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「放生」と「孝徳」


 「孝徳」については『書紀』には仏教を偏愛したとされ、「貶されて」います。

(『孝徳紀』冒頭記事)
「…尊佛法輕神道。■生國魂社樹之類是也。…」

 このように「國魂神社」の「樹木」(神木か)を切ったとされ、「神道」を軽んじたとされる「孝徳」ですが、それと反するように彼の時代とされる「白雉年間」に創建されたという多数の神社があることが明らかになっています。
 「古田史学の会」のホームページには「九州年号」資料が収集されていますが、それによれば「白雉年間」に(主に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が多く見られます。
 このように「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が東国を含め多数に上るわけですが、その「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。
 また、伊勢神宮に伝わる「神道五部書」には「天照大神」以前には「ウカノヒコ」を祀っていたと書かれているようですが、この「ウカノヒコ」と「宇迦之御魂神」や「保食神」はほぼ同一神と考えられます。つまり、「伊勢神宮」でも、当初は「天照大神」ではなく、「宇迦之御魂神」、「保食神」を祭っていたということになります。また「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」なども同一神とも言われますが、さらに「廣瀬大忌神」とも同一神であるともされていることが注意されます。
 これらに深く関係していると考えられるのが、『天武紀』にある以下の記事です。

「(天武)十年(六八一年)…
己丑。詔畿内及諸國。修理天社地社神宮。」

 ここには「天社」「地社」「神宮」という三通りのタイプの神社について言及がありますが、「天社」というのが「天神」を祀る「本社」であり、これは「畿内」つまり「倭国王」の「直下」の地域に存在していたものと思われるものです。この「天社」は彼らの信仰の「根源」とも言えるものであると思われ、非常に重要な扱いを受けていたと考えられます。そのため「改新の詔」においても「天神」の「命じるままに統治する」という言い方をしています。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。…」

 このように自らの統治の根源として「天神」が出てくるわけであり、またそれを表明することで周囲の「支持」あるいは「承服」が得られるとしていることも「国内」(諸国も含め)におけるこの「天神」という存在の持つ「権威」の高さが知られます。
 また、「神宮」は「伊勢」の他「鹿島」「香取」「石上」にだけ使用される名称であることからこれらは「倭国王権」にとって特に意味のある「神社」であることが了解されるものですが、これらはその「天社」(天神社)から「神分け」された「分社」を云うと思われ、さらに「地社」はその「神宮」から「分社」したもので、「諸国」に存在していたものをいうと考えられます。つまり、「倭国内」の神社間では「序列」が構成されていたことを推定させるものであり、この「諸国」の「地社」が(「末端」として)「白雉年間」に多数創建された「東国」などの神社を指すと思われるものです。
 この記事は「正木氏」も言われるように、単なる建物の修理というようなものではなく、それまで仏教に偏していた倭国の「宗教的」な方向を「神道」にいわば「戻す」形となったと思われ、「常色の宗教改革」と彼により名付けられた所以であると思われます。
 この時点における、「神社改革」の「目玉」(主たる要点)は、「天社」(「伊勢神宮」)を「定め」さらにその祭神である「宇迦之御魂神」を全国(特に東国)に拡大し、「伊勢神宮」を頂点とする「国家祭祀」体系を形作ることにあったものと考えられ、それを「難波副都」という「近畿」における強力な前進基地としての存在と一体化することにより、東国経営を強化する策の一環であったと思料されます。
 しかし『孝徳紀』には実際には(それに反するように)「仏教奨励」と考えられる記事(以下)があります。

「(六四六年)大化二年秋八月丙申朔癸卯。遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百濟明王奉傅佛法於我大倭。是時。羣臣倶不欲傳。而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世。蘇我馬子宿禰追遵考父之風。猶重能仁世之教。而餘臣不信。此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。朕更復思崇正教光啓大猷。故以沙門狛大法師福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能教導衆僧。修行釋教要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。」

 この記事では「寺院」を「造る」ようにという「指示・命令」ともいえるような「詔」を出していますが、このような内容は明らかに多数の「神社創建」などという「神道」を重視した事績と全く整合しない内容であり、「白雉年間」の「倭国王」と、この『書紀』が云う「神道を軽んじた」という「孝徳」とは全く整合するものではなく、この両者は「別人」と考えるのが相当でしょう。

 また「難波宮殿」の下層域から「祭祀」に使用したと推定される「馬」の骨が多数出ています。ここでは「宮殿」ないしは「宮域」を建設するにあたり「地鎮祭」のような儀式が行なわれた事を示すと考えられますが、このような「生け贄」を伴う「儀式」を仏教を重んじた人物が行なう(あるいは行なわせた)とはとても思えません。
仏教には「放生」という考え方があります。そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。ただし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めということとされています。この時点では「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなり、それは、儀式において「犠牲」の血を猷り、肉を共食するということを止める事を意味しますから、当然それまでの「祭祀儀礼」の伝統に反することとなり、そのため公卿達から強い異議・反対の意思表示があったとされています。
 このように「伝統」と相反する行動となった「不殺生」ですが、この「不殺生」は即座に「放生」に結びつくわけであり、逆に言うと「生贄」という考え方は、それと「対極」にあると言っていいものといえます。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れており、「梁の武帝」の例を見ても分かるように「両立」は困難なのです。
 このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であり、それは『隋書俀国伝』に「敬佛法」という表現と共に、「巫覡」を「最も」信じているという表現(「知卜筮、尤信巫覡。)があることからも、倭国の伝統であったことがわかります。
 このように「命」を重視するのが仏教の本質であると思われますし、それは古代にあってもと言うより、古代こそそのような根本教義に忠実であったといえるものですから、このことからもこの「難波宮殿」を建設した「倭国王」は仏教を重視した人物であるとは考えられないといえることとなると思われます。 
 また逆にいうと「仏式」を軽視し「神道」を重んじた人物は「廣瀬・龍田」という「神式」による「祖霊信仰」を行う事に「変更」した「倭国王」という存在と重なるものであり、またそれは「白雉」年間の「倭国王」に重なるものであるともいえます。

 このことは同時に、その『天武紀』『持統紀』の記事が「孝徳朝期」であることを示し、そのことから「孝徳朝期」の記事の「本来の位置」は別の時期に移動することとなると考えられることとなります。 実際に精査すると、かなりの『孝徳紀』の記事が「推古朝期」に遡上して考えるべきものではないかと考えられることを示しているようです。(ただし、一部は逆に『文武紀』に移動されていると見られるものもあるようです)
 つまり、『推古紀』の「倭国王」と「孝徳」という人物の示す特徴が共通していることとなり、同一人物という可能性があると思われます。そして、それを示すのが『隋書たい国伝』の記事でしょう。そこでは「敬仏法」とされると共に「隋皇帝」に対し「菩薩天子」と呼びかけまた「(結)跏趺坐」しているとされます。この「(結)跏趺坐」は仏教に帰依した者の正式な「姿勢」であり、この用語が使用されていることからも、この人物が熱心な信者であることがわかります。

「大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。…」

「開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩?彌 遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言 倭王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。」

 この時代は正に「推古朝」紀に該当していますが、また上の「仏教奨励の詔」でも「推古朝期」の事跡が紹介されており、それもこの「倭国王」が「推古朝期」の人物であるという示唆を与えるものです。


(この項の作成日 2013/02/09、最終更新 2015/01/20)