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コラム鵲(かささぎ)の渡来と分布


 『推古紀』に「新羅王」から「鵲」(かささぎ)を贈呈された話が書かれています。

「推古五年(五九七年)冬十一月癸酉朔甲子条」「遣吉士磐金於新羅。」

「推古六年(五九八年)夏四月条」「難波吉士磐金至自新羅而獻鵲二隻。乃俾養於難波杜。因以巣枝而産之。」

 つまり「新羅」への使者として派遣された「難波吉士磐金」が帰国の際に「新羅王」から「鵲二隻」をプレゼントされたという訳です。(「俾養」とされていますから、「放し飼い」ではなく、つながれていたと考えられます)
 上の記事の直後には「新羅」から「孔雀一隻」も渡っており、「孔雀」が当時も現在も「東アジア」には生息しておらず、当然日本にもいないものですが、「鵲」が献上(贈呈)されるということは、「倭国」にとって「孔雀」と同等の希少性があると考えられていたことが推定されます。このように「他国」に献上(贈呈)するものは、その「他国」にとって「価値」のあるものである必要がある訳であり、当時「倭国」に「鵲」がいなかった証明でもあると思われます。それは以下のように『魏志倭人伝』にもあるとおりであり、元々「倭国」には以前から「牛馬」や「猫」と並んで「生息」していなかったと思われます。

「…其地無牛馬虎豹羊『鵲』。…」(『魏志倭人伝』)

 「鵲」は世界では北半球の各地に生息しており、イギリスを含むヨーロッパ全域、ロシア平原から中央アジア、そして極東地域やインドシナなど非常に各地で数多く見られますが、日本列島にはいなかった模様です。このため、「新羅王」は「鵲」を贈呈し「歓心」を買おうとしたものでしょう。
 それを「倭国」では「難波社」で飼うこととなったと言う訳であり、そこに巣を作って卵を産んだという訳です。この「難波社」というのは「使者」が「難波吉士」ですから、彼の「本拠」と言うべき地域にあったと考えられます。

 ところで、その「鵲」は現在も「日本中」で見られるというものではありません。ほぼ「佐賀県」を中心とした「福岡」、「熊本」、「長崎」などの「有明海周辺」にしか生息しておらず、このことから「佐賀県」では天然記念物とされていると共に「県」の「鳥」としています。(近年兵庫県や北海道でも僅かに見られるようになったようですが、これについては「船」などによる「海外」からの移入が推測されています)
 また、「鵲」が生息している地域は、「天然記念物」に関する定めの中で、「生息地」として決められており、現在以下の市町村が指定されています。

「福岡県 - 久留米市(旧大善寺町、城島町、三潴町域)、筑後市(旧西牟田町域)、柳川市、大川市、大木町、みやま市(旧瀬高町、山川町域)、福津市」
「佐賀県 - 佐賀市、鳥栖市、多久市、武雄市、鹿島市、小城市、嬉野市、神埼市、吉野ヶ里町、基山町、みやき町、上峰町、大町町、江北町、白石町、太良町」
 
 このような地域に「鵲」がいる理由としては、従来から「豊臣秀吉」の朝鮮と出兵と関連して語られる事が多く、一五九二年から行なわれた朝鮮に出兵した九州の各大名(「鍋島直茂」、「立花宗茂」など)が持ち帰ったという説があります。(県史「佐賀県の歴史」などに書かれています)
 他には、大陸ないしは半島から「飛来した」という説(飛来するミヤマガラスの中に鵲が混じっているのが確認されているそうです)や、元々国内各地にいたがカラスなどとの生存競争に敗れ(カラスは天敵のようです)、「佐賀平野」付近にだけ僅かに生き残ったという説などがありますが、現在の研究では朝鮮半島に生息する「鵲」の「亜種」である可能性が高いことが指摘されており(但し「遺伝子的」にどの程度の距離があるかは不明)、先に見た『推古紀』の記事や『倭人伝』の記事などから見ても、元々国内にいたとは考えにくいと思われ、どこかの時点で「大陸」ないしは「半島」から渡来したと思われます。
 
