ところで、「法隆寺」の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者として「漢山口直大口」という「名前」が書かれています。彼は「難波宮殿」建設の際に「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。
「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」
「法隆寺」の「玉虫厨子」に「千躰仏」がレリーフされています。「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型と言われていますが、実際の「金堂」には(法隆寺全体としても)「千躰仏」はありません。そのことから、この「千躰仏」がどこにあるかが問題となっていたのです。しかし「千躰仏」を刻んだとされる「漢山口直大口」は、「四天王像」も刻んでいるわけですから「法隆寺」に非常に関係の深い人物であることが分かります。この事から「千躰仏」も必ず「法隆寺」のどこかにあるはずであると考えられますが、それは「三十三間堂」という形で「筑紫」都城の「王宮」の至近に存在していたと推定出来ます。
後で詳しく述べますが、現在京都市内に存在する「三十三間堂」については、「平家」が寄進したものがそのまま残っているのかどうか、諸説はあるものの、推定では「筑紫」の「観世音寺」に「既に」移築されていたものを、更に「京都」へ移築したものと考えられます。
「千躰仏」については『書紀』の「六五〇年」という年次に「詔」により「漢山口直大口」が「刻む」という事が書かれていることから、「詔」を受けて作製していた「千躰仏」がこの年完成したと読めます。(「白雉元年」(六五〇年)という「年次」と「刻む」という動詞が連結されていることから、この年に刻んだと理解されるものです。)
そもそも「法隆寺」はすでに見たように「解体修理」等の所見や「五重塔」の「心柱」の年輪年で測定の結果からも「六世紀末」の創建とみるべきと考えられ、その時点以降と「千躰仏」それを収容するための「三十三間堂」が作られたと思われます。その契機となったものは「隋」の「文帝」が「三十三天」の加護により「天子」となったという逸話ではないかと考えられ、「隋」の「文帝」からの「訓令」として「法華経」の推進とともに「勅願寺」を作り、仏像を安置すべしと云うのも含まれていたことも考えられます。つまり、「隋」の「文帝」の意志としてこの「三十三間堂」と「千躰仏」を造るという事になったという可能性が考えられる訳です。
現在の「三十三間堂」を解体修理した際に測定された寸法からは、「桁行梁」の位置での「身舎(もや)寸法」と「庇寸法」が「曲尺」で各々「16.0988尺」と「11.0325尺」、全幅として「54.2625尺」と測定されていますが、これに対して米田良一氏は、その研究で使用した「法隆寺」に関する「換算尺」(1尺=28.1cm)を適用し、各々「17.5尺」、と「12尺」、全体合計で「58.5尺」とされました。(※)
ところで、「法隆寺」は「殿堂法式」であるとされ、「一材寸法」として「26.95cm」という数字が得られていました。(ただしこの数字の根拠は現段階では不明)しかし、「三十三間堂」はその構造から見て「庁堂法式」であり、「一等材」や「二等材」は使用されなかったと見られます。仮に「三十三間堂」が「隋・唐」という時代の産物であるとすると、「三等材」が使用されているとみられ、「営造法式」からは「一材寸法」として「隋・唐尺」に対して「7寸5分」である「22.2cm」が基準長として使用されたと見るべきであり、これを当てはめて計算してみる必要があります。結果として「身屋寸法」で「21.97262尺」、「庇寸法」で「15.05787尺」、全幅として「74.06098尺」となり、いずれも「22尺」「15尺」「74尺」という「完数」に非常に近い値が得られます。
これを完数と見たときの「誤差率」としては、各々0.124%、0.0824%、0.3858%となりますが、「曲尺」や「米田流」の値をとったときよりも優秀な値が得られています。
「曲尺」の場合の誤差率は各々「0.6172%」、「0.2955%」、「0.4861%」となります。「米田流」ではやはり各々「0.805%」、「0.8645%」、「0.0185%」となり、全体として「隋・唐尺」を基準値とした場合の「三等材」という前提の計算が最も整合していると思われます。ただし、全幅としては「米田流」が最も優秀のようですが、完数と言うより0.5尺が余計につくあたりに疑問を感じます。なぜなら設計の際には「全幅」というのは基本中の基本として(敷地との兼ね合いもあるため)押さえられていたはずであり、それが「0.5尺」がつくような寸法となるとは(そのような寸法を初期値として考慮するとは)考えられないと思われるからです。
