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十七条憲法について(2)


 また、「六条」で当初成立していたはずの「憲法」が「十七条」に拡大されたのは、「聖徳太子」の筆になると云う考え方もある『維摩経義疏』との関連が指摘されています。
 この『維摩経義疏』の中では「十七」という数字が特別の位置に置かれているようであり、「就第一正明万善是浄土因中凡有十七事」という文章があるように「万善」が即座に「十七」という数字に「直結」しています。これは「陰陽」というものに関係しているようであり、「易経」によれば「陽」が奇数で最大数が「九」、「陰」が偶数で最大値が「八」とされ、合計の「十七」が重要とされ、これが『維摩経義疏』に取り込まれ、更にそれを見て「憲法」に取り込んだという可能性があります。

 この『維摩経義疏』を含む「三経義疏」では、「森博達氏」の研究により明らかにされた『書紀』の中の「倭臭漢文」(いわゆる「β群」)とほぼ同じ傾向の「倭臭」が看取されており、その意味からも『推古紀』ではなくもっと後の時代の「編集」であることが想定されます。
 また、それは『維摩経義疏』が書かれた時期と「憲法」の当初部分に「条文」を付加して「十七箇条」に改めた時期とが接近しているという可能性を考えさせるものであると同時に、これを書き加えたのは『維摩経義疏』を深く読み込んでいた人物であると考えられ、(これを同一人物と推定する考え方もありますが、「憲法」と「維摩経義疏」では文体が異なっており、別の人物の手になるものと見られます)、そう考えると『二中歴』に「東院」と書かれた人物が該当するという可能性もあります。
 
『二中歴』には以下のように書かれています。

「白鳳二三辛酉 対馬採銀観世音寺東院造」

この表記は「天王寺」の場合と比較すると同じ文章構造であることが分かります。

「倭京五戊寅 二年難波天王寺聖徳造」

 このふたつの記事の比較から、「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利」か)に「対応」するのが「東院」という名称であり、この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されていることから、この「東院」についても同様であると考えられます。
 この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも(法王や法皇と同じものと考えられます)、「東院」が「法号」であることを示唆しています。
 「観世音寺」創建に関しては、全ての資料が「天智」の発願とされており、またその創建として「六七〇年付近」が想定されていますから、この「東院」とはいわゆる「天智」を指すものと考えざるをえません。
 『書紀』等には詳しくは書かれていませんが、「天智」も深く仏教に帰依していたものと考えられ、そのために「観世音寺」を創建するという事となったと思料されるものであり、そう考えると「維摩経義疏」など「三経義疏」を「天智」が「参考」にしたというのは蓋然性の高い想定であると思われます。
 この事は「三経義疏」、特に『維摩経疏』を著した人物として「福亮法師」が推定されていることからも言えると思われます。

 「福亮法師」というのは、「法起寺塔露盤銘」(以下のもの)に「聖徳太子」の遺言により「福亮僧正」が「弥勒像」を建てたと書かれているなど「聖徳太子」に関わる人物とも考えられています。

「上宮太子聖徳皇壬午年(旁朱)推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及(入カ)大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年『福亮僧正』、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。」

 さらに、彼は「在家」時代に「熊凝氏」を名乗っていたらしく、そのように記された資料があります。

「釈福亮、姓熊凝氏、本呉国人。来朝出家、从高麗慧灌僧正習禀三論、兼善法相。」『本朝高僧伝(巻一)』

 「聖徳太子」の建てた(建てようとしていた)「寺社」には「熊凝精舎」というものがあり、これは「熊凝村」に計画していたとされるものであり、この「熊凝村」は「福亮」が名乗っていた「熊凝氏」の本拠と見られる場所です。この事から「福亮」と「聖徳太子」が深い関係があり、その「太子」に感化されて「出家」し、僧侶になったとするのは不思議ではありません。
 その彼は「呉僧」であるとする資料が多く、「呉」つまり「南朝」の領域からの「渡来人」と考えられますから、『維摩経疏』を含む「三経義疏」が「南朝仏教」に準拠している事とはつながるとも言えます。ただし、『維摩経疏』が「倭臭漢文」とされることとは一見「齟齬」するようですが、森氏が「中国式」と呼んでいるのは「唐代北方音」であることを考えると、「南朝」の領域の出身とされる「福亮法師」の手になるものという可能性も捨てきれなくなるものです。(ただし日本滞在がかなり長期に亘ったことは確かですから、母国語を「忘れた」と言うことはないとは言えませんが)
 その彼は「元興寺」で「僧侶」になったとされますが、『扶桑略記』には「呉僧元興寺福亮法師」に「内臣鎌子」が『維摩経』の「講説」を請うて拝聴した話などがあります。(同様の記事は『日本帝皇年代記』にもあります)

