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「道慈」の年齢について


 ところで、「道茲」(及び「智光」)は「智蔵」から教えを受けたとされています。

「釋智藏、呉國人、福亮法師俗時子也。謁嘉祥受三論微旨。入此土居法隆寺。盛唱空宗。白鳳元年爲僧正。道慈智光、皆藏之徒也。」(『元亨釈書』より)

 「道慈」は「天平十六年」(七四四年)に「七十余歳」で死去したとされていますから、生年はおおよそ「六七〇年付近」となります。
 この時点以後に「智蔵」から「教え」を受けたとして、それが十五歳程度とすると、「六八五年付近」ではまだ「智蔵」は生存していたとしなければならなくなりますから、先の推定と矛盾します。
 これについては「智蔵」が帰国後「法隆寺」にいたという記事とも関係してきます。「法隆寺」は「元興寺」が名称変更されたものであると考えられますが、その名称変更は普通『天武紀』の「六七九年」の年次に書かれている「諸寺定名」の「詔」によると考えられており、これ以降「法隆寺」になったものと考えられます。

「天武八年(六七九年)夏四月辛亥朔乙卯条」「詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

 ところで、この記事の直前には「吉備大宰」とされる「石川王」の死去記事があります。

「天武八年(六七九年)三月辛巳朔己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 ここに出てくる「石川王」については以下の『播磨国風土記』の記事が参考になると思われます。

『播磨国風土記』「揖保郡」の条。
「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」

 ここでは「石川王」が「播磨の国」の「総領」として登場しますが、そこでは「都可村」から「広山里」へ変更になったと書かれており、これは単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」へという変更が成されているようです。これは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられますが、『播磨国風土記』を見ると、「餝磨郡小川里条」や「餝磨郡少宅里条」等に「庚寅年」に「里名」が変更されたという記事があります。
 こちらは実態としては「五十戸」から「里」への変更を示すものと考えられますが、「三野国」木簡の解析によれば「五十戸」から「里」変更は「六八一~二年」付近と考えられるものの、それは一部の国に留まり、全国的にはこの「庚寅年」(六九〇年)という年次での変更となったものと考えられています。そう考えると、「備前国」を含む「吉備」において「大宰」とされていた「石川王」の死去年次がもし「六七九年」の至近の年次であったとすると、それを遡る時期に「五十戸制」から「里制」へ変更されたことを想定しなければならなくなり、それは木簡から窺える時代の状況とは整合しないことは明らかですから、はなはだ想定しにくいこととなります。つまり、この『風土記』の記事の意味するところは、「五十戸制」以前に「村」であったものが「五十戸制」という「規格化」した「行政制度」へ変更・改定された際の記事である可能性が強いと思われ、それを「村」から「里」へという形で描写していると考えられることとなります。

 ところで、『隋書俀国伝』の「開皇二十年記事」はすでに考察したようにそれをさらにさかのぼる時期のものであることが推定されることとなりましたが、これは「五十戸制」の施行時期に強く影響してきます。つまり「隋」から「五十戸制」を学んだと考えられているわけですから、これが「七世紀」の半ばまで遅れたとは考えにくくなるものであり、「隋」から学んだ「制度」を実地に応用したのはもっと早かったという可能性が出てくることとなるでしょう。つまり「五十戸制」が施行された真の時期として「六世紀末」というのも十分考えられることとなります。
 上の『播磨風土記』からは「五十戸制」施行時期に「播磨」に「総領」が設置されていたことを示すものと思われ、そうすると、「石川王」は「六世紀末」に「惣領」であってなおかつ「六七九年」には「吉備大宰」であったこととなり、年齢として全く不合理ということとなります。つまり、彼の死去した年次としては『書紀』に言うような「六七九年」という時期は「遅すぎる」と言うこととならざるを得ないものです。
 考えられるものは「干支一巡」の遡上であり、「六一九年」の死去と言うことも考える必要が出てきます。これについてはその記事の直後に(続けて書かれている)「寺名変更」の「詔」についても同様に移動する可能性を考慮する必要があると言うことを示しますが、さらにそれは「道慈」などの生年についてもやはり干支一巡ほど遡上する可能性が考えられるものであり、「六一〇年」前後の生年が推定され、それであれば「智蔵」より十数歳若い程度となり、師弟関係として不自然ではありません。

 これらのことは「智蔵」について「生年」と考えた「六〇〇年以前」という推定がかなり正確である可能性が高いことを示しますが、そうであるなら『続日本紀』の記事の方に何か大きな問題があることが考えられることとなります。
 後でも述べますが、『続日本紀』と『書紀』の後半部分については約五十年以上、本来の年次から移動されている可能性が高く、それを考慮すると「道慈」についても「八世紀」ではなく「七世紀」に生きた人物と考えられる事となり、「智蔵」との師弟関係も全く問題なくなることとなります。


(この項の作成日 2013/04/04、最終更新 2014/11/29)