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「無文銀銭」の製造について


 この「銀銭」の材料ないしは「銀銭」そのものの入手方法や産地については未だ確定的な事が明らかになっていないわけですが、当初「国内製造」と深い検討をせずに考えていましたが、現在ではそれがどのような形にせよ、「半島」からの流入と考えています。
 なぜなら「銀」は「国内」では「七世紀半ば」以降の産出と思われ、「隋・初唐」時代に「銀銭」が製造されていたとは考えられないこととなります。当然半島からの入手以外ないわけですが、それがどのような形のものであったかは不明です。ただし、「無文銀銭」は「鋳型」(半鋳型)による製造であったと考えられ、「唐」が「開通元寶」を鋳造して以降、それに「小片」を貼り付けて済ませているらしいことから、新しく「鋳型」を作る技術が(人手も含め)国内になかったという可能性があると思われます。

 半島からの「金銀」の入手に関しては「百済」と友好関係があった時期に、「百済」を通じて「銀」を入手したという可能性や「高句麗」に「銀山」という城があったことから(『三国史記』による)「銀」の産地としては「高句麗」からの入手という考え方も有力であるとは考えられます。
 また、『書紀』では「金」「銀」については「高麗」以外には「新羅」からの献上記事があり、「新羅」はその後「文武王」時代に「唐」に対して多額の「違約金」とでもいうべきものを「金銀銅」などの「銭貨状」のもので支払った記録があり、当時「新羅」国内に「銭貨状」の銀が製造されていたらしいことが窺えます。

「(文武王)十二年九月…伏惟 皇帝陛下 明同日月 容光並蒙曲 コ合乾坤 動植咸被亭毒 好生之コ 遠被昆蟲 惡殺之仁 爰流翔泳 儻降服捨之宥賜全腰領之恩 雖死之年猶生之日 非所希冀敢陳所懷 不勝伏劒之志 謹遣原川等拜表謝罪 伏聽勅旨某頓首頓首死罪死罪 兼進貢銀三萬三千五百分 銅三萬三千分 針四百枚 牛黄百二十分 金百二十分 四十升布六匹 三十升布六十匹」(「三国史記新羅本紀文武王」より)

 後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されているものがあり、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を「鋳つぶした」ものという可能性が強いものと考えられますから、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いものと推定されます。
 また、「近江崇福寺」の創建時点の「六六八年」時点程度が「無文銀銭」の製造年次の「下限」という考えもあるようですが、それではその時点で前述したような「小片」をわざわざ「付加」している状況が説明できないと考えられます。
 「初唐」時期のような「五銖銭」から「開元通宝」へ基準貨幣を切替えざるを得ない理由と動機が、この年次付近には見出せないわけであり、そのような仮定や推定が無効であることを示しています。(そのことは「崇福寺」という寺院に関することも大きな疑惑の中にあることが推察されるものです(後述))
 「今村啓爾氏」も「無文銀銭」について『ここで改めて注目すべきは「両」の四分の一である「分」という単位とそれに相当する重量の無文銀銭が共に天武朝あるいはそれ以前から存在したという事実である。』と述べておられ、「無文銀銭」について淵源がかなり古いという認識でおられるようです。(※)
 「銀」の入手が「新羅」からという可能性があるのは、『書紀』の記述に「大幅」な「年次移動」がある可能性からもいえます。「六七五年」に「新羅王子」「忠元」が来倭したという記事が『書紀』にありますが、この「六七五年」という年次は「干支一巡」遡上する可能性が高く、「七世紀前半」の「六一五年付近」のことではなかったかと考えられます。(詳細後述)この際に「調」として「銀」を貢上したという可能性が考えられます。そうであれば「銀銭」の形状で倭国に流入したという可能性が考えられるでしょう。
 
 『三国史記』の記述からは、「唐」への「銀(銭)」は「謝罪」の為のものであったことが判ります。そのことは「倭国」に貢上されたものも同様の意味があったという可能性も考えられることとなるでしょう。
 時代背景を「隋末」にとって見ると、「隋」と「高句麗」との間の戦いが「隋」に不利に進展していたことが影響しているのではないでしょうか。「新羅」にとって見ると「高句麗」の強大な軍事力が、自分たちにとっても実際的な「脅威」となる可能性があったものであり、その「高句麗」が「百済」と連合するという可能性を考えると、「倭国」から「百済」への働きかけを行なうよう「請政」したという可能性も考えられます。しかし、そのためには両国に横たわる懸案である「任那」問題について「新羅」から「倭国」への「謝罪」を行なう必要があったものと思われ、その際に「銀」が多量に貢上されたというストーリーが考えられます。
 そしてその貢上された「銀(銭)」を「倭国」は積極的に利用することとなるわけですが、その用途としては「隋」との「交易」に利用することを考えたものと思われ、「隋」から「高額」な品々を入手して国内に「市」を開きそこでそれを売りさばこうとしたものと考えられます。その際の「物品購入」に充てるために使用するという目的ではなかったでしょうか。
 「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり、このような「市」で取引するための物資購入などがその典型であったと考えられます。
 つまり、「無文銀銭」は「現代」における「高額紙幣」である「五千円」や「一万円」と同等の役割をしていたものと考えられるわけです。(もっとも「紙幣」は「名目貨幣」であり「実勢」に応じて取引される「銀」とは事情が違いますが、相場が安定している限りにおいては「銀」を中心に据えた取引は一番確実であったと考えられます。)