 説のひとつしてあげられている「秀吉」による朝鮮出兵の際に持ち帰ったものというものは、それが「愛玩用」であったというような記述は信用できないものの、「木綿栽培」の害虫駆除としてのものであったという可能性が指摘されているのが注目されます。つまり、「佐賀」の木綿文化の発展が「慶長年間」に飛躍的に伸びたことなどから考えて、この時「連行」されて日本に連れてこられた「朝鮮人」は「木綿文化」を持ち込んだと考えられるわけですが、この時同時に「鵲」も持ち込んだとするのです。それは「鵲」が「害鳥」を捕食する「益鳥」であったからであると考えられます。
 「綿花」には「ワタアカミムシ」という害虫がつきやすく、これは種子への食害が著しいものであり、これを放置すると収量に大きな影響が出てしまいます。しかし、「鵲」はこのような「虫類」を捕食するのです。

 現在でも「佐賀」では「鵲」のことをを「カチガラス」と称していますが、「半島」では「鵲」を「カチ」と発音することが知られており、共通しています。このような呼称が遺存していることから「佐賀平野」に広く分布する「鵲」はこの「慶長」の時代のものが広がって残ったものという可能性が高いものと思料します。
 そもそも「鵲」は定着性が強く「渡り」も行わないとされ、「留鳥」とされています。このような場合は「迷鳥」にでもならない限り「巣」から遠方へは滅多に行かないものであり、また「天敵」がカラスとされているという関係もあって、「日本」は有数のカラス生息地域ですから、生息地域や餌などがカラスと競合する鳥にとっては繁殖しにくい土地であったと思われます。
 元々国内各地にいたというような説はそのような事情から考えても成立しないと思われ、そうであれば「佐賀平野」という局所的な生息状況は、列島へ渡来した時点の状況がそのまま遺存しているという可能性が高いと思料されます。
 
 これに対し『推古紀』に贈呈された「鵲」はこの「慶長年間」の時代と違い、「国王」から「国王」への贈呈品ですから、容易なことではそれを死なせたりはできないものであり、「俾養」という表現からも「繋がれる」か「ケージ」などに入れて大事に飼われていたものと考えられます。またそれが「卵」を産んだらしい記述からそのまま「難波社」で子孫を増やしていたと考えられますが、その「難波社」もまた「佐賀平野」の一端に存在したのではないかと考えられます。それは「難波」が「肥の国」にあったと考えられるからです。
 それを示すのが『推古紀』に書かれた「百済人」の「肥後」への漂流記事です。(以下のもの)

「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」
「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

「同年五月丁卯朔壬午条」
「徳摩呂等復奏之。則返徳呂。龍二人。而副百濟人等送本國。至于對馬以道人等十一皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。」
 
 これらによれば漂流して「肥後」に来着した「百済人」達について、その目的などを問いただすために派遣されたというのが「難波吉士」であるとされます。このような場合に現場へ行くべき人間はその土地とそこに住む人々に詳しく、またその土地を治めている権力者とも近い立場の人間が任用されて然るべきですから、この時の「難波吉士」や「船史」が、この「肥後」の地と深い関係があったと見るのは当然であり、そうであれば「難波」そのものが「肥後」からそう遠くない場所に存在していたという可能性が考えられる事となるでしょう。

 ところで、『新古今集』には「鵲」を詠った歌があります。

『新古今集』冬(六二〇)
「鵲之 渡瀬瑠橋迩 置久霜乃 白気乎見者 夜曽更仁来 (かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける)」(中納言家持)

 ここでは作者は「大伴家持」とされています。この歌は当時「三十八歳」となっていた「家持」が兵部少輔として難波宮で「防人」の監督を行なう役に就いていた頃の歌とされ、通常中国の「七夕伝説」を題材にしたものとされています。(この時に『万葉集』に収められている「防人歌」や「東歌」の蒐集を行なったという説があります)
 その伝説の中では「鵲」は翼をつらねて天の川にかかる橋となって「織女」と「牽牛」の逢瀬を演出したとされているわけですが、一般の解釈では「家持」は「鵲」を見たことはなく、「伝説」を下敷にしただけであり、この歌も想像上のものであり、技巧的な歌であるとされているようです。
 しかし、そうとは言いきれないのではないでしょうか。なぜなら「家持」は「父」である「大伴旅人」が神亀四年(七二七年)の冬頃、「筑紫大宰帥」に任命された際に、彼も同行しており(当時九歳か)、そこで幼年時代を過ごしているからです。上に見た『推古紀』の「鵲」がその子孫を増やしていたとすると、「肥の国」ないしその至近に生息していたと考えられ、大宰帥に任ぜられた父に随い、筑紫に下向していた「家持」がそれを見たという可能性はあると思われます。
 さらに「七世紀初め」に「倭京」が「筑紫」に建設されたと考えられ、その時点以降「鵲」も「筑紫」へ移されたと言うことも可能性としてはあると思われ、「大宰府」近辺で「鵲」が「俾養」されていたという事も想定されますから、彼がその「鵲」を現実にその目で見たと言うことも充分有り得るのではないかと推察されます。

