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「智蔵法師」について


 「智蔵法師」という人物について「浙江工商大学日本文化研究所」の「王勇氏」に「狂人を装う留学僧-智蔵列伝- 」という論文があります。そこで述べられている「智蔵」像についてやや「異議」がありますのでここに記しておこうと思います。

 「王勇氏」もいうように、確かにこの「智蔵」という「法師」の略歴には不可思議な点が多い、というより「混乱」と「矛盾」に満ちています。
 彼の事績を伝えるものは『元享釈書』『三国仏法伝通縁起』「三論祖師伝」『懐風藻』『扶桑略記』など各種有り、そこに彼に関する情報が各種書かれています。
 そこに共通するものとして「福亮法師」の出家前の子供であるというものがあります。この情報はその内容から考えて信頼性の高いものであると思われ、これが「定点的情報」といえそうです。
 その「福亮法師」は既に述べたように「法起寺」の創建に関わっており、以下の「露盤銘文」によれば「戊戌年」(六三八年)になって「金堂」が「構立」されたと書かれています。

「法起寺塔露盤銘文」(ふりがな、送りがなは鎌倉時代に「顕真」が付したものをそのまま使用しています)
「上宮太子聖徳皇ハ壬午ノ年ノ二/月廿二日臨崩之時於ニ山代兄王/勅シ御願ノ旨ヲ此ノ山本(ヤマモトノ)宮ノ殿宇即チ/処ロラナリ專為ス作サント寺ト及大倭國ノ田十/二町近江國ノ田卅町ナリ至干ニ戊戌年/福亮僧正聖徳ノ御分ニ敬テ造テ弥勒ノ/像一躯ヲ構立ス金堂ヲ至干乙酉ノ/年ニ恵施僧正將ニ竟ランカ御願ヲ構立/堂塔ヲ丙午年ノ三月ニ露盤営作ル」

 ただし、この「構立」とは「本建築」の前に「仮」に目印的に「木柱」などを建て「仏式」による「地鎮祭」様のことを行なうものを言うようであり、この段階で「大規模」な建築物が建てられたと言うことではないと考えられます。
 また、この「露盤銘文」そのものについても真偽が取りざたされていますが、その場合でも前半の聖徳太子との関連部分であり、「福亮僧正」に触れた部分以降については問題にされていないようです。
 また「福亮法師」は『三国仏法伝通縁起』によれば「慧灌僧正以三論宗授福亮僧正。」とされており、ここでいう「慧灌僧正」については「推古三十三年」(六二五年)来日とされており(同じく『三国仏法伝通縁起』による)、これに従えば「出家」はそれ以前のこととなるでしょう。
 さらに「福亮法師」については「呉人」とされており、この「呉」が中国「南朝」の「陳」を指すと考えると、これが「隋」により「征服」される以前の来倭であることが示唆されるものであり、「南朝滅亡」の年である「五九二年」付近がその年次として有力となるでしょう。
 (これについてはすでに指摘したように「隋初」段階で「遣隋使」を送ったものと考えられ、「書記」に書かれた「百済人」たちの「遭難記事についても同様に「隋初」段階(六八〇年代か)のことと推定できると思われます。)
 その後彼は「熊凝氏」を名乗ったとされますが、以降「出家」したとされており、「智蔵」がこの「出家前の子供」と考えると、「智蔵」は「六〇〇年」以前に生まれていたという可能性が高いと思料します。
 さらに「智蔵」は「隋」の「嘉祥大師吉蔵」から薫陶を受けたともされており、(「元亨釈書」によれば「釋智藏、呉國人、福亮法師俗時子也。謁嘉祥受三論微旨。」とあります)その「嘉祥大師吉蔵」は「六二三年」に死去していますから、これ以前に「隋」に渡っていなければならないこととなります。そうであれば「天智朝」(六六〇年代)などの派遣とは考えられないこととなります。
 
