ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「無文銀銭」について:

「銀」に対する認識と「無文銀銭」


 中国においても「銀」(及び「金」も)は基本的に「貴金属」であり、社会の隅々まで流通するような「貨幣」ではありませんでした。
 「前漢」の「武帝」や、「新」の「王もう」の時に一時「貨幣」として使用されたようですが、広く流通するには至らず、「金」と共に「貴金属」としての扱いとされ、「宝物」「美術品」「装飾品」としての機能しかなかったものです。
 一般には「唐」の時代以降は「シルクロード」から「銀」が流入し、また国内でも「銀」が産出するようになり、次第に「貨幣」として使用されるようになったとされます。
 「唐」に「西域」から「銀」が流入する以前は「朝鮮半島」からの「金」「銀」が大部分であったと思われ、「高麗」(高句麗)や「新羅」などから貢上されていたものと思料されます。(彼等は封国であり、毎年貢ぎ物を差し出していたものであり、「金銀」がその中心であったものと思われます)「銀」(金も)の「価値」は「唐国内」の多くの人々(社会の各層)から認められていましたが、いわゆる「通貨」としての「流動性」は王権に近い一握りの層だけで活発であり、それ以外では「貴重品」として極端に「流動性」が悪かったと言えます。
 そもそも「貢上」された「銀(銀地金)」は「王権」に対して貢上されたものです。基本的には「王権」の至近にしか所有するものがいないはずですが、その「貴金属」としての性格上多様な使用法があったものであり、「物品購入」はもちろん、部下などへの「賞賜」、「贈与」「プレゼント」「謝礼」「布施」の類から果ては「賄賂」に至るまで色々な用途に使用されたものと見られますが、その「希少」な金属という性格上「社会全体」を環流するという性質のものでなく、一度「王権」から出た「銀地金」はなかなか「王権」へ戻ってくるということはなかったと思われます。
 これは「倭国」においても全く同様であったものと見られ、「銀銭」を手中にした人々はなかなかそれを手放すと言うことがなかったものではないかと思われます。つまり「蓄財」という形を取りやすい性質を持っていたと思われるわけであり、「王権」から流出した場合この「無文銀銭」はなかなか「王権」に環流することがなく、そのため「富本銭」とそれに続く「和同銭」を鋳造することにより「取って代わる」試みが続けられたとみられます。しかし「八世紀」に入ると「銀銭禁止令」が出ることとなります。

『続日本紀』「和銅二年(七〇九年)八月甲申朔乙酉 廢銀錢 一行銅錢」

 この「詔」は『天武紀』の「銀銭使用禁止令」を彷彿とさせるものです(その時は三日で撤回します)。
 『天武紀』の場合の「銀銭使用禁止令」は「銅銭」(この場合「富本銭」と思われます)と「無文銀銭」の「等価交換」を試みた事を意味すると推定され、それと同様この「和銅年間」でも「和同銅銭」と「無文銀銭」の「等価交換」を試みたものと推察します。そして、それは「新王朝」としての「新貨幣」を流通させようという意図と共に「無文銀銭」を国家に回収しようという試みでもあったと推量します。
 そのためにまず「和銅銀銭」を鋳造しており、これを「無文銀銭」と「等価交換」させようと試みたものでしょう。(「王権」としては「無文銀銭」と違ってこの「和同銀銭」には製造コストがかかっていますから、「やや軽い」重量ではあったものの、これを「無文銀銭」との間で「一対一」の交換を目論んだものと見られます。
 その後「廃銀銭」令が出されるなどの「銀銭」駆逐策が行われますが、「銀」(これは「無文銀銭」であると推察される)は取引の主役として「市中」には流通していたと考えられます。
 「和同銅銭」は当初「銀銭(これは無文銀銭)一枚」に対して「十枚」という交換率が設定されたものと見られますが、(諸国からの役丁への賃金支払いの際の「布」と「銅銭」の交換率の数字からの推論)それに関して重要なのが「藤原宮遺跡」から発掘された「新型」の「富本銭」です。
 この「富本銭」はそれまで発見された「富本銭」よりのかなり重く、デザイン等も洗練されておらず、「初期型」と思えるものでした。これと「初期型」つまり「小片」が付着していないタイプの「富本銭」とはほぼ同重量となり、そのことから「双方の価値の比」は「枚数比」となることとなり、これに「八世紀」の値を適用するとした場合「一対十」になり、これは上に推定した当初の「銀銭」と「銅銭」の交換率に等しいものです。(ただし、それは「支払い手段における公定交換率」であり、「公開」された「市場」などでの交換率ではありません。民間での自由な取引の際にはもっと銅銭価値が低かったと考えられ、それを「公式」に認めたのが以下の記事であると思われます。)
 