 ところで、ここでは「季」としては「冬」とされていますから旧暦の「九〜十二月」をさすものであり、その時期の「夜半過ぎ」つまり夜中の「一時」過ぎぐらいの夜空には「織女」も「牽牛」も見えていないと思われます。
 この両星は典型的な夏の星座であり星ですから、「冬」には見えるはずはありません。夜半過ぎに見えるのは「初夏」の頃であり、「四〜六月」頃のこととなります。
 つまりこの歌はそういう意味では「夏」を思い出して歌っていると考えられ、眼前の事実を歌にしたものではないことは確かですが、ここでは「織女」も「牽牛」も歌の中に出てきはしませんから、その意味では「家持」は「嘘」はついていないこととなるでしょう。「天の川」は年通して見えるものですから、それを「鵲」と絡めて歌っただけかも知れません。いずれにしろ、「鵲」を想像上の動物(鳥)として詠ったものではないと考えることは可能と思います。

 これに対し「平安時代」の代表文学である「源氏物語」には「鵲」という「鳥」が登場しますが、「古い絵詞」に描かれている鳥は「鵲」ではなく「アオサギ」ではないかと考えられ、この時点では「紫式部」など「宮廷」の人間は「鵲」がどのような鳥か知らなかったという可能性があります。その「鵲」についての文も「鵲」であるより「アオサギ」の方が似つかわしいものであり、「絵詞」の作者だけでなく「紫式部」本人も「アオサギ」のことを指すと思っていたかも知れません。このことは「平安京」には「鵲」はいなかったというごく常識的な結論が得られます。しかも、そのような鳥が過去に「飼われていた」という理解の仕方もできないと思われ、そもそも「近畿」のどこにも「鵲」はいなかったとしか考えられません。
 「難波」の「森の宮神社」には「鵲」伝承が遺存しており、これは後代の付会と考えるより、「森の宮神社」そのものが元々「肥の国」にあったという可能性を考えるべきではないかと推察されるものです。

 ところで、『播磨風土記』にも「鵲」に関する記事があります。

「近江天皇之世 道守臣 為此国之宰 造官船於此山 令引下 故曰船引 此山住鵲 一云韓国烏 栖枯木之穴 春時見 夏不見生人参細辛 此山之辺 有李五根 至于仲冬 其実不落」「播磨国風土記讃容郡船引山の段」

 この『播磨国風土記』は他の「郡風土記」同様、「元明」の「詔」により撰進されたと見られており、その成立は「八世紀初め」という時期が想定される訳ですが、その中に「鵲」に関する記事があり、しかも「一云韓国烏」と言われているというのですから、この時点で「半島」からの渡来と思われる「鵲」が「播磨」の「讃容郡」にいたことがわかります。
 なお、ここでは「韓国」という表記がされていますが、『古事記』でも「邇々芸命」が「降臨」する場面で「韓国」が登場します。

「此地は『韓国』に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。…」

 この「表記」に使用されている「韓国」も『古事記』の中の表記として考えると、「八世紀」という時代を背景として考えて不自然ではありません。
 つまり、この時点で「播磨」に「鵲」がおり、その鳥は「韓国」と関連づけて捉えられているのです。但し、その由来については書かれていないため不明ですが、上でみたように「朝鮮半島」から「渡って」列島に来ることはほぼないと考えられますから、これらが「半島」からの「人」の移動に伴うものであり、この地に「放鳥」されたものと考えることができると思われます。
 これにやや関連があると見られるのが同じ『風土記』の以下の記事です。

「所以云讃容者 大神妹〓二柱 各競占国之時 妹玉津日女命 捕臥生鹿 割其腹而 種稲其血 仍一夜之間生苗即令取殖 爾大神勅云 汝妹者五月夜殖哉 即去他処故号五月夜郡 神名賛用都比売命 今有讃容町田也 即鹿放山号鹿庭山 々四面有十二谷 皆生鉄也 難波豊前於朝庭始進也 見顕人別部犬其孫等 奉発之初讃容里 事与郡同 土上中」「播磨風土記讃容郡の段」

