『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。
「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」
注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。また『隋書』内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることがわかります。
すでに見たようにこの「裴世清」が派遣された年次は『隋書』や『書紀』に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったと考えられ、その段階では、「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。(ただし、「竹斯国」と「秦王国」が「附庸」されている国で国名が特記されているのは、それだけ有力な国であったことを示すものである可能背が高いことを示すものと思われます)
このことは「九州年号」中に存在する「倭京」の元年が「六一八年」と推定されること、その時点で始めて「筑紫」に都城が造られたと考えられることと整合すると言えるでょう。つまり、この時点までは「筑紫」には「都城」(京師)はなく、他の場所に存在していたとみられるのです。では、この時点における「都」はどこであったでしょうか。
上の『隋書俀国伝』の表現から「近畿」に倭国の中心がある、という様に受け取る向きもあるようですが、そのような理解は不審です。もし仮に倭国の中心地が「近畿」にあったとすると、その国でさえも「筑紫国以東」の範囲に入ってしまうこととなるのは当然であり、「属国中に宗主国の都がある」という「ねじれ現象」が発生してしまいます。
「近畿」に「倭国」の中心があるにも関わらず、「竹斯国以東」という表現が用いられることはないでしょう。そのような場合、より適切な表現法としては「近畿の西側のある地域(境界領域)「までは」皆倭国に附傭する」という表現が使われるでしょう。ここではそれに類する表現は使用されておらず、そう考えると近畿の方向(東)には宗主国は存在しないことは明確であると思われます。つまり、原則として基準点から「附庸国」がある、というように指定された方向には「中心」となる国はないこととなります。(言い換えると「竹斯国」の東側は全て「倭」の範囲に属する「附庸国」であるという表現であるわけです。)
ではどこが「倭国」の「本国」なのかというと、「附庸国」の方向として指定された「竹斯国以東」とは異なる方向、(以西や以南)が倭国の本拠地なのだというように考えられます。それを示すのが「附庸国」の中に明らかに「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」が含まれていないという点です。
「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」の両島(国)は「百済」などの外国と境界を為していますから外交的に重要な領域であるのは明らかであり、これが「倭」の直接統治領域でないとすると「倭」の外交政策そのものが成立しない可能性があるでしょう。この地域の重要性は『魏志倭人伝』の昔から変わっていないと思われます。
既に検討したとおり、「卑弥呼」の時代においても「対馬(対海)」「壱岐(一支)」は「伊都国」に常駐していたとされる「一大率」の管理下にあったものであり、「魏」などの使者が「倭」を訪れた際は「対馬(対海)」で「一大率」の配下の軍による確認と連絡、引率が行われたものと推察されます。(末盧國へと誘導されたもの)
そのような国境警備の重要性は時代が変わっても決して低減されるものではなく、その意味で「宗主国」つまり直接統治領域の一端は「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」を含むものとみるのが相当と言うこととなりますから、「都」もその近傍に存在する可能性が高いこととならざるを得ません。しかも「竹斯(筑紫)」がそれに該当しないとすると「肥」以外には措定できる場所はないと思われることとなります。(この時点ではまだ六十六国分国や九州制が施行されていませんから「竹斯」は後の「筑後」は含まないこととなり、「肥」は後の「肥後」「筑後」「肥前」を併せた領域となり、かなり広大な領域を含むこととなります。)
また『隋書』には「筑紫国以西」「以北」「以南」の情報は、行路記事には書かれていませんが、基本的に重要な情報(特に軍事的なもの)は「倭国」の「本国」のものと見るべきですから、「阿蘇山」に関する情報も同様であったものと思われることとなります。
「阿蘇山」は「竹斯国」の「南方」に位置するのですから、「遣隋使」がもたらした「阿蘇山情報」も「竹斯国以南」の情報と考えられますが、行路記事からはこの「竹斯」南方地域に対して「附庸」という表現が使われていません。このことからもこの方面の地域は「倭国」の「本国」の一部であり、また「倭国王」が「直接」統治している領域であると考えられ、「附庸国」ではないと判断するしかありません。
また『隋書』中では「倭国王」が都する「邪靡堆」を「無城郭」としていますから、「城」もそれを巡る「郭」(囲い)もなかったとされています。このことは「筑紫」周辺に存在していたと考えられる「神籠石」などの「朝鮮式山城」とも「無縁」の環境に当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が居在していた事を示すものです。しかし、「筑紫」の「山城」や「神籠石」はかなり「古いもの」とされており、また、確認された数も「筑紫」中心に多数が確認されています。「神籠石式山城」に限定しても「筑紫」には「筑前」「筑後」を併せて「七個所」、「豊前」で二個所、「肥前」には三個所確認されているものの、「肥後」(及び「豊後」)にはその存在が確認されていません。
これらの「山城」は一部は「卑弥呼」の時代から存在していたものと思料され、それは「当然」「七世紀の初め」という段階でも存在していたわけですから、「隋使」の行路や都の至近にあったなら、それについてコメントしない、あるいは「都」には「城郭」がない、というような表現をしないのであろうと思料されるものです。つまり、「筑紫」は「朝鮮式山城」の密集地域であるわけですから、「隋使」が実見した「倭国」の王都とその周辺地域は(「行路記事」に明確なように)「筑紫」を指すものではない可能性が高いものと推量され、都が「肥後」であった蓋然性は更に高まると考えられるものです。
また、「無城郭」と言うことから、「城」やそれを巡る「郭」を伴った「都城」は「遣隋使」が「隋」の「大興城」やそれ以前の「長安城」に関する情報を入手して初めて「倭国」に形となって現れたものと思われ、それが「筑紫」に「七世紀の前半」(「九州年号」の「倭京」年間に、初めて「本格的都城」として結実したものと思われます。
また、「倭京」年間に「筑紫」に都城を構築したと推定されるわけですが、その時点で「竹斯」に都城を造り、「遷都」することとなったわけですが、その理由としては「筑紫」がそもそも「古都」であった、という事も確かでしょう。
「筑紫」は「卑弥呼」の時代も含め歴代の倭国王の所在する場所であったものですが、「倭の五王」の時代以降「外的圧力」をかわす意味で「内陸」である「肥後」にその中心を移動していたとみられます。
そもそも「筑紫」は、東方の附庸国(吉備や播磨、難波など)への「にらみ」を利かすという目的は瀬戸内を通じることで容易であるなどの点でより適地であるとみられるわけですが、何よりも「半島」に面していて、交通の要衝であるという利点が大きかったものと見られます。それに対し「肥(日)の国」は「半島」や「本州」とある意味隔絶していますから、安全度は高く「守備」には最適ですが、より積極的な交渉を望むなら「筑紫」に進出するのが当然ともいえるでしょう。
(あるいは、「阿蘇山」の活動が活発になったため、筑後川沿いに北上した場所に「避難」の意味も込め、遷都したという事も考えられるでしょう。)
この時点では「竹斯」は「竹斯前・竹斯後」に分けられたとみられますが、「竹斯後」が「肥」の国の一部であったことから実際には「竹斯」の拡大であり、「肥」の縮小となります。つまりその時点で「肥」も「肥前」「肥後」に分けられたものと思われることとなりますが、それは必然的に「肥」の占める比重の低下を意味するものであり、権力中心の移動による地域の盛衰を示していると思われます。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2018/08/10)