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「太宰府」について


 
 「筑紫」の地に「太宰府」が存在しています。この「太宰府」に関しては正規の史書である『日本書紀』には、いつ、だれが設置を命じたか、についての記録がなく、初代長官などの選任の記録もないなど、いつの間にか存在していて、突然歴史上に唐突に現れてくる形になっています。
 他にも、同じ「筑紫」という地域において「朝鮮式山城」である「大野城」や「基肄城」、および「水城」などを百済から帰化した人物に「修造」させた記事が日本書紀にあります。この場合の「修造」とは修理、改造することを意味し、「初めて」建設したという意味ではありません。当然、以前から存在していたものを「修理」「改造」したのです。そして『書紀』中にはこれらについての「建設記事」がなく、その点はそれらにより防備されるべき存在であるはずの「太宰府」についても同様で、その築造に関しての記録が全くないのです。