 『隋書俀国伝』には以下のように「倭国」から「遣隋使」が派遣されたことが書かれています。

『隋書俀国伝』
「大業三年(六〇七年) 其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。」

 この「隋書俀国伝記事」はすでにみたように「隋」の「開皇年間」記事とみられ、「六〇〇年以前」であることが推定されますが、この時「沙門数十人」が派遣されており、この中に「智蔵」が居たという(少々若いものの)可能性もあると思われます。
 また『書紀』の「裴世清来倭」記事(以下の記事)は既に見たように「隋初」の頃の記事が移動されていると考えられることとなったわけですが、その帰国に「遣唐使」が同行したことが書かれており、そこには「八人」の人物の名前があります。しかし、この中には「智蔵」の名前がありません。(これはある意味当然かも知れませんが)

「推古十六年(六〇八年)辛巳条」
「唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」

 ところで、「推古三十一年」(六二三年)に「大唐學問僧」の帰国記事があります。

「推古卅一年(六二三年)秋七月条」
「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。仍貢佛像一具。及金塔并舍利。且大潅頂幡一具。小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺。以餘舍利。金塔。潅頂幡等皆納于四天王寺。是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及醫惠日。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」
 
 ここには「新羅」の使者に同行して帰国したという「大唐學問僧」四名の名前が書かれています。それは「福因」、「惠齊」、「惠光」、「醫惠日」の四名です。しかし、これらの人名は先の「六〇八年記事」で「隋」へ派遣された人名である「福因」以下「惠明」、「玄理」、「大國」、「日文」、「請安」、「惠隱」、「廣齊」と比較してみると、「福因」を除いた人物達はこの時の「八人」にはおらず、彼らにはこの時のメンバーではなかったことが判明します。しかし、そうであるとすると、彼らには「派遣された」という記録がないこととなります。
 このことから、彼等は『書紀』に書かれていない「遣隋使」ないしは「遣唐使」の一員であったこととなると思われますが、ここで「惠日」が報告した内容である「其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」という言葉の中に出てくる「大唐」について、既に考察したように実際には「隋」のことを指すという可能性があると思われます。
 そもそも彼らが「唐代」に派遣されたとすると、彼らが「隋」時点で派遣され、「唐」になってから帰国したとすると(たとえば「大業三年」の「遣隋使」やその後の(書紀には記載がないものの)「大業六年」(六一〇年)の「遣隋使」(「隋書煬帝紀」)、帰国まで時間がかかっていないこととなる不審(矛盾)があるほか、途中に「唐」によって「隋」が亡ぼされるという事件を挟んでいることとなり、そのような経験をした彼等の報告とすると、「違和感」の残るものではないでしょうか。
 「唐」の軍事力に対する「危険性」なども報告されて然るべき事と思われるのに対して、一方的に賛美するような内容となっているのは「不自然」であると思われるのです。(「法式が備わっている」という「恵日」の評価も特に「唐」に特定されるものではなく、「法式」が完備されたのは「隋」において画期的であったものですから、この「大唐」が「隋」を指すという考えは的外れとはいえないと思われます。)
 これらの推定からは「惠日」等が帰国した年次についても実際には「隋代」のことではなかったかと考えられることとなり、「大業三年記事」などと同様遡上する可能性が強いと思われます。(10~12年ほど遡上するか)
 そう考えると、「智蔵」についてもこの時彼等と共に派遣されていたという可能性があると思われます。
 「福亮」が「慧灌」から教えを受けたという記事はあっても「智蔵」が教えを受けたという記事がないこともこれを裏付けるものです。
 
