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十七条憲法について(1)


 「聖徳太子」が作ったという「十七条憲法」というものがあります。
(以下その全文)

「(推古)十二年(六〇四年)春正月戊戌朔。始賜冠位於諸臣。各有差。
夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇作憲法十七條。一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也。則四生之終歸。萬國之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤惡。能教從之。其不歸三寶。何以直枉。三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壌耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。四曰。群卿百寮、以禮爲本。其治民之本。要在乎禮。上不禮而下非齊。下無禮以必有罪。是以群臣有禮。位次不亂。百姓有禮。國家自治。五曰絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽■。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。六曰。懲惡勸善。古之良典。是以無匿人善。見惡必匡。其諂詐者。則爲覆國家之利器。爲絶人民之鋒劔。亦侫媚者。對上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人。皆無忠於君。無仁於民。是大亂之本也。七曰。人各有任。掌宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。奸者有官。禍亂則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久。社稷勿危。故古聖王爲官以求人。爲人不求官。八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。■能可定。相共賢愚如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。十一曰明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。十二曰。國司。國造。勿歛百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民以王爲主。所任官司。皆是王臣。何敢與公賦歛百姓。十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事然得知之日。和如曾識。其以非與聞。勿防公務。十四曰。群臣百寮。無有嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬之患。不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡夫人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制。害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。十七曰。夫事不可獨斷必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辭則得理。」

 この「憲法」は「正月」に諸臣に対して「冠位」を「賜」した後に、その「冠位」を授かった人等「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものと見られていますが、他方『懐風藻』の記述によれば「聖徳太子」の所業とされる中には「十七条憲法」は含まれておらず、「冠位」と「礼儀」の制定だけが言及されています。「十七条憲法」はその後の「淡海先帝」の事業として描かれており、その意味では同一人物の手になるものかはやや曖昧といえ、この時代の倭国王とされる「阿毎多利思北孤」の事業なのかは確定的ではありません。
 ただし、このようなものは「我が国」(倭国)で始めて出されたものであり、「記念碑的」存在であることは確かです。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」の継承時にはこの「憲法」を守ることを誓う儀式が行なわれたとして不思議ではありません。

 「森博達氏」によるとこの「憲法」は「倭臭」つまり、日本人が「不正確」な「慣用的」用法により書いたと思われる部分と、本格的な漢文とに分かれているとされています。
 しかし、この「六世紀末」から「七世紀初め」という時代においては「漢文」に対して「大和言葉」の影響による「慣用的用法」が成立していたとは考えられず、「倭臭」的部分は「八世紀以降」等かなり後代の潤色によるものと推定されています。
 この「倭臭」漢文の部分を除くと、「本格(正格)漢文」と考えられる部分は計六条あるとされており、それによれば以下が「原型」であったと考えられます。

一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。
五曰。絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽■。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。
十一曰。明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 上の各章はいずれも「民」を思う気持ちが良く出ており、統治する側が「民」に心を寄せることを求めていると思われます。またこの「憲法」が定められたことにより、「諸国」間での統治に対する姿勢の違いなどを払拭しようとしたとも言えます。それは「国家」(公)というものと「人民」の関係を国内で統一的なものにしようという意志が働いているとも考えられるからです。
 そして、これが定められた「冠位制」に依拠していることも重要です。「諸国」の「王」達も「冠位」を与えられ、「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められたことになり、「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと思われ、その一環として、「憲法」を制定し、これを守るべきものとして(諸国の王も含めた)「執事群卿」に周知させると言うこととしたと考えられるものです。
 これはこの時の「倭国王」の「国家」体制構築とその「統治」に対する姿勢を良く表しているものであり、それが「法華経」という「大乗」仏教の教えにより多くの人を救いたいと願う気持ちの現れであると同時に「国家」(公)という観念の構築とその具体化としての統治行為の実現に「利用」したとも言えると思われます。
 
上で見るようにこの「十七条憲法」の「原初」の状態は「六条」であったらしいと考えられるわけですが、これは「北周」の「大統十年」(五四四年)に「六条詔書」というものが出され、そこでは「地方官吏」に対して「清心」「敦教化」「尽地利」「擢賢良」「恤獄訟」「均賦役」という六つの項目を実行するよう決めたとされることに影響されたと見ることができるでしょう。これは一種の地方官僚に対する倫理規定であったと考えられ、「宰相」であった「宇文泰」はこれを「誦習」させたと言われ、国家統治の重要なものとして位置づけていたことが分かります。
 またこの「六条詔書」がそれ以前に出された「大統式」(中興永式)という「律令」をベースにしていることもまた重要でしょう。つまり人々に対しての「律令」があって、それと対を成す関係のものとして「統治者」に対する「六条詔書」があるものであり、「地方官吏」に対して「律令」と共に「詔書」でその徹底を示していると考えられます。
 このことは「倭国」においても「憲法」の前提として「律令」が公布されていたという可能性を考えるべきものであり、それは「憲法」の中でも「訴訟」「賞罰」「公事」などの用語に垣間見える形で表されていると思われます。

 『書紀』に従えば「冠位制」の制定、つまり「律令」の制定は「七世紀」に入ってからの事となりますが、他方『隋書俀国伝』によると、「隋」に至って始めて「冠位」が制定されたという趣旨の文章があり、これが「隋」成立時点付近のことと解釈した場合、『書紀』の紀年とは「矛盾」が生じます。これについてはすでに考察したように「遣隋使」そのものが「隋初」に派遣されていたらしく、そう考えるとこの「憲法」と「冠位制」の実施に関する『書紀』の記事も「十年以上」ずれているという可能性があることとなります。そう考えた場合「六〇三年」とされる「冠位制定」は本来「五九〇年付近」あるいはもっと以前の出来事であったこととなりますが、それは「端正」改元とも時期的に整合しており、この「改元」の動機というものと「冠位制」などの発令がシンクロしている可能性が高いと思われます。(ただし、その翌年とされる「憲法制定」が、『懐風藻』に言うように「冠位制定」とは別の人物の手になるものとすると、『書紀』に表された年次で妥当なのかも知れません。このあたりはまだ不明と言えるでしょう。)


(この項の作成日 2012/09/22、最終更新 2018/04/22)