなっていた時期です。当然「高句麗」は(五世紀のように)軍事力を背景として南下政策をとるという可能性もあり、「百済」も「新羅」も「高句麗」の脅威をいかに和らげるかを考えていたと思われます。
 他方「倭国」は「隋」から「宣諭」された一件以降「隋」からの脅威を感じていたわけですが、「唐」に代わって以降そのような関係を一旦清算して新たな友好関係を「唐」との間に築こうとしていたものと見られます。しかし、この「新羅出兵」記事はそのようなことが全く想定されておらず、半島の中の小領域の獲得合戦をやっているように見えます。いわばコップの中の嵐に過ぎないレベルの戦闘をしているようにしか見えないわけです。
 このことからこの戦いは「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなります。つまり「小徳中臣國」という人物は(他の人物達と同様)ずっと以前の時代に生きていたものであり、干支二巡の遡上が最も年次と記事内容に齟齬がないものと思われ、「五〇三年」がその真の年次として想定されるものです。
 そう考えると、「小徳」からその後「大錦中」となったと見られる「高向玄理」の官位についても実際には「大錦中小徳」という並列称号ではなかったかと考えられることとなり、これを「六世紀末」から「七世紀初め」として考えて矛盾はなくなると思われます。

 以上「惠日」に関わることや「中臣国」に関わること、経過行路の選択などからこの時の「高向玄理」達は「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったこととなります。彼等が「遣隋使」であったとすると、彼等が「日本國之地里及國初之神名」を聞かれたということには合理的理由があることとなります。推測によれば彼らが初めて「日本国」という国名を名告った使者であったと思われ、そのことから「地理」などの情報を聴取されたものと思われます。これが干支一巡遡上する可能性を考えると、真の年次としては「五九四年」が考えられ、これは「倭国」の最初の遣隋使である「開皇の始め」に派遣された「小野妹子」達に引き続く使者であったこととなるものと思われます。


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2015/04/30)