 『懐風藻』には「智蔵」の漢詩が二首収められており、その解説には「淡海帝世、遺學唐國。」「太后天皇世、師向本朝」とされています。これらについては従来は「遣唐使」として派遣されたのが「天智朝」であり、帰国は「持統朝」と解釈されており、「王勇氏」もそれを踏襲しているようですが、そのような「天智朝」の「遣唐使」という考えは上で行った考察により否定されると共に、別の理由からも実際上成立が困難な解釈であるともいえると思われます。それは「天智朝」が未だ「戦乱」の収拾が付いてない時期であると考えられるからです。
 後でも述べますが、この時期「唐」との間にやりとりされた人物達は、「戦後処理」のための軍人と官人達であったと考えられるからです。
 「百済を救う役」及びその後の「白村江の戦い」により「唐」に全面敗北を喫した「倭国政権」は、「唐」とその出先機関である「熊津都督府」から派遣されて来倭した「劉徳高」「郭務宋」「百済禰軍」達との間の戦後処理に忙殺されたと思われ、とても「学生」「学問僧」などを派遣できるような政治状況ではなかったと考えるべきであると思われます。
 例えば「井上光貞氏」などは「智蔵は天智四年に入唐し、同一〇年に帰国した」とされており、それは「王勇氏」も追認されているようですが、「劉徳高」の「帰国」は「泰山封禅の儀」に参加させられることとなった「諸将」を率いていたものと考えられます。
 そのようないわば「微妙な役割」の諸将の中に「学問僧」などが入っているとは考えられません。そのようなものは「友好的雰囲気」の中で本来行なわれるものであり、このようなタイミングで派遣することは「あり得ない」と思われます。
 つまり『天智紀』の「唐」への人員派遣に「智蔵」が同行したと言うようなことは考えられないと思われるのです。このことは「智蔵」が派遣されたのはもっと「以前」であると言う事を意味するでしょう。
 また『懐風藻』には「智蔵」について「時呉越之間。有高學尼。法師就尼受業。六七年中。學業頴秀。」と書かれており、「中国」に渡ってから「長安」や「洛陽」ではなく「呉国」の地で学業に励んだらしいことが知られます。これについては彼が「呉人」であったと言うことが重要な要因であることはもちろんですが、これが「隋代」中のことであればまだ「呉越」地方にまだ「高学」の「尼」がいても不思議ではないと思われます。

 また「智蔵」については「僧正」に任命された記事が複数確認できます。

①白鳳元年 智蔵、僧正に補任(「元亨釈書」他)
②天武二年三月 智蔵、僧正に補任(「僧網補任」、『扶桑略記』等)
③大化二年 智蔵、智師・慧輸とともに僧正に任命(『三国仏法伝通縁起』)

 これらの記事は相互に矛盾していると考えられますが、このうち最も信憑性が高いと考えられるのは、(通常とは異なり)実は③の『三国仏法伝通縁起』に記された「大化二年」記事であると思われます。その記事によれば「慧灌僧正」が「乙酉年」(六二五年)に「来倭」したものの「二十一年間」は「未廣講敷」とされ、多くの人間を対象とした講義が行われていなかったものと思われますが、「大化二年丙午年」(六四六年)になって「智蔵」は「智師」「慧輸」とともに僧正に任命され、「初開三論講塲」つまり「講堂」などで多くの仏教関係者に対して「三論」を講義したというわけです。

「三国仏法伝通縁起(中巻)」
「…孝徳天皇御宇大化二年丙午慧師慧輪智蔵三般同時任僧正。是三論講場日之勧賞也。…乙酉歳慧灌来朝。来朝之後二十一年未廣講敷。大化二年丙午初開三論講塲是即仏法傳日本後。経九十五年始講三論。…」

 このような経緯の詳細が「年次」を指定して書かれているとすると、一概にこの記事の「時系列」全体を否定することは出来ないと思われ、この記事の信憑性は高いものと思料します。
 このことと先に考察した「天智朝」以前と言うことを重ねて考えると「淡海帝」と「太后天皇世」という表記については、これは一般に考えるような「天智」と「持統」を指すとは考えられないこととなります。
 上の考察から、「入唐」したのは「六〇〇年代」ではなかったかと想定されると共に、「丙午年」には既に帰国して「三論を講義」しているわけですから、その双方の時期を考えると「淡海帝」とは「天智」ではないし「大后天皇世」とは「持統」ではないと言うこととならざるを得ないものです。(他の史料の中には「斉明朝」という表現をしているものもありますが、いずれにしても「淡海帝」とは「天智」ではないこととなるでしょう。)

