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『書紀』に見る太宰府


 『書紀』には「太宰府」や「筑紫太宰」について、設置記事や、長官(「帥」や「率」等)などの「選任」記事が見あたらず、いきなり「筑紫太宰」からの報告があった、と書かれています。

 「推古天皇十七年(六〇九)四月丁酉朔庚子。筑紫太宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

 『書紀』ではこの「六〇九年」の『推古紀』の記事が「筑紫太宰」の初出なのです。本来、このような重要な官衙についてはその設置とその責任者についての「詔」や「高官」の命令などの記録は当然あったものと考えられ、それが「ない」ということ自体がはなはだ不審であると思われます。

 他にも、同じ筑紫地域において「朝鮮式山城」である「大野城」や「基肄城」、および「水城」などを百済から帰化した人物に「修造」させた記事が『書紀』にありますが、この場合の「修造」とは修理、改造することを意味し、「初めて」建設したという意味ではありません。そして『書記』中にはこれらについての「建設記事」がなく、その点はそれらにより防備されるべき存在であるはずの「太宰府」についても同様であり、その築造に関しての記録が全くないのです。

 また、これら太宰府周辺の建物の築造時期に関して科学的調査をしたところ、「水城」では堀から出た「樋」を「C14年代測定」により測定した結果どんなに新しくても「四〇〇年」程度であるという結果が出ています。また、外交使節を迎えるための「鴻臚館」の同じく「樋」の年代測定を実施したところ、一番新しいもので「六五五年」のものがあったようですが、ほとんどは四世紀後半から六世紀のもの、という結果が出ました。
 また、「狼煙」を上げる為に対馬に築かれた要塞である「金田城」についても同様の測定で「七世紀半ば」と判明しています。いずれの場合も重要なのは「白村江」の戦い(六六三年)の「前」である、ということであり、『書紀』の記載(「白村江の戦い」の後に設置を命じた)とは異なっており、すでにそれ以前からあった、ということである点が重要です。これらの城などが戦争の前に設置されていた、というのはある意味自然であり、「白村江の戦い」の後に作られた、という記事の信憑性が疑われるのは当然ということとなるでしょう。

 この『推古紀』の記事はそこに出てくる「呉国」という表現からも「南朝」がまだ存在していた時期のものとも考えられ、「遣隋使」記事と共に「二十年程度」遡上すると考えられ、「隋初」付近の年次が想定されます。この時点で「筑紫太宰」記事の初出となる、ということは、「筑紫」に「倭京」が作られる「六一八年」の遙か以前に、「太宰」が「筑紫」に設定されたことを意味します。当然それは「都城」そのものの成立と「ほぼ」同時と考えられますが、『隋書俀国伝』に記された「都城」はその行程等地理的記事から「筑紫」ではなく「肥」の国(後の「肥後」)に所在したものと推定され、「筑紫大宰」は「筑紫都城」の成立に関わるとすると『俀国伝』記事とは異なると見られます。つまり「筑紫都城」は「肥」から「筑紫」を進出した時点付近で「磐井」により造られたものであり、それを「物部」が奪取して以降「倭王権」の支配からはずれていたものです。その「筑紫都城」を「物部」から奪還して以降「筑紫大宰」を設置したという想定が最も蓋然性が高いと考えます。

 また「倭の五王」の時代とその「南朝」への遣使という行動との関連から考えても「倭国」の首都には「南朝」に深く関連した「都城」があったと見るのは自然です。その後「倭王権」は「筑紫」を「物部」から奪還したわけであり、その時点で「筑紫」に「太宰」をおいたとみるべきでしょう。
 「阿毎多利思北孤」は彼の配下の有力者(可能性としては太子とされる「利歌彌多仏利」もありうるか)を「太宰」として「筑紫」の「倭京」に所在させ、「何か」(外国との交渉に関することが主であると考えられますが)があると「難波」にいる自分に知らせるような体制に変わったものと考えられます。
 つまり、「筑紫太宰」記事がこれ以前には存在しないのは偶然ではなく、「倭国王権」の「難波」への進出という国内体制の変化を反映した結果と考えられます。また、遺跡から確認される「太宰府政庁第Ⅰ期」よりも以前に「プレⅠ期」とでも云うべき段階があったと見られており、その形式が「隋」との交渉から得た知識を反映する以前の「都城」のタイプであって、「都城」の中心領域に「宮域」があった「周礼」形式であり、これは「六世紀後半」を遡上する時期にその創建年次が想定されるものです。
 この「太宰」は「南朝」では重要な役職でしたが、「遣隋使」を派遣した「隋」など「北朝」では「神祇」などを司るだけの限定的な職掌としての存在でした。つまり、この「倭国」における「太宰」は「南朝」の影響下においての使用法という可能性が考えられ、「遣隋使」以前から「太宰」は倭国内に存在していたという可能性が考えられることとなります。そうであれば『書紀』の「七世紀代」にいくつか「太宰」記事が見えるのは不審と云うこととなります。「隋」に影響を受けたと考えられるのは、「総領」であり、『常陸國風土記』や『書紀』などに散見されます。これは「隋制」下において「州」には「総管」という主に軍事に関わる職掌があり、これを模したものと推定されます。
 『書紀』や『続日本紀』上でも「大宰」と「総領」が同居しているように見えますが、同じような職掌が別にあるというのは明らかに不審ですから、この「六〇九年」の記事以降に見える『書紀』における「大宰」関係の記事については「疑い」が持たれます。
 後でも述べますが、『続日本紀』には「始めて」記事がかなりあり、その解析から「記事」がその真の年次から移動されて書かれていることが推測されます。この「大宰」記事についても同様の疑いがあることと思われるわけです。
 
 『書紀』では『舒明紀』にはかなりの数の「高麗」「百済」「唐」などからの使者が来ていますが、一切「筑紫大宰」からそれを知らせる、という形式にはなっておらず、いきなり「饗高麗。百濟客於朝」というような記述になっています。このことはこの「舒明」記事が本来「筑紫」に朝廷があった時点の記事であることを推定させるものです。つまり「遣隋使」などを送る以前のことではなかったかと考えられるわけです。
 その後「六四三年」になって再び「筑紫大宰」から報告が来ることとなります。

「皇極天皇二年(六四三)四月庚子廿一 筑紫大宰馳騨奏曰。百済國主兒翹岐弟王子共調使來。」

 これは「難波」に副都を設けた以降のことと考えられ、「六世紀の終わり頃」が想定できるでしょう。
 この後「筑紫大宰」が出てくるのは「六四九年」の「蘇我日向臣」の讒言事件の際の記事ですが、これも同様に年次移動の可能性が考えられ、信憑性が薄いと考えられます。
 彼は『二中歴』の「都督歴」において「都督」の第一号とされているようですから、「筑紫」の都において「倭国王」の代理としての総責任者であったものと推察されます。


(この項の作成日 2011/04/25、最終更新 2020/01/04)