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国分尼寺と筑紫尼寺


 肥沼氏のブログを中心に「国分寺」の起源について深い検討がされています。そこでは聖武天皇の国分寺造営の詔に先立って各地にすでに「塔」が建てられており、それが古代官道などと同様「正方位」を示しているのに対して、明らかに後出する「伽藍」については「磁北」が基準と思われ、正確な北を示していないことが指摘されています。そのことは「古代官道」の建設時期と同様初期国分寺(塔)の造営が七世紀初頭まで遡るものではないかという疑いを抱かせるものです。それについてはすでに「仁寿年間」に「隋」の高祖(楊堅)により各州に対して出された「塔」造営の詔に触発されたものとみるのが相当ということを示しました。「隋」の場合、それらの中心伽藍として「大興善寺」というものが「大興城」つまり「長安」に存在していました。そうであれば「倭国」においても「国分寺」の本家あるいは頂点としての寺院が(首都の中に)当初存在したはずですが、それが「元興寺」ではなかったでしょうか。そう考えるのは『二中歴』と『日本帝皇年代記』の二つの記事からです。

『二中歴』では「最勝王経」の転読が「諸国」で行われていることが書かれています。

「白雉九 壬子 国々最/勝会始行之」(『二中歴』)

 これによれば「白雉年間」に「国々」で「最勝会」が初めて行われたというわけですが、「国々」で行うという表現が「国分寺」の存在を前提にしていると考えるのは自然です。
 その「国分寺」の頂点の寺院としては『日本帝皇年代記』の以下の記事が参考になります。

「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會■最勝講始之」(『日本帝皇年代記』(中))

 これによれば「白雉年間」に「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が初めて行われたとされます。『帝皇年代記』の特徴として無主語の場合は行為の主体はその時点の「倭国王」(「天皇」)によると考えられますから、この記事も国家として行った事を示します。これを『二中歴』と重ねて考えると、この時点の「最勝講」は「元興寺」を頂点として諸国でも同様に行われたものとみられることとなるでしょう。
 ところで、「最勝講」や「最勝会」は「金光明最勝王経」という経典と関係していると一般に考えられていますが、この経典は八世紀に入ってから「唐」の「義浄」によって訳されたものであり、この記事時点ではまだ成立していなかったと見られていますから、その意味では不審があるわけですが、「金光明経」そのものはすでに「北陵」の「曇無せん」によって五世紀には成立しており、それが早期に伝わっていたらしいことが知られています。この「金光明経」についての「講」や「会」を「最勝講」や「最勝會」とこの時代に称していたかは疑問ですが、『二中歴』の編集時点の「常識」として「金光明経」とは即座に「金光名最勝王経」であるという認識に拠ったものかもしれません。さらに、それが「金光明経」であったとしてもそれについての「講」などが行われなかったと積極的に考える根拠はありません。

 そもそも「国分寺」の正式名称(聖武の詔にあるもの)は「金光明四天王護国之寺」というものですからその中心経典は「金光明経」であったものであり、この経典についての法会が「国分寺」で行われたという『二中歴』や『日本帝皇年代記』の記事は当然といえるものです。それは後代にも同様に「最勝王経」の転読が「諸国」の「国分二寺」に対して行われていることからも推察されます。

(一二六三年)(弘長三年)〔諸国〕亀山天皇が諸国「国分二寺」に対し、最勝王経の転読を命じた宣旨を出す。そこでは礎石不全ならば便宜の堂舎を点じて梵席を設け、施供には正税を宛てよとあります。(『公家新制』、『鎌倉遺文』八九七七号による)

 私見ではこの「国分寺」の本来の中心寺院は「元興寺」であったと見るわけですが、すでにこの「元興寺」がその後「法隆寺」となったということを述べました。その「法隆寺」は別名「法隆学問寺」と呼ばれたとされます。確かに「元興寺」という寺院は「隋」や「唐」への留学僧などが帰国後そこに常住したという記事もあるように、学問の修行や集成の場であったことが推測されるものであり、それは「法隆学問寺」という(その後の)名称に違わぬものであったと推測できるわけです。
 ところで、すでに述べたように「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」が「筑紫」の「筑紫尼寺」より「鐘楼」を(というよりたぶん伽藍全体を)移設して「檀林寺」と称したとみたわけですが、この「檀林」という名称は「僧尼の修業の場」を示す用語であり、それは「学問寺」とほぼ共通した表現であると考えられるでしょう。そしてそれは「檀林寺」というよりその前身の「筑紫尼寺」の性格や実態を表すものではなかったかと考えられるわけです。

 「筑紫尼寺」の鐘楼は「観世音寺」のものと同一規格であり、その製造時期もほぼ一緒ではなかったかと推測したわけですが(銘文のある「筑紫尼寺」のものの方が僅かに後出するか)、下の記事によれば「白鳳」年間に「観世音寺」が造られたとされるわけですが、当然ほぼ同時期に「筑紫尼寺」も造られたということとなります。

白雉九 壬子 国々最/勝会始行之
白鳳廿三 辛酉 対馬銀採/観世音寺東院造
 
 後の記事では「観世音寺」が作られたのがいつかは明確ではありませんが、明らかに「諸国」において行われたという転読の場ではなかったこととなります。このことは「観世音寺」という寺院がその時期からもその名称からも「国分寺」創建とは違った性格のものとして造られたらしいことが推測できますが、他方「筑紫尼寺」については当初「天智」に対する「追善供養」の一貫として「倭姫」により創建されたと見られますが、その後「尼寺」としての「国分寺」の頂点を成す存在としての寺院へと変容したものとみることができるのではないでしょうか。
 国分寺の先蹤とされる「隋」の「文帝」の例でも「仁寿」年間において「諸州」に寺院を造るようにとされている中で「神尼」つまり彼の育ての親とされる「智仙」の像と自分の等身像を配布したとされており、「尼寺」については特に指定してはいないものの、必然的に「神尼」の像を頂く「寺院」が別に造られることととなったものではなかったでしょうか。倭国において模倣する段階では同様に「尼寺」は当初視野になかったということが考えられ、その後「最勝会」が「国分寺」で行われた時点以降「尼寺」でもそれらのようなネットワークが必要であるという認識が王権の内部で形成された可能性が考えられます。そして、その後その中心として「筑紫尼寺」が機能するようになったと見ることもできるでしょう。
 この「筑紫尼寺」はすでに考察したように「九州」全体に対する「尼寺統括」ということをその責務とするようになっていたと思われ、その意味で「筑紫」という名称となったとも考えられます。(この時期すでに「筑紫」は「前後」に分割されていたはずですから)


(この項の作成日 2016/07/10、最終更新 2020/05/04)