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「無文銀銭」とは


 「無文銀銭」とは江戸時代(一七六一年)に現大阪市天王寺区にあたる「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所から「大量に」出土した事で知られる「銀銭」です。発見された当時は「無名銀銭」と言われていたようですが、その後「無文銀銭」と呼称されるようになったものです。
 この銀銭については当初以下の『書紀』の「顯宗紀」にある「銀銭」記事と関連づけて考えられ、「貨幣」であるという認識を持たれていたようです。

「(顯宗)二年冬十月(中略)是時天下安平 民無徭役 ?比登稔 百姓殷富 稻斛銀錢一文 馬被野」
 
 しかし、この記事自体の信憑性の問題や、「和同銭」に対する「感情的傾斜」が大きくなっていくと、「我が国最古の貨幣」の地位は「和同銭」に移ります。「無文銀銭」などについては、資料は収集されるものの著しく無視ないし軽視されていくようになります。それは「無文」であったことが大きな要因であったようです。
 江戸末期に近づくにつれ「国学」が発展し、その影響を受け「我が国最古の貨幣が『無文』であるはずがない」という一種の「観念論」に陥るのです。このため、「無文銀銭」に関連する研究は著しく停滞していましたが、「一九四〇年」になって「六六八年創建」と伝えられる近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するという事態に立ち至り、「無文銀銭」の実年代の一端が推定されうることとなったことで、一気に研究が進展の機運をみせています。もっともその「製造年代」については、この「崇福寺」の創建年代を大きく遡るという考え方にはなっていないようであり、また今でも「厭勝銭」つまり「呪術的使用」にしか使用されていなかったという見解を持つ学者もおられるようです。
 
 この「無文銀銭」ですが、表面にほとんど文字らしいものが書かれておらず、わずかに模様のようなものが時折確認される程度のもので、平均重量が約10g(弱)であり、これは「唐」時代に制定された重量制度の「一両」の約四分の一に非常に近いものです。
 ただし、重量調節用と思われる「銀」の「小片」がくっついているのがかなり多くあり、別基準で当初製造された後に、修正された形跡があります。「崇福寺」塔心礎からは12枚の「無文銀銭」が出土しましたが、その中にこの小片が剥落した状態のものがあり、その重量がちょうど6.7gあり、他についても「小片」を取り除くと同様の値になるものと推定され(後述)、「前漢」、「後漢」を通じて使われた重量単位の「銖」のちょうど十倍ほどとなるため、(つまり「五銖銭」の二倍の重さです)両者の間には密接な関係があるものと考えられます。つまり「無文銀銭」は元々「五銖銭」との交換とか換算とかを考慮していたものと推察されるものです。

 この「無文銀銭」はその形もやや不揃いであり、中央の穴も「無造作」な開け方であって、「中国貨幣」の伝統である「円形方孔」となっていないようですし、銀の塊を「叩いて延ばして」裁断加工して作られたようにも見えます。(ただしそうではないことが近年判明しています)
 これらのことは「鋳型」から造ったものではないように見られ、「大量生産」という貨幣の概念から外れていると推測されていたものです。しかも「無文」であり、誰が発行したものか不明という事は「貨幣」の資格を疑わせるものであったと考えられます。
 しかし、江戸時代など後代ではありますが「豆板銀」や「丁銀」等のいわゆる「秤量貨幣」としての「銀」が、(特に)「西日本」では使用されていた実績もあり、「無文銀銭」も同様の捉え方をすべきものと思料されます。

 最初に「無文銀銭」に注目したのは「青木昆陽」(サツマイモの研究で有名)で、「一七六一年」に「摂津天王寺真法院」から出土した「無文銀銭」を彼の著書(「国家金銀銭譜続集」)の中で紹介していますが、その中では「極印あり」と書かれています。「極印」とは「銀としての品質」を保証する「印」であり、このことは「誰か」により「品質保証」されていること示す「打刻」があったと言うことを意味することとなります。この「無文銀銭」を実見したという昆陽の目には「共通な印」がある、と判断しているわけです。実際「無文銀銭」に使用されている銀の純度は非常に高いものであり、ほぼ「純銀」と言えるものです。
 
