既にみたように「尺八」に関する伝承や「鐘」の「音高」についても「隋代」にもたらされたものと思われ、それが「文帝」との関連で「天王寺」に伝来したことが推定できるわけですが、このような重要な伝承が「四天王寺」に偏っていることを考えると、「隋」から「尺八」その他「音律」が伝わった時点で既に「四天王寺」が存在していたことを示すといえます。それは「四天王寺」が「百済」からの仏教」(法華経)伝来に端を発した創建であったとされることと関連しています。つまり「五七七年」という年次のこととして「百済」からの仏教伝来が記されており、その時点で「四天王寺」が作られたとすると「隋使」による「訓令」などの事案の発生する以前に既に「四天王寺」は存在していたこととなります。
また『書紀』には「百済」から渡来した人により「呉」の伎楽が伝えられたとされています。
(推古)廿年(六一二年)
「是歳。自百濟國有化來者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。惡其異於人欲棄海中嶋。然其人曰。若惡臣之斑皮者。白斑牛馬不可畜於國中。亦臣有小才。能構山岳之形。其留臣而用。則爲國有利。何空之棄海嶋耶。於是。聽其辭以不弃。仍令構須彌山形及呉橋於南庭。時人號其人曰路子工。亦名芝耆摩呂。又百濟人味摩之歸化。曰。學于呉得伎樂舞。則安置櫻井而集少年令習伎樂■。於是眞野首弟子。新漢齊文二人。習之傅其■。此今大市首。辟田首等祖也。」
既にこの三年前の「葦北」の地に流れ着いた百済人や呉国人について、実際の年次として「隋」による「平陳」時点付近が想定できるとしました。このことはその三年後の記事として書かれているこれら「百済」から帰化した人々の事情についても同様に「平陳」付近のことではないかと考えられることを示します。
「味摩之」という人物は「呉」で「伎樂舞」を習得したとしており、その人物がここで「倭国」へ渡来してきた事情は、「呉」つまり「陳」が「隋」に滅ぼされるという混乱が「陳」に発生したためであり、彼らはその混乱を避けて本国へと帰省したものと思われますが、既に「百済」は「隋」に遣使し「隋」の封国となってしまっていたものであり、彼らの習得した「呉」の「舞楽」もその技を発揮する場が「百済」には既になくなっていたのではないかと推量されます。そう考えると、この「帰化」したという時点も「平陳」からそれほど遅くない時期を想定すべきと思われ、先に見た「葦北」に流れ着いたという記事の真の年次として、「南朝」が滅びて間もない頃でまだ「百済」がそれを「認識」していなかった「五八九年以前」のことと想定したことからも、その三年後つまり「五九二年」付近ではなかったと推察される事となります。
これら「帰化」した「百済人」の舞楽などに使用される「楽」についてはその基準音が「南朝」伝統の「宋氏尺」によったものであるのは当然であり、遣隋使がもたらした「七弦琴」や「尺八」「笛」の音律(黄鐘)はこの段階では(唐の呂才による改定以前)「南朝」のものと同じであったと思われますから、問題なく使用できたものと思われます。
またこのような「隋楽」その他「隋」の文化の伝来を契機に「元興寺」(後の「法隆寺」)が作られたものであり、伝来のその時点では受け入れる寺院としては「四天王寺」がそれを担ったということが考えられるものです。「鐘」もその時点で造られたものでしょう。
ところで、「法隆寺」の「金堂」の外陣に「四天王」像があります。この「四天王」像について「水野孝夫氏」の研究があります。(※)それによると、「四天王像」は、その足元に「邪鬼」を踏みつけていますが、その「邪鬼」は両手は高く差し上げ、何かを掴んでいるような形になっています。(実際には何もつかんでいません)
これは何を意味するかということは平安時代に書かれた『別尊雑記』という当時の寺院などの本尊などを写した「図象集」を見ると分かります。そこには当時「難波四天王寺」にあったといわれる「四天王」像が描かれており、そこでは踏みつけられた邪鬼が「四天王」の武器である「戟」とその「鞘」を両手に握っているのが分かります。
「法隆寺」における「四天王」像に踏みつけられている「邪鬼」も、本来その上の「四天王」の持つ「戟」と「鞘」を握っているはずなのですが、実際には何も握っておらず(空間の配置が違っていて握ることができない)、不自然な状況となっているのです。このことから、法隆寺の「邪鬼」と「四天王」像は統一的に(同時に同一人物の手により)製作されたものではないと推定できるでしょう。
ところで、「一一四〇年」に「大江親通」が著した『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺の四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれています。また「一二三八年」頃に僧顕真が著した『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)でも、「四天王寺」の「四天王」と「法隆寺」の「四天王」は同じである、と伝えています。
『別尊雑記』に描かれた「難波四天王寺」の「四天王像」を見ると、「邪鬼」の上に軽く足を広げて立ち(ただし踏みつけているという感じはない)、中国南北朝自体の様式と思われる武人の姿を表しているらしい服装やその表現方法など、「現在の」「法隆寺」の「四天王」像と似ている部分があります。(ただし若干時代差も感じられますが)
しかし、この両者を「全く同じ」とか「一方を他のコピー」と考えるほど似ているわけでもありません。このことから「大江親通」や「僧顕真」がみた「法隆寺」の「四天王像」は今のものとは違うものだったのではないかと疑われることとなります。
「法隆寺」の「四天王」像は美術史的には「推古仏」と同時代のものと考えられており、「百済観音像」、「夢殿観音像」などと同様に古いものと考えられていますが、「法隆寺」の資材帳には記載がなく、また途中で移されてもたらされたという説もあり、当初から「法隆寺」に存在したものかは不明とされています。
そうであれば「創建時」の「法隆寺」の「四天王像」は実際に今見るものとは異なるものであり、『別尊雑記』に見る「四天王寺」の四天王像によく似た姿をしていたと見るべき事となると思われます。少なくとも『別尊雑記』のスケッチが正確であって、それと同時代人である彼らの目に狂いがなければ、本来の「法隆寺」の「四天王像」は現在のものとは異なっていたという可能性が強いといえるでしょう。
「四天王寺」はその後幾度も戦災に逢い、現在は当初のものは全く残っていないと考えられており、この平安時代に描かれた『別尊雑記』によってのみ当時の姿が分かるとされます。
この『別尊雑記』の「四天王寺」の「四天王像」は、その「意匠」から考えると、「南北朝」時代の「士大夫」(というより「武人」)の服装を模しているとされ、「百済」的ではないとされます。このような「意匠」は「南朝」の「漢文化」の影響を「北朝」が受けた中で作られたものとされ、「北朝」からの伝来を考慮する必要があるとされています。
ところで「四天王寺」はその建築様式がいわゆる「四天王寺式」という「門−堂−塔」が一直線に配置される形式の代表であるわけですが、この様式は「南朝」から「百済」へとつながる形式であり、「百済」の首都であった「泗比城」の寺院に良く似ているとされ、「飛鳥寺」などと同様に「百済」の強い影響に建てられていることは明らかですが、「四天王像」に関しては「北朝的」であるとされているわけであり、これは一種「矛盾」であるわけです。これに関してはこの寺が当初は「天王寺」と呼ばれていたらしいこととつながります。
(※)水野孝夫「四天王寺」(『古田史学会報』No.50 二〇〇二年六月一日)
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/12/24)