それら寸法の他の重要な要素が「帰納的」に計算される場合があるのを除いて、「全幅」は純「完数」になるであろうことを考えると、「庁堂法式」で建てられていると考えた場合が最も論理的であることとなるでしょう。
このことから、「三十三間堂」に「三等材」が選定されたことはほぼ間違いないと考えられますが、その意味では「観世音寺」の「本堂」などと同一の「材」で作られていることとなります。しかし、本来「本堂」や「仏塔」など「伽藍」の中心部分と「その他」の部分は「材」が異なるのが通常であり、「観世音寺」に当初からあったとすると、等級が同じであること自体が不審であると言えます。
組み合わせとしては「法隆寺」のように「本堂」(金堂)と「五重塔」の方が「等級」が上である場合には有り得る(というより自然)と考えられ、この「三十三間堂」は本来「法隆寺」のように「二等材」や「一等材」(あるいはそれ以上)で「本堂」などが建てられていた場合の付属物であったことを想定させるものです。
以上のことから、可能性としては、この「三十三間堂」は本来「法隆寺」の寺域内に存在していたと考えられるわけですが、実際には「観世音寺絵図」その他の史料から「三十三間堂」は相当以前から「観世音寺」の敷地内にあったものであり、そのことから「筑紫」に存在していた時点で、既に「観世音寺」敷地内へ「移築」(移動)されていたということを示すものと考えられます。
それを示すのが「筑紫都城」の遺跡です。この時点における「筑紫」都城の「条坊区画」の長さとしては90mであった事が考古学的に確認されていますが、「三十三間堂」はその長さが「100メートル」を越えるものですから、「区画」からはみ出てしまうこととなります。このため、「寺域」全体としては「二区画」を占有することが必要ですが、それは現「観世音寺」の遺構からも確認できます。
「太宰府条坊」の「復元図」などを見ると「都城」の北東隅に位置する「観世音寺」遺構はちょうど「二区画分」を占めており、ここに「大房」(「三十三間堂」)が存在していたとみたとき整合します。(「大房」がなければ「一区画」で収まるはずです)
「筑紫都城」では現在の「通古賀地区」に「宮域」があったと推定されているわけですが、「法隆寺」(当初は「元興寺」)もこの至近にあったことが推定され、有力な場所としては「現在」の「左郭南方部」の「般若寺跡」とされている場所や、「都城」の外としては「塔原廃寺跡」などが挙げられます。しかし、この地域には複数の区画を占有した遺跡があったようには見えません。つまりこの場所に「元興寺」があったとしてもその時点では「大房」がそこにあったとは言えないこととなるでしょう。
このことから「三十三間堂」及び「千躰仏」の完成は「元興寺」の完成と同時ではなく(そもそも千躰仏を刻むのに相当の年数が必要と思われることを考えると)、「都城」を拡幅し「北辺」に宮域を設けるという「隋」(北朝)形式への変更を行った時点付近と思われ、それは「四天王寺」への「寺名」変更時点と近接しているという可能性があり、最も考えられるのは「倭京」改元付近(六一八年)です。それはこの時点での「天王寺」創建伝承が存在している事と、それが「隋」からの影響が形となった時期であるとすると、「北朝形式」への「都城」の拡大・整備という中で「大房」(三十三間堂)が新設されたものであり、それが「京の北辺」に収まった時期であったと思われます。
ただし「千躰仏」を「刻む」という事業が始められた時点そのものは「元興寺」の創建と余り変わらない時点が想定されるものであり、その「思想的背景」は「隋」の高祖からの「仏教治国策」指示(訓令による)に基づくものであり、それが納まるべき建物として「法華三十三天」という観念に基づく「三十三間堂」が建てられるという経緯があったことが推定できるでしょう。
「都城」として『周礼』に基づくものを変更し「北朝型式」にしたことも「隋」(特に「高祖」)の影響によるものであり、これらは「隋」との関係の中で理解すべき事となります。
(※)米田良三『建築から古代を解く』新泉社一九九三年
(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2019/05/03)