「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」からでしたし、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。それ以後も「一九四〇年」になってから近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するなど「近畿」とその周辺に「集中的」に出土しています。
この事は「半島」から流入した(貢上された)「銀銭」が「難波」に集積されたことを窺わせるものであり、それは「難波」に「大蔵」があったことを推測させます。もしこれが「近畿」から遠いところで「製造」される或いは「収蔵」されていたのなら、(たとえば「筑紫」など)、「近畿」だけではなく、もっと「九州」を中心に広範囲に発見されてしかるべきであると思われますが、そうではないのですから、「無文銀銭」は発見地を含む地域である「近畿」に「集積」され、「収蔵」されていたと考えるのが正しいと思われます。
この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、またその後(六一九年)『二中歴』に「難波天王寺聖徳造」という記事があることからも推察されるように「利歌彌多仏利」により「現在地」に移築されたものと考えられることから、「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」が「倭国王権」の「大蔵」に収蔵され、また使用される起点となっていたことは確実と考えられます。
既に述べたように、この「無文銀銭」が本来「半島」(新羅か)から「貢上」されたものであり、「倭国」の意志で製造されたものではないらしいことが推定されますから、その意味ではこの「無文銀銭」が一概に「王権」の意思により「銭貨」として「発行」されたとは言いにくいこととなりますが、少なくともこの「倭国王権」はこの「銀」に「銀銭」として(つまり「貨幣」として)の機能を持たせたことは確実であり、「銭貨」として扱うことはそれほど間違いではないと思われます。
このような「銭貨」の発行は(特に古代においては)「国家統治権」を「象徴する行為」と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われた(あるいはそう周囲から見られた)のは当然であると思われます。
後の「養老律」においても「銀銭」について「私鋳」を禁ずる定めがあり、これに違反した場合には「極刑」を以て臨むとされていることからも「鋳銭という行為」(貨幣発行権)が「国家」の専管事項であるという強い「国家意思」の表れであると考えられます。しかもそれが特に「銀銭」に限った表現であるのは「私鋳」によって得られる「利益」が大きいからと思われます。「銅銭」と違って「銀銭」の私鋳には多大な「利益」が得られるものと推定され、それを禁止されるべき実利的理由もあったものと見られます。私鋳された「銀銭」は同じ「一分」でありながら「重量」が欠損している(軽い)わけであり、その差額が利益となるわけです。この事は「銀銭」というものが「秤量貨幣」という性格よりも「計数貨幣」としての側面の方が主たるものであったことが窺えるものです。「秤量」するとするなら「重量」に欠損があればすぐわかってしまいますから、「私鋳」や「偽金」を作る意味がないわけであり、「計数」つまり枚数を数える事となった時点以降「私鋳」して軽量化するものが出現したということが考えられます。
そう考えると、「無文銀銭」に「小片」が付着しているのは、流通の過程で削られたり、摩耗したりして軽量化してしまったものを修正するためという説もありますが、そのような修正は「秤量」されていた場合に有効であったことを示しますから、「計数貨幣」として扱われていたと想定すると、重量を修正する意味がないこととなるでしょう。つまり、「無文銀銭」はその当初から「計数貨幣」の性格が強かったと考えられます。(そもそも「新羅」で「銀銭状」のものとして製造している意図も「計量の必要がない」という利点を強調するためであったと思われ、受領した「倭国」や「唐」ではこれを「銭貨」と見なして使用したであろう事が推察されます。)
これが「貨幣」ではなくただの「銀地金」(インゴット)であったとすると、当然「秤量」されるわけですが、「貨幣(銀銭)」となると「枚数」を数える事となりますから、(逆に)一枚一枚の重さや大きさは一定である必要があります。「小片」付着は既に述べたように「開通元寶」への「一斉移行」の産物とみられるわけですから、「開通元寶」と同様「計数貨幣」でなければ不審といえるでしょう。逆に言うと「小片」が付加されているということから、これが「貨幣」として認識され、また使用されていたものと推定できることとなります。
「難波」は上で見たように「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、そこから大量に「無文銀銭」が出土するということと、彼が「謡曲」の「岩船」の中で示されているように(※)「市」を開き、「隋」などと「交易」を行うとしていることはつながっていることと考えられ、そのために使用したものが「無文銀銭」であったと推量します。
ところで、このように「市」を開き、交易を活発化させることが目的としていたものは、「国庫」収入の増加であったと思われます。売り上げマージンと場所代とも言うべき手数料を納めさせるものであったと思われますが、その主たる用途としては「古代官道」整備費用に充てようというものであったものではないでしょうか。
この時代「国家」が直接人民を管理しようとしていた形跡があり、彼等から相当程度の基礎的収入(租・庸・調)があったと考えられますが、「官道」というインフラ整備には多大に費用がかかるものであり、それを賄うために商業活動を利用しようとしたと推定することができると考えられます。
商品を中国から買い付けるために「銀銭」を「利用」し、それで購入した物品を高額で国内で販売するというわけです。中国から渡来したと言うだけで高値が付いたと考えられ、それを売買することで国家に一部が収入として入るようなシステムを考えたとすると、かなり効率的であったと見られます。
そもそもこの「無文銀銭」は半島の国(新羅か)から「貢上」されたものと思われますから、本来無視できないはずの製造に関わるコストが全くなく、利益率100%と言って良い物ですので、国家にとってははなはだ「おいしい」交換物であったと思われます。
(※)
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/12)