 この当時「半島諸国」では「五銖銭」が流通していたものであり、それは「百済」の「武寧王」(斯麻王)の墓誌に書かれた「買地券」と思しき文言とそこから発見された「五銖銭百枚」という存在からも言えると思われます。(※)
 「新羅」においても事情は良く似たものであったと思われ、「新羅」国内においても「五銖銭」が基準通貨とされていたものと思われますが、そうであれば「銀」が「五銖銭」と「互換性」を持たされていたことが当然考えられます。つまり「五銖銭」の重量と整数比をとるような重量を単位として「銀」が製造されていたと見られることとなるでしょう。そのようなものが「倭国」に一種の「賠償金」というような形で流入したと考えられる訳です。
 こう考えると、「無文銀銭」は継続的に流入したものではないこととなり、当然国内でも鋳造できないわけですから、一度だけの流入であったこととなるでしょう。そう考えるとそれほど大量には出回らなかったという可能性があります。

 その後「唐」が成立し「五銖銭」に代えて「開元通寶」が造られたため、すでに所有していた当初タイプの処理に困った倭国王権は(「鋳造技術」がないため)、「小片」を貼り付けて「重量」増加させ、「基準貨幣」を「五銖銭」から「開元通寶」へ切り替えたものと推定されます。当然その際にも「開元通寶」と「銀銭」の間に「整数比」が求められたわけですが、それが「6.7g」に 小片を付加して「8g」としなかったのは、すでにその時点でその時点で「銀」と「銅」との「実勢」の取引相場が形成されていて、それが「1対25」であったからではないでしょうか。
 『続日本紀』に書かれた交換比率(銀銭1枚に対して銅銭25枚)はそれを「追認」したものと考えられる訳です。小片を付加して「8g」とすれば「開元通寶」の「4g」の2倍となってはなはだ取引の際に計算が容易であったはずです。しかし実際には「8g」ではなく「10g」としているわけですが、これはこの時点で既に「銅銭」が造られており、それと「銀銭」との交換比率が形成されていたことがその理由と思われます。つまりこの時点で(同重量の場合)「銀」対「銅」の価値の比(公定ではなく実勢)が「25対1」であったとみられるのです。
 「倭国王権」はこの時「開元通寶」と同じ規格の「銅銭」(これがいわゆる「従来型富本銭」)を鋳造し、さらにそれに対し「1対25」の交換比率を(やむなく)「公定」としたため、小片を付加して「銀銭」の新重量を「新型銅銭」(つまり「開元通寶」と同規格)の2.5倍の10g程度としたものと思われます。こうすると「銀銭」10g(つまり1枚)に対して「銅銭」100g(つまり「25枚」)が価値として等しいこととなり、取引の際に換算が容易です。

 この当時の銭貨には「麻」や「ワラ」に通された(「銭さし」といいます)大量の貨幣(銅銭)を見ることがあります(百枚単位など)。このように「銅銭」は価値が低いため、大量に使用する用途がほとんどであったと考えられる訳ですが、それに対して「無文銀銭」の中央の「穴」は非常に小さく、(中央の穴径は2ミリメートル前後と計測されています)これでは「紐」と言うより「糸」を通すようなことしかできないと思われ、強度がないと思われます。つまり、「銀銭」についてはそもそもそのような「銭さし」に差して使用するような用途を想定していないため、「中心の穴」が小さいのだと思われます。(これについては製造工程上のものかと推察されます)
 そのため「無文銀銭」はその重量がほぼ一定であったため、実質的に「枚数」で数えられていたものと考えられ、「枚」ないしは「文」で数えられ、別に(銀としての)重量単位として「秤」及び「木+凡」という単位が併用されたと考えられます。(今村氏論文(※2)による)
 これらの単位系については『書紀』に全く書かれておらず「木簡」からしか窺えない現状であり、この状況が「評制」や「国宰」などと同様「隠蔽」されていることを示すのは明らかであり、これが「九州倭国王権」の元のものであったらしいことが推察できます。


(※)「百済武寧王とその王妃の墓誌」
〈ウラ面〉「銭一万文右一件/乙巳年八月十二日寧東大将軍/百済斯麻王以前件銭詢土王/土伯土父母上下衆官二千石/買申地為墓故立券為明/不従律令」
(以上は『李宇泰「韓国の買地券」都市文化研究十四号二〇一二年』によります)
(※2)今村啓爾『研究ノート「木簡に見る和銅年間以前の銀と銀銭の計数・計量単位」』(史学雑誌』百十一編八号)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2016/12/29)