 一般的な見方においても、「大后天皇世」というのが「持統」とすると、『天武紀』に「智蔵」が「僧正」に任命されたとか「一切経書写」を監督したという記事群と矛盾するのは避けられないのです。また「大后」という敬称はそれ以前に出ている「淡海『帝』」という敬称と同じ位取りのものであり、この事はこの二つが「対」を成すと見るべき事を示すと思われます。
 (この「大后」については「則天武后」を指すという説もあるようですが、そう考えたところで矛盾が解消されるわけではなく、更に「則天武后」を「大后」と称した例があるのか、彼女について「大后天皇」という敬称が妥当なのかと言うことを考えると、はなはだ成立しにくい仮説であると考えられます。)
 この「大后天皇」という名称に関する「矛盾」を解消するために考え出された苦肉の策が、「天智」と「天武」の間に「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたとしてこれを「大后天皇」とするものです。これは「喜田貞吉氏」「井上光貞氏」と継承された説ですが、これを「王勇氏」も追認されているようです。しかしこのような考えはいかにも苦し紛れであり、ほぼ問題にもならないと思われます。それはどのような史料にも(もちろん『書紀』にも)「倭姫」即位を示唆するものは確認できないからです。これはまさに「そうでも考えないと整合しない」ということから生み出されたものでしかないと考えられます。

 このことから「大后天皇」が誰であるか不明とならざるを得ない訳ですが、「淡海帝」あるいは「淡海先帝」というのが「天智」ではないとすると、「智蔵」が「遣唐使」として派遣されたと言う「六〇〇年代」に「倭国王」であった人物としては『隋書俀国伝』に「倭国王」「阿毎多利思北孤」ないしはその「弟王」である「難波皇子」に擬されている人物以外いないと考えられますから、そのことから「智蔵等」が「六四六年」に「三論を講義」しているということを考え合わせると、「太后天皇世」とは「六四〇年代」を意味することとなるでしょう。この時代に「大后」と称しうるのは「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされる「利歌彌多仏利」の「皇后」以外いないと思料され、彼女が「利歌彌多仏利」に代わって「倭国王」を「称制」ないし「代行」していたと考えると矛盾はなくなると思われます。

 この「六四〇年代」という時代は、ほぼ「九州年号」の「命長年間」に相当する訳であり、この「命長年号」についてはその「語義」から考えても「倭国王」の寿命の延長を祈願した「改元」であることを推定させるものですが、そのことは「利歌彌多仏利」の発病とそれに伴って「倭国王」としての統治行為の継続が困難となったことを推定させるものですが、そう考えた場合「大后天皇世」という表現はその状況に良く「整合する」といえるでしょう。
 それに関連するのが「善光寺」に残る「聖徳太子」からとされる手紙であると思われます。
 その手紙は「助我濟度常護念」というように「私が『誰かを』救うために常に守り祈ることを助けたまえ」という「願文」であると理解すべきであり、またこの「願文」が書かれた年次である「命長七年」は「六四六年」と推定され、そのことから考えて「利歌彌多仏利」の死去と関連していると推定されるわけですから、この差出人とされる「斑鳩厩戸勝鬘」なる人物が救おうとしていたのは「利歌彌多仏利」であると考えられます。また既に触れたようにこの「勝鬘」がいわば「高貴な女性」専用の名前であることを踏まえると(「新羅」の「真徳女王」も諱は「勝蔓」でした)、使者を派遣するなどの強い権力を行使している様を併せ考えた場合、彼女は「利歌彌多仏利」の「皇后」である事が推定され、彼女により行なわれた「助命祈願」文であると推定できるでしょう。
 つまり、この「命長年間」というのは「利歌彌多仏利」が、「阿毎多利思北孤」死去後(六二二年)「倭国王」に即位し統治していたものの、その後健康を害して「皇后」にその統治を委ね、自分は「温泉治療」などを行なうなど回復に努めていたものであり、「称制」あるいは「摂政」の地位にあった期間であると見られます。(『舒明紀』などに見える「有馬温泉」行幸記事の増加がそれを示すのではないかと考えられるものです)


(この項の作成日 2013/04/04、最終更新 2014/09/21)