 つまり、この「鵲」がいたという「讃容郡」では「製鉄」を行なっていたものであり、この「製鉄」に関する知識と技術が「半島」からのものであったという可能性は高いと思われます。(いわゆる「韓鉄」です)彼等が「母国」から「鵲」を持ち込んだと考えられるものですが、またこの「製鉄集団」は「天之日槍」(アメノヒボコ)伝承」とも関連していると考えられます。

 「天之日槍」(「天之日矛」「天之日盾」とも)は『播磨國風土記』では「揖保里」の記事の中に登場し、「葦原志挙乎命」と対決しています。

「所以称粒者 此里依於粒山故因山為名粒丘 所以号粒丘者天日槍命『従韓国度来』到於宇頭川底而乞宿処 於葦原志挙乎命曰 汝為国主欲得吾所宿之処 志挙即許海中 爾時客神以剣攪海水而宿之 主神即畏客神之盛行 而先欲占国 巡上到於粒丘 而〓之於此自口落粒故号粒丘 其丘小石皆能似粒又以杖刺地 即従杖処寒泉涌出 遂通南北 々寒南温生白朮」

 「天之日槍は「新羅」の王子とされ、上の文中でも「従韓国度来」とされ、「新羅」からの渡来であることが明言されているわけですが、それは「日槍」であるとか「日矛」であるというような名前からも(これは「称号」のようなものと推定され、彼を「象徴」するものとして「槍」や「矛」というような「鉄製武器」が掲げられているわけですが)「鉄」に関係した勢力であったことが推定され、それが在地勢力であった「葦原志挙乎命」との争いを制してこの地を制圧したらしい事が推測されるものです。
 これについては『二中歴』の「鏡当」年間の出来事として書かれている内容との近似が注目されます。

「鏡當 四 辛丑(五八一〜五八四)「新羅人来従筑紫至播磨焼之」」

 つまり「筑紫」から「新羅人」が「播磨」へ来て、(何らかの紛争があり)この地を焼いたとされているわけです。
 「播磨」「新羅」「紛争」というように「キーワード」が『播磨風土記』と重なっています。ここに書かれているようにこの時代が「六世紀後半」であったとした場合、「倭国」と「新羅」の関係がかなり悪かったのは事実であり、「百済」と「新羅」との関係の悪化や、「倭国」と関係が深かったと考えられる「任那」について「新羅」との間に「攻防戦」があったことは確かと考えられますが、「新羅」の勢力が「国内深く」まで侵攻していたかどうかまでは定かではないと思われます。ただし、この『二中歴』の記事では「筑紫より」とされ、あたかも「新羅勢力」の「拠点が「筑紫」にあったように書かれているのが気になります。
 この当時「筑紫」は「物部」が制圧していたと考えられ(磐井の乱以来)、彼らと「新羅」との間に深い関係があると見るのはかなり常識的なことです。そう考えると「天之日槍」として表象される「新羅勢力」は、「筑紫」から「鉄原料」の入手と生産を目的とすると同時にそれを「手段」として勢力を「西へ」伸ばしていたと考えられることとなります。そして、『書紀』の記述によれば彼等の侵攻は「明石海峡」で止まるとされており、播磨東部で食い止められたことが推定されますが、その領域は先にこの地に「百済」から移住していた氏族がおり、彼らが中心となって「新羅勢力」と対峙することとなったと見られ、「播磨東部」から「難波」へかけて「百済」からの渡来氏族が多いことと関係があると思われます。
 
 彼ら「新羅系勢力」は「新羅王家」の流れを汲む氏族であり、氏族名が「昔」であったと見られ、この「氏」の「シンボル」が「鵲」であったとされますから、この「播磨」に「鵲」がいるのは不思議ではないと思われることとなります。
 つまり、『播磨風土記』で「韓国鳥」として書かれた「鵲」がいたと言うことは、「昔」氏に関係する人達がその至近に居住していたことを示唆するものであり、それの表象が「天之日槍」伝承であったという可能性があると言えるのではないでしょうか。

 現在でも「加古川付近」では「鵲」が見られると言うことで、その起源としては「韓国船」などに乗ってやってきた新来のものとされているようですが、以前からいたという可能性もゼロではないと思われます。