「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」『扶桑略記』

「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」『日本帝皇年代記』

 また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。

「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」『「類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日

 ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「私財」を投じていたことが窺えます。ここでいう「講説」は「福亮法師」による『維摩経』講説を示すと思われます。
 つまり、「鎌子」は「福亮」から『維摩経』講説を拝したという訳ですが、この時「福亮法師」が講説した内容は『維摩経疏』に拠っていたという可能性はあると思われます。
 「講説」は「読経」するというより「経」の「奥義」を説明するものですから、少なくとも彼の「原稿」として『維摩経疏』のようなものがあったと考えるのは不自然ではありません。
 つまり、「福亮」本人あるいは彼の周辺の人物(「門下」の誰かなど)により『維摩経疏』が書かれたと考えられ、そうするとこれらの記事から「天智」につながる流れが看取されます。
 この講説の話を聞き及んだ「天智」が、それに使用された『維摩経疏』を見ることとなり、それに「感化」され、「憲法」の書き換えを行ったとするのは、ある意味「一連の流れ」であるように感ぜられ、「鎌子」と「天智」の関係を考えると、想定の内容には「無理」がないと思われます。

 またこのような「重要な」条文を書き加えるというようなことは、一介の官吏にできることではなく、必ず「倭国王」ないし「皇太子」的存在の人物の手になるものと考えるべきであり、その意味でも「東院」すなわち「天智」の事業であったことが強く推定されるものです。
 それを示すものと思われる記事が『藤氏家伝』にあります。

「(摂政)七年…
先此、帝令大臣撰述礼儀。刊定律令。通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、略為条例。一崇敬愛之道、同止奸邪之路。理慎折獄、徳洽好生。至於周之三典、漢之九篇。無以加焉。」『藤氏家伝』

 この文章はまず「撰述礼儀」といい、また「刊定律令」とも言っています。「刊定律令」の「律令」とは「近江令」のことともみられますが、その前の「撰述礼儀」とは「近江令」とは別のものであると考えられます。
 ここで言う「礼儀」については、いわゆる「律令」とは性質の異なるものであり、そこに書かれた「天人之性」「朝廷之訓」という言い方からも分かるように、「自分」も含めた朝廷の官人達の「行動規範」を示したものと考えられます。また「損益旧章、略為条例」とされていますから、既に(書かれたものとして)「法」があったことを示すと共にそれを「損益」している事などから、「改定」したというように読めます。
 また、「最後」に書かれている「周之三典、漢之九篇」とは、「周礼」にある「軽中重の三典」及び「漢の高祖」の定めた「九章律」の両者を指すと考えられますから、これについては「近江令」との関連が深いとは考えられますが、(このことから「近江令」の内容が「律」主体のものであった可能性が示唆されるものです)これを除くと、「律令」と言うより、「統治」するもののあるべき「道徳律」を示したものと思え、「憲法」につながる内容を含んでいると考えられます。
 『書紀』でも『天智紀』に「朝廷の礼儀」を定めたという意味の記事が見えます。

「(天智)九年(六七〇年)春正月乙亥朔戊子条」「宣朝庭之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄妖僞。」

 この記事も、「撰述礼儀」というものと同様と思われ、これは「憲法」を改定した(十七箇条に付加し変更した)とを意味するものと考えることも出来るものであり、「近江令」を制定した際に併せて行なわれた改制であったことが示すものと思われます。(このことはまた「近江令」の実在性についても、肯定的に捉えざるを得ないことを示唆します)


(この項の作成日 2012/09/22、最終更新 2014/08/05)