『続日本紀』「養老五年(七二一年)春正月戊申朔(中略)丙子 令天下百姓 以銀錢一當銅錢廿五 以銀一兩當一百錢 行用之」

 これは市中に出回っている「銀銭」の存在とその使用を追認し、「銅銭」との換算比率を設定した(公定した)もののようです。しかもこの文章からは、ここで言う「銀銭」が「無文銀銭」であると判断できます。つまり、この文章では結局「銀銭」は一枚が「四分の一両」の「重量」がある、といっていることとなり、この基準に合致するのは「無文銀銭」の方であって「和同銀銭」ではありません。
 前述したように「無文銀銭」は「小片」付きで約10グラム程度あり、「唐」の「一両」である「38グラム」の四分の一に非常に近いものであるのに対して、重量がかなり重いとされる「和同銀銭」の初期タイプでさえもせいぜい7グラム弱ですから、これは「銀銭一枚が四分の一両である」、という上の文章に合致しないのです。
 つまり、この時期に至ってもなお、「流通貨幣」としての主役は「無文銀銭」であったという事と考えられ、この「銀銭」が広く行き渡っていたことが知られます。

 その後さらに「銅銭」の実勢価値が下落します。「新日本国王朝」はそのため再度「銀銭」と「和同銅銭」の交換比率を変更し「銀一両に対し銭二百銭」として前年の二分の一に下げざるを得なくなるのです。(これについては「浅野氏」の言うように新「度量衡」制度を本格的に導入した結果起きた「銅銭」についての一種の「インフレ」と考えられます)

『続日本紀』「養老六年(七二二年)二月壬申朔戊戌 詔曰 『市頭交易,元來定價 關市令十二市司准貨物時價為三等 關市令十三官與私交關以物為價者准中估價 比日以後多不如法因茲本源欲斷 則有廢業之家末流無禁 則有姦非之侶更量用錢之便宜欲得百姓之潤利 「其用二百錢當一兩銀.」(以下略)』」

 そして、このように「銅」の実勢が下がっていくに連れ、「銀」の価値が相対的に上がった結果となり、「銀」は「流通貨幣」と言うより文字通り「貴金属」となったと考えられます。「貴金属」となれば、「財産の保全」というような用途の方が主たるものとなり、各自の「金庫」から出る機会は激減するでしょう。このようにして、「無文銀銭」は姿を消していったと考えられます。

 江戸時代以来の「銭貨研究」は、「無文銀銭」(及び「富本銭」)の扱いに苦慮し、考古学的発掘の成果により「無文銀銭」と「富本銭」が「銭貨」であり、流通していた、と言う視点が獲得される現代まで(一部の研究者はいまだに)、「貨幣」としての正当な位置を与えずに来ていたわけです。
 この最大の原因は日本列島において「古代国家」といえるものが唯一「近畿天皇家」だけであったという「幻想」に引きずられたためであり、「和銅銭」発行以前の「国家観」の形成が「不完全」であったためと思料されるものです。
 これら「無文銀銭」と「富本銭」という「和銅銭」以前の「銭貨」については、「近畿天皇家」以外の、「近畿天皇家」に先在する「公権力」を想定することによって初めて整合的な理解が可能であると考えられるものです。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2013/08/15)