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倭国への行程と都の位置


 『翰苑』という史書があります。この史書は「唐」の「張楚金」が「顕慶五年」(六六〇年)頃に書いたものとされていますが、その中に「倭国」に関する部分があります。

「…邪届伊都、傍連斯馬 /中元之際、紫綬之榮 /景初之辰、恭文錦之獻…」

 これによれば「倭国」の主たる国であり、「都」がある「馬臺」は、「伊都国」とは「真北」や「真西」ではない位置関係にあり、同時に「直接」隣り合っているというわけです。さらに、「直接」は接していない位置関係で、「伊都国」を隔てた向こう側には「斯馬国」があるというわけです。
 このような位置関係を「六六〇年」という段階で書いているわけであり、「倭国」の王都が「古」から「筑紫」のある程度近傍にあったことを示すものと思われます。それを補強しているのが「注」(「雍公叡」によるもの)として書かれた『広志』からの引用(というより何らかの「類聚」書の引用か)です。そこには「後漢」の光武帝から金印紫綬を受けた事、魏の皇帝から卑弥呼が「(錦)絹織物」を下賜されたことが書かれており、この「馬臺」というものが「卑弥呼」以来一環として倭国王権を代表していたことが明らかとなっています。もちろんこの引用だけではよくわかりませんが、そもそも『広志』の「原資料」となったものは『魏志』ないしは『後漢書』であると考えられ、それらの史書では「伊都国」や「斯馬国」は明らかに「倭国」の範囲内であり「女王」である「卑弥呼」の直接君臨統治している範囲内にあるとされているわけです。

 『広志』においても同様の趣旨であったはずであり、そこからの引用であれば、当然ここに書かれた「伊都」も「斯麻」も「倭国」の範囲内であってなおかつ、「倭国」において「宗主国」の範囲の中にあり「都」の所在する国の近傍にあったものと、彼等(「張楚金」と「雍公叡」)が考えていたことを示すものと考えるべきでしょう。
 このことは、「三世紀」から「五世紀」へと続く「倭国」の「首都」に関する認識が「七世紀」においても有効であることを示しているといえるものです。そして、それを裏書きするのが後半に書かれた「紫綬の栄」という表現です。それは「後漢」の光武帝から「金印紫綬」を下賜されたこと(紀元五十七年)を示すものですが、その金印が「筑紫」の「志賀島」から出土していることは、(古田氏も指摘するように)「倭国王」の「都」位置の推定に大変重要な情報であり、それはまた『翰苑』の記述と整合するものといえるでしょう。
(ただし、私見ではすでに見たように途中「肥(日)」の国に所在していた時期があり、「筑紫」への復帰は「七世紀」まで遅れたと推定しています)

 後にも述べますが、「七世紀」に入ってから「倭京」と改元したと思われる訳ですが、この時点付近で「六十六国分国」が行われ、その時点付近で「九州」という自称を「九州島」内部について適用し始めたとみられます。それはそもそも「附庸国」とされていた「筑紫」「豊」(秦王国)がこの時点で「倭国」の本国として昇格した事を記念しているものではなかったでしょうか。
 すでに触れたように『隋書俀国伝』に書かれた「竹斯国」や「秦王国」及び「又經十餘國」という様な「行路」情報は基本的に「軍事情報」であり、「宣諭使」派遣とセットであった可能性が高いと考えられます。その意味で「開皇年間」(六世紀末)段階の情報であると思われるわけですが、その時点での「倭国」の行政制度はすでに一部については「隋」の制度を取り入れて改正・変更されていたとみられるものの、全体としては「倭国」の「風俗」として『隋書俀国伝』の前半に書かれたものがまだ継続・存在していたとも思われます。つまり、『隋書』に書かれた「一二〇」人いるという「軍尼」が治めている「領域」が「諸国」のものであり、「附庸国」のものであったと見られるわけですが、「竹斯国」や「秦王国」はそれらと違い(「小国」ではなく)後の「令制国」のような、「広域行政体」としての「国」の体制となっていたと考えられます。つまり、他の「小国」としての「国」(戸数八百戸ほど)とは「規模」が異なっていると考えられるわけです。「竹斯国」と「秦王国」が諸国つまり「附庸国」でありながらここで特に名前が挙げられているのはそのような「大国」であったからではないでしょうか。
 
 「阿毎多利思北孤」あるいはその太子とされた「利歌彌多仏利」により「六十六国分国」が行なわれたと考えるわけですが、それ以前に既に「三十三国」に分国されていたという説もあり、それが正しければその「三十三国」は当然「西日本」(というより「九州島内部」)に展開されていたと考えられます。そこへさらに「三十三国」が追加されたとすると、それは「東国」にその範囲が広げられたと見るべきであり、「我姫」が八国に分けられたというのもその一環であったという可能性があると思われますが、その時点で「難波」への副都構築が行われたものではないでしょうか。

 「隋使」(裴世清)はその「西日本」の諸国のうち「経路」として「九州島内部」の「十余国」を通過して「倭国」の中心部へと移動したと見られます。その際には「隋使」は「九州島」を「阿蘇山」を周回するように「時計回り」に移動したと考えられ、最終的に「肥後」へ到達したものと推定します。
 また、最後「海岸」に到達したという記載は『隋書』の中にも「其地勢東高西下」とあり、また『翰苑』では「憑山負海、鎮馬臺以建都」とあって「都」が「山」を背にして海に面していたらしいことが推定できることと関連しているものであり、その意味でも「肥後」への到着が推定できるでしょう。もちろん「明日香」など「内陸」に都を想定することが困難であることも示します。

 また『延喜式』に書かれた「日の出・日の入り時刻」のほとんどが「北緯33度」付近のデータであったことが明らかとなっており、「天文観測」が「暦」の作成と一体のものであったことを考えると、時刻データの時期として「暦」の頒布を受けなくなった「武」以降ではないかと考えられ、「五世紀」あるいは「六世紀」の観測であることが推定されますが、その時点で当時の「都」が「北緯33度」つまり「肥後」にあったらしいことが推定されますから、「裴世清」が「来倭」した時点の「倭国」の都も「肥後」にあったと見るのが自然といえるでしょう。そしてそれは「鞠智城」付近であったことが強く推定出来るものです。
 

(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2018/08/05)