 また、出土する地層などから判断して、「ある程度古い」と判定される「無文銀銭」には「小片」が付いているものが多く、「新しい」と判定されるものには「小片」がないものが多い(ただし、「小片」がなくても「10グラム弱」ある)ようです。
 つまり、このことから「無文銀銭」には「三つ」のバージョンがあるように考えられる事となります。
「一番目」は「小片」が付いているものについて、その「小片」が元々なかったと考えた場合の「6.7グラム」タイプ。
「二番目」はそれに「小片」がついた「10グラム」のタイプ。
さらに「三番目」として「小片」なしで「10グラム」あるタイプ。
 そして、これら各タイプの「無文銀銭」の存在は、「五銖銭」から「開元通宝」へ、という「隋」「唐」付近における中国の貨幣の変遷と、見事に合致していると考えられるものです。
 「五銖銭」に対しては上の「一番目」のタイプが対応していると考えられますし、「小片」がついたタイプは「開元通宝」の五枚分の重量と「無文銀銭」二枚が同重量となり(あるいは十枚と四枚)、「換算」が容易になっています。さらに「三つ目」のタイプはそのままで同様の重量比になっています。
 いずれも当時流通していた中国の銭貨との互換性、換算性を重視して造られていると考えられ、それはそのまま「無文銀銭」の製造の「時点」を示唆するものと考えられるものです。

 つまり「一番目」のタイプについては、「唐初」(六二一年)の「開元通宝」鋳造「以前」の時期(隋代以前)の製造と考えられ、これはこの当時まだ製造・流通していた「五銖銭」との互換性を考慮して造られたものであり、「本来」の「無文銀銭」の姿であると考えられます。それはそのサイズとして「隋唐」などの「北朝」の「尺」の体系に準拠していると考えられることからも分かります。その直径として29.6から31.60mmであることが確認されており、これは「北魏」以降の「北朝」で採用された「尺」に則っていると考えられ、その基準系の「一寸」にほぼ等しいものです。
 ただし、この製造年代としては「隋代」でもかなり後期であることが推定できます。なぜなら発見された「無文銀銭」に「小片」がないものが確認できないからです。
 「隋代」の初期や更にそれを遡る時期に「無文銀銭」が製造されたなら、「小片」がない状態の「無文銀銭」がある程度多数流通したはずであり、それは即座に出土する「無文銀銭」に反映されるはずです。実際に出土する「無文銀銭」の全てに「小片」が付加されていることは、その当初製造時期が「隋代後期」あるいは終末期であり、流通の期間としてほとんどなかったということが推定できるでしょう。

 「二番目」のタイプはその製造(改造)時期が「開元通宝」鋳造直後の「初唐」の時代であることを示唆するものです。つまり、「五銖銭」から「開元通寶」へと「互換」対象貨幣を「修正」するために「小片」を貼り付けて「緊急対応した」という風情が感じられます。
 通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿という解説が良く見受けられますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とは「正常」な感覚ではとても思えません。
 たとえばこの「小片」が付いている状態でもその重量にはかなり「ばらつき」が確認できます。「小片」が付いた状態の重量としては8.2−11.2グラム程度の範囲と確認されており、これは「揃っている」とは言い難いものです。この程度であれば、わざわざ「小片」を付加する意義が見いだせません。
 「小片」がない状態であれば「ばらつき」はあるが、「小片」を付加することにより「均一化」がなされているということであれば、当初製造過程の一環とも考えられますが、そうではないわけですから「当初」から「小片」がついていたとは考えられないこととなります。つまり、「小片」は「後」から付加されたものであり、「当初」の基準重量から「別の」基準重量への「概数的移行」という機能のためのものであったと思料されるものです。

 この点についてはその後の調査、解析により「無文銀銭」が「鋳型」による「鋳造」であることが推定される事となっています。そもそも「サイズ」(直径と周辺厚)が揃っている(共通している)と言うことは、これが統一的基準により製造されたことを示唆するものです。
 「無文銀銭」についてはその寸法として平均値として、直径30.60(29.60〜31.60)o、周縁厚1.85(1.70〜2.00)o、重量9.51g程度とされています。また、銀の含有率は94.9%とかなり純度は高いとされます。(これは現在「950銀」と呼ばれる「銀合金」と全く同じ成分比であり、この「950銀」は「強度」「色」光沢」「耐久性」等において「銀合金」として最も理想的なものと言われています。)
 「銀」の比重は10.51ですから、他の不純物の種類としては、「銅」ならぱ8.82、他に「鉛」が11.43、「錫」なら7.42、「ニッケル」なら8.69などとなりますが、ここでは「銀」と「銅」が共出されやすいことを踏まえて「銅」と仮定して合成比重を計算すると(銀の純度から計算すると)10.42が得られます。

 「無文銀銭」のサイズ(直径30.60mm、周辺厚1.70mm、中心部部の穴の径として3mm程度)から計算すると、その体積としては約5000×10の-12乗立方メートル程度となり、その比重から計算すると「5.15g」程度となります。
 この重量は「崇福寺」から出土した「小片」が脱落していた「無文銀銭」の重量である「6.7g」と大きくは異ならず、実際には周辺厚より中心部にかけてやや厚みが増していたものと考えると、(2mmを超える程度か)ほぼ同重量となると思われます。
 つまり、「小片」がない状態の「銀銭」はその重量としてほぼ「5〜7g」程度となり、「小片」がなくても「揃っている」と言えるのではないでしょうか。
 このようなことは「鋳型」の存在を考えなければ説明がつかないでしょう。実際に「無文銀銭」の表面状況の顕微鏡等による拡大観察から、それが「叩いて」整形したものではないことが推定されています。(※)仮に「一部」鍛造されたとしても周縁等の「バリ」をとる程度の作業に関する事だけであると考えられているようです。
 このようなことを考えると、「小片」が付加されているのが「本来」であるというような考え方はナンセンスであり、論理的な思考ではないこととなります。たとえば、後世の「豆板銀」では、周縁部の端面処理をしておらず、やや多辺形の歪んだ円形であり、また中央には小孔があるなど(その「小孔」の周囲は穴を貫通させた時点の力により凹んでいる)の特徴がありますが、これらはそのまま「無文銀銭」にも共通しているように見られます。この「豆板銀」の製作方法は「片面」だけの「鋳型」を使用したものとみられており、この製作方法も「無文銀銭」に共通していると推定されます。
 「鋳型」があって、それによって製造していたとすると「小片」を「当初」から付着させる意味が不明となります。当然この「小片」は後付けされたものとならざるを得ないものとなるでしょう。
 また推定される「小片」の付着方法として「銀鑞」などの溶融材を用いず、「無鑞熔接」とも云ふべき方法(銀小片そのものを溶融点(910℃)近くまで加熱して直接的に熔着させる方法)に拠ったとされるなどの点からも、一旦完成した「銀銭」に後付けで「小片」を付着させたのは明らかであると思われます。
 (そのような熔着方法をとっていること、また全体の造り替えをせず「小片」の付加という方法を用いていることなどは、「銀」精錬や加工の技術がこの当時倭国にはなかったことを示しており、それは「銀」(無文銀銭)そのものも外来のものであったことを示していると思われます)

 また、「三番目」のタイプについてはその後「正式」に「開元通宝」に対応するためのものと推定され、これは「初唐」からかなり下った時期が想定されます。
 この「小片」がないタイプについては、その出土する地点の状況から見て、「八世紀」に入ってからのものではないかと推量され、「平城京」完成時点付近かと考えられるものです。
 当然これは「鋳型」を新しく造り替えたことの結果であると考えられる事となります。 
 そして、発見される「無文銀銭」の多くに「小片」が付いている、という事は「初唐」以降にはこの「無文銀銭」が余り製造されなかった事を意味するものでもあると考えられ、それは「唐」との関係悪化という時代背景を裏付けるものと推定されるものです。(さらにこのことは「無文銀銭」に代わって、「銅銭」が製造され始めたことを示唆するものと言えるでしょう。)
 このことは「小片」が付加されたタイプについては、その製造時期の「下限」は遅くとも唐使「高表仁」との争い以降国交が途絶した時点付近であることを推察させるものです。(ただし年次については複数説があり別途検討します)

(※)長戸満男「無文銀銭試論」財団法人京都市埋蔵文化財研究所研究紀要第十号「三十周年記念号」二〇〇七年


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2013/08/29)